詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安藤元雄「アリアドネの糸」、川口晴美「越えて」、高貝弘也「白雲母」

2014-12-22 09:30:01 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
安藤元雄「アリアドネの糸」、川口晴美「越えて」、高貝弘也「白雲母」(「現代詩手帖」2014年12月号)


 安藤元雄「アリアドネの糸」(初出「花椿」4月号)に「魂」ということばが出てくる。私は、自分から「魂」ということばをつかった記憶がない。「魂」というものを信じていないので、つかいにくいのである。他人が「魂」ということばをつかっているとき、何を指しているのかよくわからないのだが……。

乾いた道の上を
ちっぽけな一つの魂が
どこまでもころげて行く
吹く風に押され
追いやられるままに
よろめいて行く

ころげながら 魂は
少しずつほどけて
ひとすじの糸を
あとへ残す
あれほど泣いたり笑ったりした痕跡を
手つかずに保ったまま

 安藤は「魂」をギリシャ神話を踏まえて「アリアドネの糸」(迷宮から脱出するための手がかり、頼みの手段)の「塊(毛糸をまるく固めたボールのようなもの)」と「比喩」にしている。
 一瞬「魂」と「塊」の区別がつかなくなり、私は思わず辞書を引いて「漢字」を確かめてしまった。安藤が「塊」という文字に触発されて「魂」を「糸の塊」と思ったのかどうかわからないが、私は詩を転写しながら、一瞬混乱した。
 その混乱のなかにあらわれてくる、2連目の「あれほど泣いたり笑ったりした痕跡を/手つかずに保ったまま」が、非常に印象に残る。私は、その「痕跡」をたとえばセーターをほどいたあとの毛糸の「乱れ」のように思い浮かべた。編むことでできる複雑なねじれ、その痕跡。毛糸のボールは、その痕跡をのばすために丸められるのだろうけれど、丸めたりのばしたりしても、まだ残っているねじれ。消えない何か。
 その「ねじれ(痕跡)」が「魂」というのなら、それは、「わかるなあ」と感じた。
 これは私の「誤読」なのだが。
 私は「魂」というものを見たことがないし、信じていないが、一度編まれたセーターをほどいたときの毛糸に残っている「ねじれ(痕跡)」が「魂」というもの「比喩」なら、その「比喩」はわかる、知っている、と感じた。
 それは、毛糸を見た記憶、そのまえのセーターを見た記憶、そのねじれ(痕跡)にさわった手の記憶である。--私は、「魂」は「肉眼」や「手」なのだと思いながら、安藤の詩を読もうとした。
 けれど、4連目。

そう しかしいずれ
糸は尽き果て
魂もそこに鎮まり
私は途方にくれるほかなくなりそうだ
こんな見知らぬ街の
四つ辻にただ立ち尽くして

 糸は尽きて、「魂」は「鎮ま」るのか。
 うーん、わからない。想像できない。私には、やはり「魂」というものが、わからない。安藤は私の知らないことを書いている、ということが「わかる」だけである。
 安藤がギリシャ神話と魂を結びつけていることも、「わからない」の理由かもしれない。私はギリシャ神話になじみがない。何かを考えるとき、ギリシャ神話を「比喩」にしようと思ったことがない。ことばの「習慣」が違うために、「わからない」が起きている。そういうことも、ふと考えた。



 川口晴美「越えて」(初出「風鐸」4、4月)は線をひく喜びを書いている。こどものとき、校庭に線をひいて、

線を引いていく最初と最後をぐるりつないだらほら大きな島だ
線の外側は海
やわらかい土のうえ歪な花のようにひらいたぼくたちの島に
たからものを隠して休み時間のあいだじゅう
おたがいを海に落っことそうと体をぶつけあった

 そのときの記憶、「体」が覚えていること(覚える、ときの体の何か)が、私には「魂」かなあ、と感じる。「肉体」のなかにしみ込んだ一続きの動き。線を引き、内側を島、外側を海と名づけること。名づけた瞬間に、そこに「海」が出現し、そこへ体をぶつけあった相手を突き落とそうとした、突き落とすという「こと」が「比喩」を通り越して、「肉体」には「海」が「現実」として出現した--そういう「ねじれ」。セーターを編んだときの毛糸に残る「ねじれ」。
 こういうことをていねいに書いていけることばはいいなあ、と思う。
 でも、

