監督 深作欣二 出演 菅原文太、金子信雄、松方弘樹
40年ぶり(?)に見た。あのときは年上の、一匹狼的なやくざに見えた菅原文太が、年下の純粋な男に見える。目が純粋だ。鯉の入れ墨を見せながらのセックスシーンは、うぶで、へたくそだ。最後の「弾はまだ残っている」という台詞がかっこいい。
純粋、へたくそ、かっこいい--というのは、なんだかばらばらな感想だが、意外とそうではないのかもしれない。純粋だから(自分の気持ちしか考えていないから)、生き方がへたくそ(上手に相手をリードできない)、そしてそういうとき行為やことばに、抑えきれない激情があふれる。ほんとうは別なことがしたい。でも、いまはそうしないで、自分を抑制している。それは描かれることはない別の「事件」を予想させる。その予想を観客は生きる。妄想を予想(予感)のなかで暴走させ、カタルシスを自分の肉体のなかに抱え込む。
そうすると。
映画館を出るとき、まるで菅原文太になっている!
何も「仁義なき戦い」だけがそうなのではなく、やくざ映画はたいていがそういうものなのだろうけれど。
どこが、ほかのやくざ映画と違うのだろう。なぜ、40年前、夢中になり、いまもこの映画に夢中になるのか。
映像が、特にはじまりの映像がドキュメンタリー風だからである。戦後の混乱した闇街(?)でちんぴらが暴れる。手持ちのカメラが、揺れながら、その動きを追う。この「カメラの演技」がすごい。まるで、その混乱のなかに引き込まれたような感じ。
でも、これはあくまで「カメラの演技」。実際にその場にいたら、人間の視線はしっかり対象を見つめていて、ぶれることはない。走って逃げるとき、道路が(地平線)が揺れるわけではない。肉眼は揺れを自動修正してしまう。ところがカメラはこの自動修正がきかない。だから激しく揺れる。そんな「映像の揺れ」は肉眼(自分の目)では体験でできない。そのために、まるで、それを「他人の実感」として感じてしまう。映像を見ながら「他人」になってしまう。「他人になる」というより、「他人に乗っ取られる」といった方がいいかもしれない。「感情移入」するのではなく、役者の感情(感覚)が観客の感覚を乗っ取ってしまう。
このとき菅原文太の純粋な目、透明な目の輝きが生きてくる。極道になりながら、自分は「純粋」だと信じることができる。純粋に友達のことを思い、やむにやまれず復讐する。それはう犯罪かもしれないが、そうしないことには自分の気持ち(純粋)を守れない。復讐しなければ、行為は「純粋」(無罪)でいられるかもしれないが、こころは「極道」になる。
菅原文太は行動は「極道」でも、こころは「純粋」を守る。言ったことは実行する。「仁義」(親をいちばん大切にする)は守る。こころの「純粋」を貫けば貫くほど、周囲の「汚れ(精神の極道)」が次々に見えてくる。「ずるい」動きが見えてくる。
この「ずるい動き」をカメラは「揺れず」、しっかりととらえる。カメラはそこでは演技をせずに、役者に演技をさせている。この対比もおもしろい。この対比が、映画に奥行きを与えているということがわかる。
たとえば最初の殴り込みをかけようと相談しているとき、田中邦衛は、突然泣き出す。「女房が妊娠している。自分の身に何かがあったら、残される妻とこどもが心配だ」という。それを菅原文太は醒めた目で見ているが、そのときカメラは揺れない。あるいは、田中邦衛が松方弘樹の隠れているホテルを地図で示すとき、その示し方を見ながら菅原文太が気づく。警察に梅宮辰夫を売ったのは田中邦衛だと。このとき、カメラは揺れない。
カメラが揺れる演技をするのは、あくまで「肉体」が激しく動いているときであって、こころは動いていない。こころは一途に思っていることを思いつづけている。カメラが静止しているとき、その映像のなかでは、こころが動いている。こころが何かを発見している。
何度か、カメラが止まり、役者の動きも止まる瞬間がある。ある瞬間の断面が、流れる映像のまま固定され、字幕で人物が紹介される。あるいは、誰それが死んだ、ということが語られる。これは、いわば「客観的事実」。菅原文太の(あるいは、そこに登場している人物の)こころとは関係がない。その動かしがたい「事実」を途中途中にはさみこむことで、この映画は菅原文太のこころと行為を「主観」の強さのまま観客にぶつけてくる。
「カメラの演技」を考え抜いた映画だ。カメラが演技する--ということを、この映画で私は初めて知ったのだと思う。いま、思い返すと。
(2014年12月20日、「午前十時の映画祭」天神東宝6)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
40年ぶり(?)に見た。あのときは年上の、一匹狼的なやくざに見えた菅原文太が、年下の純粋な男に見える。目が純粋だ。鯉の入れ墨を見せながらのセックスシーンは、うぶで、へたくそだ。最後の「弾はまだ残っている」という台詞がかっこいい。
純粋、へたくそ、かっこいい--というのは、なんだかばらばらな感想だが、意外とそうではないのかもしれない。純粋だから(自分の気持ちしか考えていないから)、生き方がへたくそ(上手に相手をリードできない)、そしてそういうとき行為やことばに、抑えきれない激情があふれる。ほんとうは別なことがしたい。でも、いまはそうしないで、自分を抑制している。それは描かれることはない別の「事件」を予想させる。その予想を観客は生きる。妄想を予想(予感)のなかで暴走させ、カタルシスを自分の肉体のなかに抱え込む。
そうすると。
映画館を出るとき、まるで菅原文太になっている!
