高柳誠「叔父さんの鳥」、原満三寿「白骨の山手線」、吉野弘「噴水昂然」(「現代詩手帖」2014年12月号)
高柳誠「叔父さんの鳥」(初出『月の裏側に住む』4月)は「文体」がしっかりしている。(『月の裏側に住む』については、別の詩を取り上げて感想を書いた。それと重なるかも知れないが……。)
この「文体がしっかりしている」という印象はどこからくるか。2行目の「その鳥のことを」の「その」からくる。この「その」は英語で言えば定冠詞「the 」である。「頭のなかに鳥を飼っている」の「鳥」の前には不定冠詞「a 」が省略されている。不定冠詞から定冠詞へと冠詞が変わっている。日本語には冠詞の意識がないので、「その」を「支持詞」と混同してしまうが(混同してもいいのだが、便宜上、そう書いておく)、この不定冠詞から定冠詞へ切り替わるときの「意識の持続性」(持続の印象)、これが高柳の「文体」の強さである。何を書いても現実から脱線しないという印象がここから生まれる。
頭のなかに鳥を飼っている--ということ自体、現実からは切断された世界である。いわば、寓話。脱線。れを現実と接続させてしまうのが、高柳の「意識の持続性(あるいは連続性)」である。
寓話のなかに起きている「こと」を読ませるふりをして、寓話(ことば)を接続させつづける意識の連続性そのものを高柳は読ませている。
頭のなかに鳥を飼っている--この非現実的なことを、どこまで現実として書きつづけることができるか。書きつづける「意思(意識)」のなかに、詩がある。
これは、「その」を省略した文章を想像してみると、わかる。
「その」がなくても、だれも、叔父さんの頭のなかに飼っている鳥以外の鳥を想像しない。「その」は、ない方がことばを速く読める。ない方が、日本語の「経済学」からいうと「合理的(経済的)」である。
けれど、高柳は、「その」を書く。
「その」を書くことによって、「事実」が「高柳の意識の事実」に変わっていくのである。
この「その」は、前半部分に「その声」「その歌」とつづけざまに繰り返されている。繰り返されるたびに、「意識の持続性」が強くなる。つまり、そこに書かれていることが「事実」というよりも「意識」の色合いが強くなる。
「意識」であるからこそ、最後には、「意識」がすべてをのみこんでしまう。「事実」があって「意識」があるのではなく、「意識」があって「事実」が書かれる。「ぼくの意識」が「叔父さんの事実」をおおってしまい、「ぼく」と「叔父さん」が入れ代わるということが起きてしまう。
叔父さんは、最近、鳥の話をしない。
「意識」のなかで「主客」が入れ代わる、意識が「事実」を追い越してしまって、そのときに「物語」は完結する。そこまで意識は持続しつづける。
*
原満三寿「白骨の山手線」(初出『白骨を生きる』)も「寓話性」が強い。山手線に乗っている。向かい側に座った男が、こちらを見ている。それは「窓に映った自分の姿かもしれない」。
原の詩にも「その」は出てくる。これもまた「定冠詞」と言えるのだけれど、高柳の「その」ほど「意識の連続性」は強くない。とういより、原には「その」よりも強い「意識の連続性」がある。ことばの運動で持続をつくりだしていくのではなく、すでにある精神の存在が持続を主張して、ことばと現実を動かしていく。
禅の公案のような「意識」が、ことば全体を支配している。その「意識」によって、ことばの全体がととのえられている。それが原の詩を「寓話」ではないものにしている。
逆に、禅の公案について思いめぐらす習慣のようなものがあるために、原の現実を、ふつうの人の現実とは違うものにしているともいえるかもしれないが。
この詩が、わざとらしくない、清潔な感じがするのは、ことばが「禅(公案)」という絶対的な「意識」と向き合っているからかもしれない。「絶対的な意識」があって、それが「世界」を支えている(つくっている)という「哲学」が書かれているのかもしれない。これは原のことばの動かし方の「習慣」なのかもしれない。
*
原満三寿「白骨の山手線」(初出「埼玉新聞」95年10月17日/『吉野弘全集 増補新版』4月)のことばも「意味」が強い。「意味」を考える意識によって世界そのものが提示される。ただし、吉野は「絶対的な意味」を求めない。むしろ、「意味」を相対化して、世界を活性化するという方法をとる。
このあとさらに「意味」は展開するのだが、「意味」というのは「方便」だからなんとでも言える。(と書いてしまうと、吉野の詩を否定することになってしまうかもしれないが……。)このなんとでも書けるところ、矛盾する「意味」で世界を切断し、接続するという「方便」が「世界の活性化」につながるのだけれど。
その「意味」の変化よりも、私は、この詩では、
この2行に出てくることばに注目した。「二つ」と「形象化」。吉野は「世界」をひとつの視点でとらえない。常に複数(二つ)の視点で見つめ、相対化する。そして、その「二つ」を「ひとつ」の運動として描く。そうするといままでそこに存在しなかったものが「形象化」する。形のあるものに見えてくる。
何が「形象化」された?
