安藤元雄「アリアドネの糸」、川口晴美「越えて」、高貝弘也「白雲母」(「現代詩手帖」2014年12月号)
安藤元雄「アリアドネの糸」(初出「花椿」4月号)に「魂」ということばが出てくる。私は、自分から「魂」ということばをつかった記憶がない。「魂」というものを信じていないので、つかいにくいのである。他人が「魂」ということばをつかっているとき、何を指しているのかよくわからないのだが……。
安藤は「魂」をギリシャ神話を踏まえて「アリアドネの糸」(迷宮から脱出するための手がかり、頼みの手段)の「塊(毛糸をまるく固めたボールのようなもの)」と「比喩」にしている。
一瞬「魂」と「塊」の区別がつかなくなり、私は思わず辞書を引いて「漢字」を確かめてしまった。安藤が「塊」という文字に触発されて「魂」を「糸の塊」と思ったのかどうかわからないが、私は詩を転写しながら、一瞬混乱した。
その混乱のなかにあらわれてくる、2連目の「あれほど泣いたり笑ったりした痕跡を/手つかずに保ったまま」が、非常に印象に残る。私は、その「痕跡」をたとえばセーターをほどいたあとの毛糸の「乱れ」のように思い浮かべた。編むことでできる複雑なねじれ、その痕跡。毛糸のボールは、その痕跡をのばすために丸められるのだろうけれど、丸めたりのばしたりしても、まだ残っているねじれ。消えない何か。
その「ねじれ(痕跡)」が「魂」というのなら、それは、「わかるなあ」と感じた。
これは私の「誤読」なのだが。
私は「魂」というものを見たことがないし、信じていないが、一度編まれたセーターをほどいたときの毛糸に残っている「ねじれ(痕跡)」が「魂」というもの「比喩」なら、その「比喩」はわかる、知っている、と感じた。
それは、毛糸を見た記憶、そのまえのセーターを見た記憶、そのねじれ(痕跡)にさわった手の記憶である。--私は、「魂」は「肉眼」や「手」なのだと思いながら、安藤の詩を読もうとした。
けれど、4連目。
糸は尽きて、「魂」は「鎮ま」るのか。
うーん、わからない。想像できない。私には、やはり「魂」というものが、わからない。安藤は私の知らないことを書いている、ということが「わかる」だけである。
安藤がギリシャ神話と魂を結びつけていることも、「わからない」の理由かもしれない。私はギリシャ神話になじみがない。何かを考えるとき、ギリシャ神話を「比喩」にしようと思ったことがない。ことばの「習慣」が違うために、「わからない」が起きている。そういうことも、ふと考えた。
*
川口晴美「越えて」(初出「風鐸」4、4月)は線をひく喜びを書いている。こどものとき、校庭に線をひいて、
そのときの記憶、「体」が覚えていること(覚える、ときの体の何か)が、私には「魂」かなあ、と感じる。「肉体」のなかにしみ込んだ一続きの動き。線を引き、内側を島、外側を海と名づけること。名づけた瞬間に、そこに「海」が出現し、そこへ体をぶつけあった相手を突き落とそうとした、突き落とすという「こと」が「比喩」を通り越して、「肉体」には「海」が「現実」として出現した--そういう「ねじれ」。セーターを編んだときの毛糸に残る「ねじれ」。
こういうことをていねいに書いていけることばはいいなあ、と思う。
でも、
この「飛行機雲」の「比喩」には、私はついてゆけなかった。「飛行機雲」のあとにつづく「痛い」世界--それが川口の書きたいことかもしれないけれど、私は、ふいに何かを見失ってしまう。川口がわからなくなる。
校庭の「線」は自分の「肉体」で引くことができる。私には校庭に線を引いた記憶がある。肉体が、そのときの土の硬さを覚えていたりする。けれど「飛行機雲」は自分の肉体で引いた線ではないので、それを島と海の区切り(校庭に切り開かれた何か)や何かのようには「実感」できない。
「魂」は、どうも、私の「実感」とは遠いところにある。
こんな読み方をしてしまうと、きっと川口の書きたいこととは関係なくなってしまうのだが、安藤の詩を読んだあとなので、そんなことを考えた。
*
高貝弘也「白雲母」(「午前」5、4月)は、「肉体」で読む詩とは違う詩。安藤や川口の詩も「肉体」とは違うもので読んだらよかったのかもしれない。
では、何で読むのか。
自分自身の「肉体」ではなく、「ことばの肉体」。「日本語の肉体」。「文学の肉体」の方がいいのかな? あることばが「書かれる」(つかわれる)。そのときの、そのことばの「場」の記憶。「水皺」ということばがつかわれるときの、「水」全体、あるいは、そのときの光、それを見つめる人間の思いが「ひとつの場」をつくる。その「言語空間」と呼吸する別の「言語空間」。その「呼吸」としての、「ことばの肉体」。それが高貝のことばを出現させている。
