詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

四元康祐「images & words 言葉の供え物2」、春日井建「デスモスチルス」、北川朱実「夏の音」

2014-12-24 09:37:08 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
四元康祐「images & words 言葉の供え物2」、春日井建「デスモスチルス」、北川朱実「夏の音」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 四元康祐「images & words 言葉の供え物2」(初出「びーぐる」23、4月)は写真と詩が一体になっている。写真は引用できない。街角でだれかがシャドーボクシングをしている。

あなたが未だ書かざる詩の一行の
僕は孤独なシャドウ・ボクサー
ことばをタップ、ピンチ、そしてスワイプ!
叩きつける雨足の向こうにひろがる夕焼けの端っこで
いつか一緒に泣けたらいいね

 写真が先にあって、ことばを後から書いたのだろう。あまりに写真とことばが一体になりすぎていて(説明になりすぎていて)、おもしろみに欠ける。ことばの自立性がない。ことばがどこへ行ってしまうのか、という不安になることがない。雨とは対極(?)にある「夕焼け」がおもしろくない。「いつか一緒に泣けたらいいね」というセンチメンタルもいやだなあ、と思う。



 春日井建「デスモスチルス」(初出『風景』5月)。「デスモスチルス」とは何だろう。見当がつかない。わからないまま、読む。
 きのう読んだ吉野弘「噴水昂然」は「噴水」という知っているものが書いてあったが、実際に書かれているのは私の知らない噴水であった。詩とは、何を対象にして書いていても、結局「私の知らないこと」が書かれているとき、詩として立ち上がってくる。知っていることが書かれている限り、それは詩ではない。--いや、これは正確ではないなあ。対象がすでにもっているのに、それを見すごしてきたもの。それを、ことばの運動で明確にしたもの、それが詩である。噴水が水を噴き上げ、その水が落下することは知っていたが、そのことをことばにすることで、そこからはじまる意識の運動があるとは知らなかった。考えてこなかった。それがことばになっているために、吉野のことばを読んだとき、そこに詩を感じた。
 詩がそういうものであるなら、何が書いてあるかは問題ではない。どう書いてあるかが重要になる。だから、「デスモスチルス」が何であるかを、私は調べない。目が悪いから辞書は引きたくない、というだけのことなのだが、私は何でも「理屈」にしてしまう。
 で、その作品。

過ぎた歳月を惜しむな
私は曝(さら)されて立つ
永劫の番人となることを夢みながら
すきとおる寒さを越えて
私は光と共に在る

失った肉を悲しむな
空洞となった私は
もはや目蓋さえ閉じることができぬが
私は知っている
遥かなる日に
数えきれぬ愛の技をもって
私は光の淵を渉(わた)っていた
その追憶に浄(きよ)められて
私は抽象の古代と成り果(おお)せた

 「過ぎた歳月を惜しむな」「失った肉を悲しむな」という行からは、「デスモスチルス」がいまは存在しないことがわかる。死んでしまっている。そして、「私は光と共に在る」と、春日井がデスモスチルスに同化して(デスモスチルスになって)、私は存分に生きたのだからと生涯を誇っていることがわかる。「闇と共に在る」ではなく「光と共に在る」というとき、「光」は「栄光」である。栄光と共にあるのだから、「悲しむな」というのである。
 最終行の「抽象の古代と成り果(おお)せた」にも、自分を誇る意識が見える。「成り果(は)てた」というのが他人の見方かもしれないが、私は「成り果(おお)せた」のである。自分の一生を生き、望みを果たした。
 ギリシャ、ローマ時代の英雄のひとり? ギリシャ神話の神?
 神かもしれないが、人間ではないだろうなあ。一緒にその時代を生きた人の気配が感じられない。「永劫の番人」「抽象の古代」は抽象的すぎて、まるで「科学記号」か「数学の記号」のように見える。
 古代の、私の知らない生き物なんだろうなあ。小さい生き物というより、巨大な生き物。ティラノサウルスみたいなものか。「曝されて立つ」「永劫の番人」「空洞となった」ということばが、白骨化した恐竜、恐竜の骨格標本を感じさせる。巨大な胸郭がのなかに「空間」が広がっている。過去の記憶が時を越えて広がっている。