「意識」が「形象化」されたのだと思う。「意味」が「形象化」されるのだと思う。日常的に見るもののなかに。
逆に言うと日常的に見ることができるもの(水/噴水/雨)という形のあるものが、「意味」の運動として再確認される--それを「形象化」と言えるのかもしれない。吉野は、そういうことを、日常、人が話すことばをととのえる形で書いている。
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高柳誠「叔父さんの鳥」(初出『月の裏側に住む』4月)は「文体」がしっかりしている。(『月の裏側に住む』については、別の詩を取り上げて感想を書いた。それと重なるかも知れないが……。)
ぼくの叔父さんは、頭のなかに鳥を飼っている。鳥のすが
たは、ぼくにはみえない。でも、叔父さんは、その鳥のこ
とを、ぼくだけにそっと教えてくれる。そう、ぼくと叔父
さんの、ふたりだけのひみつなのだ。
この「文体がしっかりしている」という印象はどこからくるか。2行目の「その鳥のことを」の「その」からくる。この「その」は英語で言えば定冠詞「the 」である。「頭のなかに鳥を飼っている」の「鳥」の前には不定冠詞「a 」が省略されている。不定冠詞から定冠詞へと冠詞が変わっている。日本語には冠詞の意識がないので、「その」を「支持詞」と混同してしまうが(混同してもいいのだが、便宜上、そう書いておく)、この不定冠詞から定冠詞へ切り替わるときの「意識の持続性」(持続の印象)、これが高柳の「文体」の強さである。何を書いても現実から脱線しないという印象がここから生まれる。
頭のなかに鳥を飼っている--ということ自体、現実からは切断された世界である。いわば、寓話。脱線。れを現実と接続させてしまうのが、高柳の「意識の持続性(あるいは連続性)」である。
寓話のなかに起きている「こと」を読ませるふりをして、寓話(ことば)を接続させつづける意識の連続性そのものを高柳は読ませている。
頭のなかに鳥を飼っている--この非現実的なことを、どこまで現実として書きつづけることができるか。書きつづける「意思(意識)」のなかに、詩がある。
これは、「その」を省略した文章を想像してみると、わかる。
叔父さんは、鳥のことを、ぼくだけにそっと教えてくれる。
「その」がなくても、だれも、叔父さんの頭のなかに飼っている鳥以外の鳥を想像しない。「その」は、ない方がことばを速く読める。ない方が、日本語の「経済学」からいうと「合理的(経済的)」である。
けれど、高柳は、「その」を書く。
「その」を書くことによって、「事実」が「高柳の意識の事実」に変わっていくのである。
この「その」は、前半部分に「その声」「その歌」とつづけざまに繰り返されている。繰り返されるたびに、「意識の持続性」が強くなる。つまり、そこに書かれていることが「事実」というよりも「意識」の色合いが強くなる。
「意識」であるからこそ、最後には、「意識」がすべてをのみこんでしまう。「事実」があって「意識」があるのではなく、「意識」があって「事実」が書かれる。「ぼくの意識」が「叔父さんの事実」をおおってしまい、「ぼく」と「叔父さん」が入れ代わるということが起きてしまう。
叔父さんは、最近、鳥の話をしない。
頭のな
かの鳥は死んでしまったのだろうか。ぼくにできることな
ら、かわりの鳥をさがしてきてあげたいのだが、どんな鳥
が叔父さんの気に入るかがわからない。ぼくは途方にくれ
て、ますます鳥のようにとがってきた叔父さんの頭を、そ
おっとなでるしかないのだ。むかし、よく、叔父さんがそ
うしてくれたように…。
「意識」のなかで「主客」が入れ代わる、意識が「事実」を追い越してしまって、そのときに「物語」は完結する。そこまで意識は持続しつづける。
*
