詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫「ひな(抄)」ほか

2014-12-30 12:39:11 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
秋山基夫「ひな(抄)」、石牟礼道子「さびしがりやの怨霊たち」、一方井亜稀「残花」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 秋山基夫「ひな(抄)」(初出『長編詩 ひな』)。感想を書けるかなあ、むずかしいなあ、と思いながら、ついに感想を書かなかった長編詩。長さに、ひるんでしまった。「現代詩手帖」には「抄」という形なので、この長さならひるまずにすむ。とは言いながら、やっぱり半分ひるんでいるなあ。「抄」だけで感想を書いていいのか。でも、いま書いている「日記」は、さまざまなの詩のなかで、私自身のことばがどこまで動いていけるかということを確かめるための「テスト」みたいなものなので、思うことをただ書いてみよう。もともと私は「結論」を書こうとは思っていないのだし。

女に化けて お話をしましょう
これは冗談では ありません
女のあたしが 冗談なんかいうものですか

 1行目が、この詩の全てだと思う。「土佐日記」みたいだけれど、男が女になって書く。それは最初から「嘘」。人間は「嘘」を書くことができる。
 でも、どうしてだろう。
 「嘘」を書くとき、ひとは何を「頼り」にしているのだろう。ことばのなかに「何か」ほんとうのものがある。嘘の場合にも、嘘ではないものがある。それを頼りにしている。ことばは、人間でも、ものでもない。--こんな、ことは書きはじめると抽象的になって頭が煮詰まってしまう。
 1行目。ここで私が信じるのは「化ける」ということば(動詞)。「話す」ということば(動詞)。秋山はここでは「嘘をつく」と言っているのだが、その「嘘をつく」ということば(動詞)を、私は信じてしまう。「化ける」は「ふりをする」ということだと思うが、私も「ふりをする(ばける)」ということができる。「話す」ということができる。つまり「嘘をつく」ということができる。
 私に「できる」ことがあるから、そこに書かれていることを信じてしまう。「猫に化けて お話しましょう」「宇宙人に化けて お話ししましょう」--というとき、その「猫」「宇宙人」を信じるわけではなく、「化ける」「話す」を私は信じる。「化ける」「話す」は「ほんとう」で「女」「猫」「宇宙人」は「嘘」。
 いろいろなことばがあるが、私は「動詞」を信じている。「動詞」のなかに、自分との「共通」するものを見ている。私はいつでも「動詞」を頼りにして、そこに書かれていることを追いかける。
 「化ける」「話す」--このふたつの「動詞」のうち、秋山の重きはどっちにあるのだろう。「化ける」が今回の詩の「特徴」かもしれない。「話す」の方は「特徴」というよりも、秋山の「基本」的なありかたなのかもしれない。
 秋山は、ひたすら「話す」人間なのだ、と、この詩を読みながら思った。

あたしって毛皮のコートも学問もないでしょ
だから散文も詩もだめなの
せいぜい口でお話しするだけ
せいぜい紙テープをてきとうにちぎって
横へ横へとならべていくだけ
*たしか朔太郎がそんなことを書いていた。行分けをやめてつ
ないだら下手な随筆にしかならない口語自由詩のことだ。

 このとき「話す」というのは「ならべていく」「つないでいく」と同じことである。「話す」が「ならべていく」「つないでいく」と言いかえられている。
 つないだら、つながってしまう--それが、ことばなのだ。どんなにつながりようのないことも、つないだら、つながって、「ひとつ」になってしまう。「ひとつ」として存在してしまう。変なものなのだ、ことばは。
 この変なものを変じゃないものにする、嘘やでたらめではないものにするために、秋山はひとつの方法をとっている。「引用」。「引用」されるものは、すでに存在していることば。それを借りてきて「話す」。そうすると、「引用」という「ほんもの」が「嘘」を支えてくれる。念押しするように、秋山は「たしか」ということばをつかっている。「私のいうことは嘘かもしれない、けれど、たしかなことがある。それは……」という具合だ。推測というか、あやふやなものなのだけれど、それを逆に「たしか」と言い切ってしまうと、それが「たしか」に変わる。