こういう「抽象的」な言い方は、あまりよくないかもしれない。
具体的ではないから、どうとでも言える。
「感覚的」な論理であり、検証のしようがない。
でも、まあ、強引に「検証」してみれば……。
「うすい」は「弱い」。だから「幼」ということばとなんとなく呼吸しあっているのがわかる。「うすい」は「白」にも重なり合う。「濃い」白というものもあるだろうけれど、ほかの色に比べると「白」は「うすい」。「雲母」自体も「うすい」層でできている。「水」が「雲母」のように、いくつもの「うすい」層でできていて、そこに「幼い(弱い)」魚がいる。そして、その魚は「泣いている」。「弱い」から「泣いている」。「強い」こども(幼い子)は泣かない。
何かが「共通」する。「ことばの共通感覚」がある。
で、これが次のように変化する。
「うすい」(よわい)は「はっきりしない」。「あいだ」があいまい。川口の書いている詩のように「線」が明確ではない。「水の層のあいだ」が生と死の「あいだ」と通い合い、その「あいだ」そのものが「漂う」ようにも感じられる。
「うすい」(はっきりしない)は「性のない子」(性の区別がない、はっきりしない子)になって、何かを見るのではなく、「目を閉じて」いる。明確な識別を避けている。
という具合に、揺らぐ。
この揺らぎの「呼吸」が高貝の「ことばの肉体」そのもの。
--と、書いてきて、安藤元雄の詩は、「日本語の肉体」ではなく「外国語の肉体」から読み直せば、また違ったところへ感想が動いていくかもしれないとも思った。ギリシャ神話を含む「ヨーロッパのことばの肉体」から読み直せば「魂」も違って見えるかもしれない。
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安藤元雄「アリアドネの糸」(初出「花椿」4月号)に「魂」ということばが出てくる。私は、自分から「魂」ということばをつかった記憶がない。「魂」というものを信じていないので、つかいにくいのである。他人が「魂」ということばをつかっているとき、何を指しているのかよくわからないのだが……。
乾いた道の上を
ちっぽけな一つの魂が
どこまでもころげて行く
吹く風に押され
追いやられるままに
よろめいて行く
ころげながら 魂は
少しずつほどけて
ひとすじの糸を
あとへ残す
あれほど泣いたり笑ったりした痕跡を
手つかずに保ったまま
安藤は「魂」をギリシャ神話を踏まえて「アリアドネの糸」(迷宮から脱出するための手がかり、頼みの手段)の「塊(毛糸をまるく固めたボールのようなもの)」と「比喩」にしている。
一瞬「魂」と「塊」の区別がつかなくなり、私は思わず辞書を引いて「漢字」を確かめてしまった。安藤が「塊」という文字に触発されて「魂」を「糸の塊」と思ったのかどうかわからないが、私は詩を転写しながら、一瞬混乱した。
その混乱のなかにあらわれてくる、2連目の「あれほど泣いたり笑ったりした痕跡を/手つかずに保ったまま」が、非常に印象に残る。私は、その「痕跡」をたとえばセーターをほどいたあとの毛糸の「乱れ」のように思い浮かべた。編むことでできる複雑なねじれ、その痕跡。毛糸のボールは、その痕跡をのばすために丸められるのだろうけれど、丸めたりのばしたりしても、まだ残っているねじれ。消えない何か。
その「ねじれ(痕跡)」が「魂」というのなら、それは、「わかるなあ」と感じた。
これは私の「誤読」なのだが。
私は「魂」というものを見たことがないし、信じていないが、一度編まれたセーターをほどいたときの毛糸に残っている「ねじれ(痕跡)」が「魂」というもの「比喩」なら、その「比喩」はわかる、知っている、と感じた。
それは、毛糸を見た記憶、そのまえのセーターを見た記憶、そのねじれ(痕跡)にさわった手の記憶である。--私は、「魂」は「肉眼」や「手」なのだと思いながら、安藤の詩を読もうとした。
けれど、4連目。
そう しかしいずれ
糸は尽き果て
魂もそこに鎮まり
私は途方にくれるほかなくなりそうだ
こんな見知らぬ街の
四つ辻にただ立ち尽くして
糸は尽きて、「魂」は「鎮ま」るのか。
うーん、わからない。想像できない。私には、やはり「魂」というものが、わからない。安藤は私の知らないことを書いている、ということが「わかる」だけである。
安藤がギリシャ神話と魂を結びつけていることも、「わからない」の理由かもしれない。私はギリシャ神話になじみがない。何かを考えるとき、ギリシャ神話を「比喩」にしようと思ったことがない。ことばの「習慣」が違うために、「わからない」が起きている。そういうことも、ふと考えた。
*
川口晴美「越えて」(初出「風鐸」4、4月)は線をひく喜びを書いている。こどものとき、校庭に線をひいて、
