根本明「潮干のつと」、山田亮太「戦意昂揚詩」、有馬敲「ほら吹き将軍」(「現代詩手帖」2014年12月号)
根本明「潮干のつと」(初出『海神のいます処』5月)。詩集の感想を書いたとき、何か書いたはずだが、忘れてしまった。同じことを書くかもしれない。まったく違ったことを書くかもしれない。
この3行がとても好きだ。
「しおひのつと」という音を口にするとき、ひとは何を思うのだろう。根本は何を思うのだろう。私は、あらゆることばに無知で、この「しおひのつと」の「意味」がよくわからないのだが、わからないままに魅力を感じる。
(「潮干のつと」については、根本が「潮干のつととは/海神に下賜された恩寵の謂い/あまねく潮干のつとでないものはなかった」と言っているので、干潮のとき海からもたらされるもの、たとえば貝とか昆布とかだろう。)
「しおひのつと」には音の魅力がある。「潮干(しおひ)」は「しおひ」と読むのか、「しおひ」と書くけれど「しおい」なのか。私には「お+ひ」という音は発音しにくい。「つと」は「しおひ」の弱い子音とは違って強い子音が動いている。「つと」の「つ」は、話し慣れてくると母音が脱落して子音だけになるかもしれないが、私はそのことばを知らないのではっきり子音と母音を音にしてしまう。「しおひ」は聞いたことはないが漢字で読んでしまったので干潮のときという意味がわかる。で、意味のわかることばはどうしても早口になって「ひ」のなかの子音(H)が邪魔になり、読みとばしたくなるのだ。
脱線したかな?
こういう意味が半分わかって半分わからない、そして音も正確にはどう発音していいかわからないことばというのは、一種の「いのり」に似ている。こどものときに聞く、おとなの「いのり」。何を言っているかわからない。音も意味も不正確。しかし、それを口真似すると何かがわかる。「声」のなかにある、何かに働きかけようとする力のようなものを感じる。人間の力ではできないことを、ことばの力で動かす感じだな。「いのり」というのは。
で、それが「弦月のように東岸の潮をひきしぼり」と、干潮を引き起こす。海の潮が引くと、潮干狩り。海の幸を、海に入らずに取ることができる。そのよろこびが、そのことばからあふれてくる。
ことばと宇宙(干満の動き)が、まだ、生きていた時代。野蛮というか、原始的というか、あるいは「絶対的」というか。あらゆるものの形が定まっていない「混沌」の魅力がそこにある。ことばにすることによって、世界が生まれてくるときの生々しい動きが、肉体に直接響いてくる感じがする。こういうとき、ことばの「意味」ははっきりわかってしまうといけないのだと思う。はっきりわかると、ことばの「限界」もわかってしまうから。半分わかって半分わからない。このいいかげん(?)な感じが、きっと「もの/こと」を動かしていくんだなあ。宇宙と呼応するんだなあ、と私は感じる。
で、この感じは、私にはセックスを思い起こさせる。セックスというのは半分わかって、半分わからない。「わかっている」というのも勘違いかもしれない。でも、わかっていようと、わからないままであろうと、肉体は交わって、快感をむさぼってしまう。限界がわからなくなり、私が私ではなくなる、私が私の外に出てしまう--エクスタシー。
潮干狩りだから、貝を取る。貝はどうしたって女性性器である。まわりには昆布などの海藻もあるだろう。それは陰毛である。裸の男女が、そういうものを取りながら話すとなれば、どうしたってセックスがからんでくる。明るい光のなかで、きのうの夜を思い、あるいは今夜のことを夢みて、猥雑なことをほのめかし、笑いあう。その豊かさのなかに、「豊漁」もある。
「草書のように乱した歌」とは「猥歌」であろう。そのことばは、こどもにはやはり半分わかって、半分わからない。「草書」だから「楷書」のようになじんでいないが、おぼろげな形をしかわからない。「正解」と「誤解」のあいだをゆらいでしまう。そんな感じで、「意味」はわからないけれど、「あのこと」だとわかる。「あのこと」もほんとうは半分わかって半分わからない。おとなになったら全部わかると「肉体」でわかっている。「あのことだよ」「あのことって?」「あ、ごめん、まだ知らないんだね」というようなこどもの知ったかぶりの会話みたいな感じだね。そのなかにかいま見える「絶対」の印象。
この「神話」のような、根源的な力。それが、いま引用した部分に凝縮している。