*土井晩翆の「荒城の月」を踏まえているに違いない。たし
かにあれは滅びの美学的で偉かった。

 という部分にも「たしか」は出てくる。そして、これは「朔太郎」についても言えるのだが、「たしか」と一緒に「ほんもの」も書かれる。「土井晩翆」「荒城の月」。「ほんもの」をときどき利用しながら、なんでもかんでもつないでゆく。そのために、最初に「女に化ける」という「嘘」を実行する。嘘だから何をつないでも嘘--ほんものにならなくてもいい。でもね、ときどき「ほんもの」を利用する。その「ほんもの」を何にするか--そこに、実は秋山の「個性」があらわれてくる。
 これが、朔太郎、晩翆だけではない。なんでもかんでも。何でもかんでもつないでしまう「粘着力」の強さが秋山の「ことばの肉体」の強さなんだなあ、思う。私は、それにあきれる。笑ってしまう。あ、こんなに強靱な「ことばの肉体」を自分のものにすることができたら楽しいだろうなあと思う。



 石牟礼道子「さびしがりやの怨霊たち」(初出『祖さまの草の邑』7月)。

さびしがりやの怨霊を
悶え神たちの間においてきた
そこがいちばん安心と思ったのだが
うろうろと集まりすぎて
どれがわたしやら わからない

 「さびしがりやの怨霊」が「わたし」だろうか。「悶え神」は「さびしがり屋の怨霊」に似ているのか。「悶え」ることと「さびしい」は似ているのか。「怨霊」と「神」は似ているのか。それらかまったく違ったものなら、「わたし」以外のものがどれだけ多く集まろうと「わたし」の区別はつく。
 それとも最初は違っていたが、集ってきたものたちの影響を受けて、似てしまったのか。集ってきたものたちが「わたし」に似てしまったのか。あるいは、そういうことが同時に起きたのか。
 それは、しかし、どうでもいいことなのかもしれない。石牟礼は「わからない」ことをあまり気にしていない。

ちがいます ちがいます
ということを呪符にして
わたしは逃れたいのだが
そのわたしが うろうろのなかの
どれだかわからない
むかし 火をつけて 燃やしてしまった
草の邑の共同体から
ゆくえ不明になった怨霊たちよ

 と、「うろうろすること」を受け入れている。--と、私には感じられる。「うろうろ」しながら「共同体」の一員になってしまう。それは、その「共同体」の「怨霊たち」の一人になるということでもあるのか。
 そうすると、変なことが起きる。

夕べの暗い岬が わたしをよぎる
邑というからには川があった
河口があって 当然海があった
命たちはそこから陸に上がっていた
命には花が咲くのだった

 「共同体」のひとりになってしまうと、その「意識」なのかに「共同体」の「土地」があらわれてくる。「怨霊(意識?)」の「共同体」のなかに、岬、川、河口、海が広がり、海からは「命」が陸へ上がってくる。それは「怨霊」の「過去(必然)」のように見える。怨霊と土地が一体になる。怨霊が土地か、土地が怨霊か--そして、そう感じるとき「わたし」は「怨霊」か「土地」か。「わたし」は「怨霊」でも「土地」でもなく、「花」なのだ。「命の花」。
 それは「怨霊」と「土地」が一体になったときに開くのだろう。
 うろうろしながら、「どれがわたしやら わからないまま」、石牟礼は「命の花」になって咲いているのを感じる。それは「わたし」か、それとも「共同体」の「命」か。
 両方なのだろう。



 一方井亜稀「残花」(初出『白日窓』7月)。

ぬかるんでゆく土壌の
影は疾うに掻き消され
名指されないものたちが
通過するのを見逃す朝の
のつなぎ目にほどけてゆく

 何度読んでも、ここが魅力的だ。「通過するのを見逃す朝の/のつなぎ目にほどけてゆく」。「通過するのを見逃す朝の」と言って、それから何かを言おうとする。その一呼吸(改行)の瞬間に、何かと何かを結びつけようとした「の」、それがそのまま「ほどけてゆく」。
 書き出しの、

投げ出されていた
雨が
地上を覆う時
傘の列が途絶え
子供たちの声は聞こえない
舗道にはブレーキ跡ばかりが残り
投げ出されてゆく身体の
指先が語を取り逃してゆく

 ということばを読むと、朝の登校途中、児童が車にはねられた情景が思い浮かぶ。その死んだ児童の指差すもの、何かを言おうとしたことば。それが未完のままうしなわれていく。指先が指し示すことで結ぼうとしたもの、声にだすことでつながろうとした何か、その「何か」がそこから「ほどかれ」て、遠くなってしまう。そういう情景を思い浮かべる。
 そうしたことを「論理的な散文」にしてしまうのではなく、乱れた形のまま書く「の」の不思議な力。

鵜は立ち竦んでいる

 最終行の「鵜」(なかほどにも出てくる)は事故を目撃した一方井かもしれない。「残花」は事故現場に捧げられた花かもしれない。


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