線を引いていく最初と最後をぐるりつないだらほら大きな島だ
線の外側は海
やわらかい土のうえ歪な花のようにひらいたぼくたちの島に
たからものを隠して休み時間のあいだじゅう
おたがいを海に落っことそうと体をぶつけあった
そのときの記憶、「体」が覚えていること(覚える、ときの体の何か)が、私には「魂」かなあ、と感じる。「肉体」のなかにしみ込んだ一続きの動き。線を引き、内側を島、外側を海と名づけること。名づけた瞬間に、そこに「海」が出現し、そこへ体をぶつけあった相手を突き落とそうとした、突き落とすという「こと」が「比喩」を通り越して、「肉体」には「海」が「現実」として出現した--そういう「ねじれ」。セーターを編んだときの毛糸に残る「ねじれ」。
こういうことをていねいに書いていけることばはいいなあ、と思う。
でも、
それで見上げたら頭上はるか飛行機雲が伸びていたりするんだ
あれはきっと空を切り開くためにしるされた線
この「飛行機雲」の「比喩」には、私はついてゆけなかった。「飛行機雲」のあとにつづく「痛い」世界--それが川口の書きたいことかもしれないけれど、私は、ふいに何かを見失ってしまう。川口がわからなくなる。
校庭の「線」は自分の「肉体」で引くことができる。私には校庭に線を引いた記憶がある。肉体が、そのときの土の硬さを覚えていたりする。けれど「飛行機雲」は自分の肉体で引いた線ではないので、それを島と海の区切り(校庭に切り開かれた何か)や何かのようには「実感」できない。
「魂」は、どうも、私の「実感」とは遠いところにある。
こんな読み方をしてしまうと、きっと川口の書きたいこととは関係なくなってしまうのだが、安藤の詩を読んだあとなので、そんなことを考えた。
*
高貝弘也「白雲母」(「午前」5、4月)は、「肉体」で読む詩とは違う詩。安藤や川口の詩も「肉体」とは違うもので読んだらよかったのかもしれない。
では、何で読むのか。
そうして水皺(みじわ)、
白雲母(しろうんも)
檜
乳酪いろの、平石
子手鞠
自分自身の「肉体」ではなく、「ことばの肉体」。「日本語の肉体」。「文学の肉体」の方がいいのかな? あることばが「書かれる」(つかわれる)。そのときの、そのことばの「場」の記憶。「水皺」ということばがつかわれるときの、「水」全体、あるいは、そのときの光、それを見つめる人間の思いが「ひとつの場」をつくる。その「言語空間」と呼吸する別の「言語空間」。その「呼吸」としての、「ことばの肉体」。それが高貝のことばを出現させている。
こういう「抽象的」な言い方は、あまりよくないかもしれない。
具体的ではないから、どうとでも言える。
「感覚的」な論理であり、検証のしようがない。
でも、まあ、強引に「検証」してみれば……。
うすい幼魚
白雲母と水の層のあいだで、
泣いている
泣いている
「うすい」は「弱い」。だから「幼」ということばとなんとなく呼吸しあっているのがわかる。「うすい」は「白」にも重なり合う。「濃い」白というものもあるだろうけれど、ほかの色に比べると「白」は「うすい」。「雲母」自体も「うすい」層でできている。「水」が「雲母」のように、いくつもの「うすい」層でできていて、そこに「幼い(弱い)」魚がいる。そして、その魚は「泣いている」。「弱い」から「泣いている」。「強い」こども(幼い子)は泣かない。
何かが「共通」する。「ことばの共通感覚」がある。
で、これが次のように変化する。
--わたしは 死んでいるのか
生とのあいだ 漂っているのか
性のない子が、
いっせいに 目を閉じて
「うすい」(よわい)は「はっきりしない」。「あいだ」があいまい。川口の書いている詩のように「線」が明確ではない。「水の層のあいだ」が生と死の「あいだ」と通い合い、その「あいだ」そのものが「漂う」ようにも感じられる。
「うすい」(はっきりしない)は「性のない子」(性の区別がない、はっきりしない子)になって、何かを見るのではなく、「目を閉じて」いる。明確な識別を避けている。
という具合に、揺らぐ。
この揺らぎの「呼吸」が高貝の「ことばの肉体」そのもの。
--と、書いてきて、安藤元雄の詩は、「日本語の肉体」ではなく「外国語の肉体」から読み直せば、また違ったところへ感想が動いていくかもしれないとも思った。ギリシャ神話を含む「ヨーロッパのことばの肉体」から読み直せば「魂」も違って見えるかもしれない。
高貝弘也詩集 (現代詩文庫) | |
高貝 弘也 | |
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
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