根本の詩は、そういう宇宙の神話(海辺の神話)のようなものが、コンビナートによって破壊されている現実を批判しているのだが、その批判は「神話」が魅力的であればあるほど強烈になる。根本の書いていることばは、私には強烈に響いてくる。「音」として聞こえてくる。
*
山田亮太「戦意昂揚詩」(「アフンルパル通信」14、5月)の1連目。
文章が、不思議な感じで切断/接続している。「意味」をつかみ取ろうとするとことばを補わないといけない。たとえば2行目の「さようなら」のあとに「と言う」とか。でも、もし「さようならと言う」ならば、そのあとには「最初の朝」、あるいは「最後の朝」が必要になるのかなあ。もし、「と言う」を補ってしまったら、それは「誤読」になるのか、正しく読んだことになるのか。
「意味」をつかみ取ると「意味」を捏造するは、どう違うだろう。そういうことも気になってしまう。
山田はこの1連目を、少しずつ変えながら、何度も何度も書き直している。
この不思議なことばの接続(切断)は、根本の書いている「いのり」に通じると思う。半分わかって、半分わからない。そういう状態のまま、ひとりひとりが動く。
*
有馬敲「ほら吹き将軍」の「77」(初出『ほら吹き将軍』6月)には藤圭子(その後、名前の表記を変えたようだが)をまねする「ほら吹き将軍」が登場する。
私は藤圭子の歌では「新宿の女」がいちばん好きだ。デビュー作(最初のヒット曲?)だから印象が強いのだろう。
私は音痴なので、有馬の詩を読みながら「ドスのきいた低音で」にとてもびっくりした。そうか、藤圭子は「低音」だったのか。たしかに思い出すと低い声かもしれない。でも、私には「低い声」という「感じ方」はなかった。声の高い低いではない、別なものをきいていたのだと思う。「意味」でもない。のどが窮屈な感じ。のどが苦しい感じ。声を出すときのどが苦しい--そのときの感情のようなもの。「うれしい」とは反対の何か。「うれしい」ではないということはわかるが、それでは何かというと、こどもの私にはわからなかった。
私はいつでも、わからないけれど、何かが「わかる」と錯覚する(錯覚させてくれる)ものが好きだ。
脱線した。
この詩の「ほら吹き将軍」とは誰だろう。架空の人物か。架空の人物に仮託した有馬のことか。わからない。「ほら吹き将軍」が男であり、男だから「女装」している、ということは「わかる」。自分ではないものになりたいのか、あるいは他人から定義される「自分」というものから脱出したいのか。言いかえると、「ほんとうの自分」に還りたいのか。わからない。わからないけれど、「いま/ここ」に満足していないことは感じる。
それが藤圭子の姿にも、藤圭子が歌った「女」の姿にも見える。
「わかる」は、きっと、あとから、思い出したようにやってくるものなのだろう。それまでは、「ほら吹き将軍」が「女装」する、嘘をつくように、嘘で何かをつかみ取るふりをするしかない。そんな余裕のなさ(?)みたいなものが、藤圭子の硬い声の響き(音)の中にあったように思う。
また脱線した。
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根本明「潮干のつと」(初出『海神のいます処』5月)。詩集の感想を書いたとき、何か書いたはずだが、忘れてしまった。同じことを書くかもしれない。まったく違ったことを書くかもしれない。
しおひのつと、と
祈りのように口ずさむと言葉は
弦月のように東岸の潮をひきしぼり
この3行がとても好きだ。
「しおひのつと」という音を口にするとき、ひとは何を思うのだろう。根本は何を思うのだろう。私は、あらゆることばに無知で、この「しおひのつと」の「意味」がよくわからないのだが、わからないままに魅力を感じる。
(「潮干のつと」については、根本が「潮干のつととは/海神に下賜された恩寵の謂い/あまねく潮干のつとでないものはなかった」と言っているので、干潮のとき海からもたらされるもの、たとえば貝とか昆布とかだろう。)
「しおひのつと」には音の魅力がある。「潮干(しおひ)」は「しおひ」と読むのか、「しおひ」と書くけれど「しおい」なのか。私には「お+ひ」という音は発音しにくい。「つと」は「しおひ」の弱い子音とは違って強い子音が動いている。「つと」の「つ」は、話し慣れてくると母音が脱落して子音だけになるかもしれないが、私はそのことばを知らないのではっきり子音と母音を音にしてしまう。「しおひ」は聞いたことはないが漢字で読んでしまったので干潮のときという意味がわかる。で、意味のわかることばはどうしても早口になって「ひ」のなかの子音(H)が邪魔になり、読みとばしたくなるのだ。
脱線したかな?