それで見上げたら頭上はるか飛行機雲が伸びていたりするんだ
あれはきっと空を切り開くためにしるされた線

 この「飛行機雲」の「比喩」には、私はついてゆけなかった。「飛行機雲」のあとにつづく「痛い」世界--それが川口の書きたいことかもしれないけれど、私は、ふいに何かを見失ってしまう。川口がわからなくなる。
 校庭の「線」は自分の「肉体」で引くことができる。私には校庭に線を引いた記憶がある。肉体が、そのときの土の硬さを覚えていたりする。けれど「飛行機雲」は自分の肉体で引いた線ではないので、それを島と海の区切り(校庭に切り開かれた何か)や何かのようには「実感」できない。
 「魂」は、どうも、私の「実感」とは遠いところにある。
 こんな読み方をしてしまうと、きっと川口の書きたいこととは関係なくなってしまうのだが、安藤の詩を読んだあとなので、そんなことを考えた。



 高貝弘也「白雲母」(「午前」5、4月)は、「肉体」で読む詩とは違う詩。安藤や川口の詩も「肉体」とは違うもので読んだらよかったのかもしれない。
 では、何で読むのか。

そうして水皺(みじわ)、
白雲母(しろうんも)



乳酪いろの、平石
子手鞠

 自分自身の「肉体」ではなく、「ことばの肉体」。「日本語の肉体」。「文学の肉体」の方がいいのかな? あることばが「書かれる」(つかわれる)。そのときの、そのことばの「場」の記憶。「水皺」ということばがつかわれるときの、「水」全体、あるいは、そのときの光、それを見つめる人間の思いが「ひとつの場」をつくる。その「言語空間」と呼吸する別の「言語空間」。その「呼吸」としての、「ことばの肉体」。それが高貝のことばを出現させている。
 こういう「抽象的」な言い方は、あまりよくないかもしれない。
 具体的ではないから、どうとでも言える。
 「感覚的」な論理であり、検証のしようがない。
 でも、まあ、強引に「検証」してみれば……。

うすい幼魚
白雲母と水の層のあいだで、

泣いている
泣いている

 「うすい」は「弱い」。だから「幼」ということばとなんとなく呼吸しあっているのがわかる。「うすい」は「白」にも重なり合う。「濃い」白というものもあるだろうけれど、ほかの色に比べると「白」は「うすい」。「雲母」自体も「うすい」層でできている。「水」が「雲母」のように、いくつもの「うすい」層でできていて、そこに「幼い(弱い)」魚がいる。そして、その魚は「泣いている」。「弱い」から「泣いている」。「強い」こども(幼い子)は泣かない。
 何かが「共通」する。「ことばの共通感覚」がある。
 で、これが次のように変化する。

--わたしは 死んでいるのか
  生とのあいだ 漂っているのか

性のない子が、
いっせいに 目を閉じて

 「うすい」(よわい)は「はっきりしない」。「あいだ」があいまい。川口の書いている詩のように「線」が明確ではない。「水の層のあいだ」が生と死の「あいだ」と通い合い、その「あいだ」そのものが「漂う」ようにも感じられる。
 「うすい」(はっきりしない)は「性のない子」(性の区別がない、はっきりしない子)になって、何かを見るのではなく、「目を閉じて」いる。明確な識別を避けている。
 という具合に、揺らぐ。
 この揺らぎの「呼吸」が高貝の「ことばの肉体」そのもの。

 --と、書いてきて、安藤元雄の詩は、「日本語の肉体」ではなく「外国語の肉体」から読み直せば、また違ったところへ感想が動いていくかもしれないとも思った。ギリシャ神話を含む「ヨーロッパのことばの肉体」から読み直せば「魂」も違って見えるかもしれない。

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本のなかを、

2014-12-22 00:54:36 | 
本のなかを、

本のなかを走っている鉄道を八時間かけてたどりついた冬の朝、
ことばは、ホテルのベッドに横たわっている男を書きはじめる。
突然降りはじめた雨が窓の外側を流れている。
その向こうで葉を落とした梢が激しく揺れ、影が乱れた。
ことばは、音楽会に行くべきかどうか思案している男を書くべきかどうか迷っている。
男はまったく希望を持っていない--二度手術をしたあとの父のように。
そう書くのに音楽会と雨は似つかわしいのかどうか。

しかし、それはあしたの朝のことであって、いまは夜。
枕元のスタンドの黄色い光は、広げたノートのうえに鉛筆が小さな影をつくっている。
書こうとして書けないことの、




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