何も「仁義なき戦い」だけがそうなのではなく、やくざ映画はたいていがそういうものなのだろうけれど。
どこが、ほかのやくざ映画と違うのだろう。なぜ、40年前、夢中になり、いまもこの映画に夢中になるのか。
映像が、特にはじまりの映像がドキュメンタリー風だからである。戦後の混乱した闇街(?)でちんぴらが暴れる。手持ちのカメラが、揺れながら、その動きを追う。この「カメラの演技」がすごい。まるで、その混乱のなかに引き込まれたような感じ。
でも、これはあくまで「カメラの演技」。実際にその場にいたら、人間の視線はしっかり対象を見つめていて、ぶれることはない。走って逃げるとき、道路が(地平線)が揺れるわけではない。肉眼は揺れを自動修正してしまう。ところがカメラはこの自動修正がきかない。だから激しく揺れる。そんな「映像の揺れ」は肉眼(自分の目)では体験でできない。そのために、まるで、それを「他人の実感」として感じてしまう。映像を見ながら「他人」になってしまう。「他人になる」というより、「他人に乗っ取られる」といった方がいいかもしれない。「感情移入」するのではなく、役者の感情(感覚)が観客の感覚を乗っ取ってしまう。
このとき菅原文太の純粋な目、透明な目の輝きが生きてくる。極道になりながら、自分は「純粋」だと信じることができる。純粋に友達のことを思い、やむにやまれず復讐する。それはう犯罪かもしれないが、そうしないことには自分の気持ち(純粋)を守れない。復讐しなければ、行為は「純粋」(無罪)でいられるかもしれないが、こころは「極道」になる。
菅原文太は行動は「極道」でも、こころは「純粋」を守る。言ったことは実行する。「仁義」(親をいちばん大切にする)は守る。こころの「純粋」を貫けば貫くほど、周囲の「汚れ(精神の極道)」が次々に見えてくる。「ずるい」動きが見えてくる。
この「ずるい動き」をカメラは「揺れず」、しっかりととらえる。カメラはそこでは演技をせずに、役者に演技をさせている。この対比もおもしろい。この対比が、映画に奥行きを与えているということがわかる。
たとえば最初の殴り込みをかけようと相談しているとき、田中邦衛は、突然泣き出す。「女房が妊娠している。自分の身に何かがあったら、残される妻とこどもが心配だ」という。それを菅原文太は醒めた目で見ているが、そのときカメラは揺れない。あるいは、田中邦衛が松方弘樹の隠れているホテルを地図で示すとき、その示し方を見ながら菅原文太が気づく。警察に梅宮辰夫を売ったのは田中邦衛だと。このとき、カメラは揺れない。
カメラが揺れる演技をするのは、あくまで「肉体」が激しく動いているときであって、こころは動いていない。こころは一途に思っていることを思いつづけている。カメラが静止しているとき、その映像のなかでは、こころが動いている。こころが何かを発見している。
何度か、カメラが止まり、役者の動きも止まる瞬間がある。ある瞬間の断面が、流れる映像のまま固定され、字幕で人物が紹介される。あるいは、誰それが死んだ、ということが語られる。これは、いわば「客観的事実」。菅原文太の(あるいは、そこに登場している人物の)こころとは関係がない。その動かしがたい「事実」を途中途中にはさみこむことで、この映画は菅原文太のこころと行為を「主観」の強さのまま観客にぶつけてくる。
「カメラの演技」を考え抜いた映画だ。カメラが演技する--ということを、この映画で私は初めて知ったのだと思う。いま、思い返すと。
(2014年12月20日、「午前十時の映画祭」天神東宝6)
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