こういう意味が半分わかって半分わからない、そして音も正確にはどう発音していいかわからないことばというのは、一種の「いのり」に似ている。こどものときに聞く、おとなの「いのり」。何を言っているかわからない。音も意味も不正確。しかし、それを口真似すると何かがわかる。「声」のなかにある、何かに働きかけようとする力のようなものを感じる。人間の力ではできないことを、ことばの力で動かす感じだな。「いのり」というのは。
で、それが「弦月のように東岸の潮をひきしぼり」と、干潮を引き起こす。海の潮が引くと、潮干狩り。海の幸を、海に入らずに取ることができる。そのよろこびが、そのことばからあふれてくる。
ことばと宇宙(干満の動き)が、まだ、生きていた時代。野蛮というか、原始的というか、あるいは「絶対的」というか。あらゆるものの形が定まっていない「混沌」の魅力がそこにある。ことばにすることによって、世界が生まれてくるときの生々しい動きが、肉体に直接響いてくる感じがする。こういうとき、ことばの「意味」ははっきりわかってしまうといけないのだと思う。はっきりわかると、ことばの「限界」もわかってしまうから。半分わかって半分わからない。このいいかげん(?)な感じが、きっと「もの/こと」を動かしていくんだなあ。宇宙と呼応するんだなあ、と私は感じる。
で、この感じは、私にはセックスを思い起こさせる。セックスというのは半分わかって、半分わからない。「わかっている」というのも勘違いかもしれない。でも、わかっていようと、わからないままであろうと、肉体は交わって、快感をむさぼってしまう。限界がわからなくなり、私が私ではなくなる、私が私の外に出てしまう--エクスタシー。
私は聴く
はだかの海人の男女が一列にかがみ
はるかな時の影に滲みながらすなどっていく
あの猥雑な哄笑を
潮干狩りだから、貝を取る。貝はどうしたって女性性器である。まわりには昆布などの海藻もあるだろう。それは陰毛である。裸の男女が、そういうものを取りながら話すとなれば、どうしたってセックスがからんでくる。明るい光のなかで、きのうの夜を思い、あるいは今夜のことを夢みて、猥雑なことをほのめかし、笑いあう。その豊かさのなかに、「豊漁」もある。
さらに聴く
海崖の松林で小さなものらが
草書のように乱した歌をうたうのを
幼い私もその中にあり
海神の御告げをうたっていたのではないか
「草書のように乱した歌」とは「猥歌」であろう。そのことばは、こどもにはやはり半分わかって、半分わからない。「草書」だから「楷書」のようになじんでいないが、おぼろげな形をしかわからない。「正解」と「誤解」のあいだをゆらいでしまう。そんな感じで、「意味」はわからないけれど、「あのこと」だとわかる。「あのこと」もほんとうは半分わかって半分わからない。おとなになったら全部わかると「肉体」でわかっている。「あのことだよ」「あのことって?」「あ、ごめん、まだ知らないんだね」というようなこどもの知ったかぶりの会話みたいな感じだね。そのなかにかいま見える「絶対」の印象。
この「神話」のような、根源的な力。それが、いま引用した部分に凝縮している。
根本の詩は、そういう宇宙の神話(海辺の神話)のようなものが、コンビナートによって破壊されている現実を批判しているのだが、その批判は「神話」が魅力的であればあるほど強烈になる。根本の書いていることばは、私には強烈に響いてくる。「音」として聞こえてくる。
*
山田亮太「戦意昂揚詩」(「アフンルパル通信」14、5月)の1連目。
きみにはおはようと言う最後の朝