数えきれぬ愛の技をもって

 は、その生き物が世界を支配していた(世界にいっぱいいた)という印象を呼び起こす。最強の恐竜だったのかもしれない。全盛期は、その生き物は「神」そのものだっただろう。無意識に世界を支配していただろう。
 そういう生き物と一体化して、春日井は自分の生涯(いままでの生活)を振り返っているのか。
 うーん、いいなあ。かっこいいなあ。
 四元の書いている「いつか一緒に泣けたらいいね」のセンチメンタルとは大違い。他人に感情を押しつけない。他人の感情なんかいらない、ということばの調子がさっぱりしていて気持ちがいい。
 詩は谷川俊太郎が「1対1」(朝日新聞デジタル版)で書いているように「一対一」で向き合うものなのだろうけれど、私は、何篇かの詩をつづけて読むと、どうしてもほかの詩と比較/関連づけをしてしまう。感想にほかの詩の感想が紛れ込んでしまう。
 春日井の詩だけを読んでいたら、あまりにさっぱりしすぎていて(抽象的すぎて)感想を持たずに素通りしてしまったかもしれないが、センチメンタルなことばのあとに読むと、この具体的には書かない書き方に強い意思を感じ(文体意識を感じ)、この詩はいいなあと思うのである。
 「デスモスチルス」が何のことがわからないが、ある生涯を終え、消えていくもののいさぎよさがあふれていると感じる。



 北川朱実「夏の音」(初出「東京新聞」5月31日)。

ネアンデルタール人が
熊の大腿骨の欠片で作った
小さなフルート

アフリカのひんやりした洞窟を出発し
ユーラシア大陸をさまよって
中央アジアで消えた三万年が

細くふるえながら
祭の村を巡っていく

(音も時間も
(うまれた場所へ帰ろうとして

 うーん、今度は「ネアンデルタール人」か。これも古代だな。古代と現代の往復。フルート(笛)から「音楽」の誕生そのものを思いめぐらしている。村祭り(日本の? 中央アジアの? アフリカの?)の笛。その音は、ネアンデルタール人が熊の骨でつくったフルートの音を共有している。
 スケールが大きい。時間のとらえ方が巨大だ。

カーン、   カーン、
人の笑い声に似た鹿(しし)おどしの音が
反転しながら空に吸われていく

碧い水を庭じゅうに巡らせたまま
蜜蜂を追って行方をくらました父が

頭に花粉を積もらせて
草ぼうぼうに立ち尽くしている

 「鹿おどし」「父」。そうすると、「祭の村」は日本か。そうともいえないかもしれない。アフリカか中央アジアか、どこかで村祭りに出会う。そのとき北川は日本の祭りを思い、父を思ったということかもしれない。
 どっちでもかまわない。
 北川は

(音も時間も
(うまれた場所へ帰ろうとして

 という「時間」と「場所」を超えた運動に詩を見ている。それがわかれば、それが「どこ」「いつ」かは問題ではない。
 それがどんなに遠く離れた「時間」「場所」であろうと、人がそれを思うとき、その「時間」「場所」は「いま/ここ」のすぐ隣にある。密着している。切り離すことができない。
 この接続感(離れているのに、いまここにある感じ)が詩なのだ。
 春日井の詩にもどっていえば、デスモスチルスが遠い存在であっても、春日井はことばを書くときデスモスチルスと一体になっている。そのことが詩を成立させている。
 しかし難しいもので--四元の詩も写真のなかのボクサーと一体になっているのだが、それが写真で示されているためにおもしろくない。「わからない」がないから、おもしろくない。わからないもの(たとえばデスモスチルス)を想像しながら、その想像力のなかへ自分の肉体を投げ込んでいって「一体感」をつかみとるとき、「おもしろい」という感じが生まれてくる。自分の「肉体」で、詩人が書いたものを盗み取るときに「おもしろい」が生まれる。書かれていることが、詩人の書いたことか、自分の肉体が体験していることかわからなくなるとき「おもしろい」がはじまる。「わからない」を自分の「肉体」のなかから引き出す(誤読する)ときに詩は生まれるのだと思う。

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まだ書かなければならないことが、

2014-12-24 01:29:06 | 
まだ書かなければならないことが、

まだ書かなければならないことが残っているが、
書き直すことにした。
冬の堀に裁判所への橋が逆さに映っている、という描写を消して
一本だけ残っているハスの実の影に。
水に映っている影ではなく、空中の弱い光のなかに立っている影に。

その人と私が見ているものは違っている。
わかっているが、違ったものを見ていると気づいたと書くのはもっと後にしたい。
もう少し同じものを見ていた、と書きたい。
「アシナガバチの巣のようだ」
どうして、ここで、そんなことばを言うのだろう。

何を考えているのかわからなくなったのはいつからだろう。
そこで立ち止まりたい。
背後に止まったバスから行き先を告げるテープの音が聞こえる。
聞こえただろうか、その人にも。
枯れた葉っぱの黒い影を水がゆすっている。




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