原満三寿「白骨の山手線」(初出『白骨を生きる』)も「寓話性」が強い。山手線に乗っている。向かい側に座った男が、こちらを見ている。それは「窓に映った自分の姿かもしれない」。
こらえきれなくなって漢を見やるとその顔は白骨だっ
た。眼窩は闇に深くとけこんで皮肉っぽく薄く笑って見つ
めかえしていた。見渡すと乗客はすべて白骨で白骨の指で
いじいじとスマホをのぞいたりたたいたりしていた。
原の詩にも「その」は出てくる。これもまた「定冠詞」と言えるのだけれど、高柳の「その」ほど「意識の連続性」は強くない。とういより、原には「その」よりも強い「意識の連続性」がある。ことばの運動で持続をつくりだしていくのではなく、すでにある精神の存在が持続を主張して、ことばと現実を動かしていく。
--白骨に仏性のありや無しや--
禅の公案のような「意識」が、ことば全体を支配している。その「意識」によって、ことばの全体がととのえられている。それが原の詩を「寓話」ではないものにしている。
逆に、禅の公案について思いめぐらす習慣のようなものがあるために、原の現実を、ふつうの人の現実とは違うものにしているともいえるかもしれないが。
この詩が、わざとらしくない、清潔な感じがするのは、ことばが「禅(公案)」という絶対的な「意識」と向き合っているからかもしれない。「絶対的な意識」があって、それが「世界」を支えている(つくっている)という「哲学」が書かれているのかもしれない。これは原のことばの動かし方の「習慣」なのかもしれない。
*
原満三寿「白骨の山手線」(初出「埼玉新聞」95年10月17日/『吉野弘全集 増補新版』4月)のことばも「意味」が強い。「意味」を考える意識によって世界そのものが提示される。ただし、吉野は「絶対的な意味」を求めない。むしろ、「意味」を相対化して、世界を活性化するという方法をとる。
ひたすら低い方へ地面を流れる水を見て
フランスの或る詩人が言いました。
<向上に反対するのが
水のモットーらしい>と。
しかし、噴水には
このモットーが当てはまりません
向上に賛成し、そのあと落下し
それを繰り返しているからです。
<君は、水のモットーに違反しているね>
と、私が噴水に言ったところ
噴水が昂然として、こう答えました。
<水が水蒸気に姿を変えて空に昇るのを
ご存知でしょう
一度、空に昇ったあと地上に降る水
向上と落下、二つの性質を合わせ持つ水
その形象化が噴水なのです
モットーだけでは
物の真相が見えません>
このあとさらに「意味」は展開するのだが、「意味」というのは「方便」だからなんとでも言える。(と書いてしまうと、吉野の詩を否定することになってしまうかもしれないが……。)このなんとでも書けるところ、矛盾する「意味」で世界を切断し、接続するという「方便」が「世界の活性化」につながるのだけれど。
その「意味」の変化よりも、私は、この詩では、
向上と落下、二つの性質を合わせ持つ水
その形象化が噴水なのです
この2行に出てくることばに注目した。「二つ」と「形象化」。吉野は「世界」をひとつの視点でとらえない。常に複数(二つ)の視点で見つめ、相対化する。そして、その「二つ」を「ひとつ」の運動として描く。そうするといままでそこに存在しなかったものが「形象化」する。形のあるものに見えてくる。
何が「形象化」された?
「意識」が「形象化」されたのだと思う。「意味」が「形象化」されるのだと思う。日常的に見るもののなかに。
逆に言うと日常的に見ることができるもの(水/噴水/雨)という形のあるものが、「意味」の運動として再確認される--それを「形象化」と言えるのかもしれない。吉野は、そういうことを、日常、人が話すことばをととのえる形で書いている。
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
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