さようならこの正しい場所の何が間違っているかを見る
自分の目によってではなく世界中のひとびと
未来のひとびとそして死んでしまったひとびとの目で
これは
きみひとりの選択だから
文章が、不思議な感じで切断/接続している。「意味」をつかみ取ろうとするとことばを補わないといけない。たとえば2行目の「さようなら」のあとに「と言う」とか。でも、もし「さようならと言う」ならば、そのあとには「最初の朝」、あるいは「最後の朝」が必要になるのかなあ。もし、「と言う」を補ってしまったら、それは「誤読」になるのか、正しく読んだことになるのか。
「意味」をつかみ取ると「意味」を捏造するは、どう違うだろう。そういうことも気になってしまう。
山田はこの1連目を、少しずつ変えながら、何度も何度も書き直している。
言いたいときに言いたいだけおはようと言う
さようならと言うここから逃げたいと思う気持ちも永遠ではないから
好きなものを好きなだけ食べる家で何もかもが正しいその正しさに挑む未来を
この不思議なことばの接続(切断)は、根本の書いている「いのり」に通じると思う。半分わかって、半分わからない。そういう状態のまま、ひとりひとりが動く。
*
有馬敲「ほら吹き将軍」の「77」(初出『ほら吹き将軍』6月)には藤圭子(その後、名前の表記を変えたようだが)をまねする「ほら吹き将軍」が登場する。
ほら吹き将軍はマスカラを付けた両眼を
京人形のように愛くるしく見開き
私ガ男ニナレタナラ 私ハ女ヲ捨テナイワ
とドスのきいた低音でスポットライトを浴びる
ほら吹き将軍が女装して行く
時代の波に巻き込まれて身動きできず
闇夜に花を咲かせた女歌手の死を悼みつつ
夢ハ夜ヒラク と帰り道で口ずさむ
私は藤圭子の歌では「新宿の女」がいちばん好きだ。デビュー作(最初のヒット曲?)だから印象が強いのだろう。
私は音痴なので、有馬の詩を読みながら「ドスのきいた低音で」にとてもびっくりした。そうか、藤圭子は「低音」だったのか。たしかに思い出すと低い声かもしれない。でも、私には「低い声」という「感じ方」はなかった。声の高い低いではない、別なものをきいていたのだと思う。「意味」でもない。のどが窮屈な感じ。のどが苦しい感じ。声を出すときのどが苦しい--そのときの感情のようなもの。「うれしい」とは反対の何か。「うれしい」ではないということはわかるが、それでは何かというと、こどもの私にはわからなかった。
私はいつでも、わからないけれど、何かが「わかる」と錯覚する(錯覚させてくれる)ものが好きだ。
脱線した。
この詩の「ほら吹き将軍」とは誰だろう。架空の人物か。架空の人物に仮託した有馬のことか。わからない。「ほら吹き将軍」が男であり、男だから「女装」している、ということは「わかる」。自分ではないものになりたいのか、あるいは他人から定義される「自分」というものから脱出したいのか。言いかえると、「ほんとうの自分」に還りたいのか。わからない。わからないけれど、「いま/ここ」に満足していないことは感じる。
それが藤圭子の姿にも、藤圭子が歌った「女」の姿にも見える。
「わかる」は、きっと、あとから、思い出したようにやってくるものなのだろう。それまでは、「ほら吹き将軍」が「女装」する、嘘をつくように、嘘で何かをつかみ取るふりをするしかない。そんな余裕のなさ(?)みたいなものが、藤圭子の硬い声の響き(音)の中にあったように思う。
また脱線した。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。