常木みふ子「壁画」、田原「風を抱く人」、平田俊子「こころ」(「現代詩手帖」2014年12月号)
常木みふ子「壁画」(初出『星の降る夜』3月)は文体が控え目だ。
この書き出しには、何の特徴もないかもしれない。サーミア・ハラビーという美術家がニューヨークにいる。彼女は以前はパレスチナに住んでいた。「事実」だけがわかる。その「事実」は常木が自分で直接調べたものか、誰かが何かで紹介してることの要約なのかわからないが、「事実」として共有されていることがらであろう。
常木は、まず、そういう「事実」を大切にして、そこからことばを動かしはじめる。「共有された事実」を「事実」として共有する。その姿勢が「控え目」で、ことばを落ち着かせている。
ここから出発して、常木はサーミア・ハラビーの壁画を描写しはじめる。パレスチナのオリーブの巨木が描かれている。
オリーブの木が描かれている。そこまでは「事実」。そこにサーミアのうたう詩がある(聞こえる/聞く)というは常木の感覚。印象。
壁画がサーミアが書いた。そこにサーミアの思いが反映しているのは「事実」かどうか、かなかむずかしいけれど、一般的に作品にはその人の「思い」が反映していると考えていいと思う。「事実」から出発して、常木は「事実」になりきれていない(?)もの、「事実」として共有されていないもの(ことばになって共有されていないもの)を追い求めている。サーミアは何を思ってこの壁画を描いたのか。そこにはどんな思いがこめられているのか。
そうして、常木はパレスチナの人を思い、歴史を思うのだが、このとき、サーミアの「思い」に常木が加わっていく。サーミアの絵を「縦糸」にして、常木のことばを「横糸」にして布を織るような感じ。組み合わさって「ひとつ」になる感じ。こういうとき「強い自己主張」は「織物」を壊してしまう。縦糸の強さに横糸の調子をあわせないといけない。そうしないと乱れる。
常木は、だから、どこまでもサーミアの絵を壊さないように控え目にことばを動かす。この感じが、とてもいい。
*
田原「風を抱く人」(初出『現代詩文庫・田原詩集』3月)は、「風を抱く人」の訃報に接したときのことを書いている。田原も、常木がサーミア・ハラビーに寄り添って控え目にことばを動かしたように、控え目なことばで「風を抱く人」を書きはじめるが、2連目から変化する。
田原は自分の「肉体」のなかで起きたことを書く。自分の「事実」を書きはじめる。その「事実」のなかに、「背骨が熱くてまるで溶岩が噴出するよう」という、日本人には思いつかないようなことばが動く。日本語で書かれているが、これは「中国語」である。田原は中国人であるという「事実」が動いて、ことばになっている。次の「時間を引き裂く見えない手が/目の前で長くなるのを感じた」も強烈である。
この田原のなかに存在する中国が「目を閉じた 二筋の熱い憤怒の涙が/黙々と流れ黄河と揚子江になった」という、私たちの知っている中国の「河/固有名詞」に還っていく。そして、そのとき田原は「風を抱く人」と「一体」になっていること、こころから追悼していることがわかる。そして、「大声を張り上げたかったが/声は喉に引っ掛かって死んでしまった」という人間に共通する「肉体」へと引き返してきて、私を感動させる。
田原は日本人がニュースで伝えることを客観的な「事実」としてしか認識できないが、田原は「中国」そのものの悲しみとして「肉体」で感じているということがわかる。
1連省略して、5連目。
「紫」がとても美しい。田原が「風を抱く人」を「紫」の色として見ていたことが、わかる。
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平田俊子「こころ」(「読売新聞」3月17日)は谷川俊太郎の『こころ』の「競作」?
そう思う。けれど、
と「概念」で「意味」を語られてしまうと、私のこころは離れてしまうなあ。
ことばは「もの/こと」に寄り添うと、詩が生まれる。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
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常木みふ子「壁画」(初出『星の降る夜』3月)は文体が控え目だ。
サーミア・ハラビー 一九三六年生まれ
あなたは ニューヨーク在住の美術家
黒く太い眉を持つ アメリカ国籍のパレスチナ人
一九四八年まで 家族は代々エルサレムに住んでいた
この書き出しには、何の特徴もないかもしれない。サーミア・ハラビーという美術家がニューヨークにいる。彼女は以前はパレスチナに住んでいた。「事実」だけがわかる。その「事実」は常木が自分で直接調べたものか、誰かが何かで紹介してることの要約なのかわからないが、「事実」として共有されていることがらであろう。
常木は、まず、そういう「事実」を大切にして、そこからことばを動かしはじめる。「共有された事実」を「事実」として共有する。その姿勢が「控え目」で、ことばを落ち着かせている。
ここから出発して、常木はサーミア・ハラビーの壁画を描写しはじめる。パレスチナのオリーブの巨木が描かれている。
私は オリーヴの
深く捩じれた太い幹と静かに向き合い
サーミアのうたう詩(うた)を聞く
オリーヴの樹の縦糸 サーミアの紡ぐ横糸
この豊穰の大地に
神より前に人は住み
降る星の下 人は睦み合った
うねる歴史の中の 人々の声が聞こえる
人々の魂に 深い皺となって刻まれる歳月と祈りを
サーミアは紡ぎ出す
オリーブの木が描かれている。そこまでは「事実」。そこにサーミアのうたう詩がある(聞こえる/聞く)というは常木の感覚。印象。
壁画がサーミアが書いた。そこにサーミアの思いが反映しているのは「事実」かどうか、かなかむずかしいけれど、一般的に作品にはその人の「思い」が反映していると考えていいと思う。「事実」から出発して、常木は「事実」になりきれていない(?)もの、「事実」として共有されていないもの(ことばになって共有されていないもの)を追い求めている。サーミアは何を思ってこの壁画を描いたのか。そこにはどんな思いがこめられているのか。
そうして、常木はパレスチナの人を思い、歴史を思うのだが、このとき、サーミアの「思い」に常木が加わっていく。サーミアの絵を「縦糸」にして、常木のことばを「横糸」にして布を織るような感じ。組み合わさって「ひとつ」になる感じ。こういうとき「強い自己主張」は「織物」を壊してしまう。縦糸の強さに横糸の調子をあわせないといけない。そうしないと乱れる。
常木は、だから、どこまでもサーミアの絵を壊さないように控え目にことばを動かす。この感じが、とてもいい。
*
田原「風を抱く人」(初出『現代詩文庫・田原詩集』3月)は、「風を抱く人」の訃報に接したときのことを書いている。田原も、常木がサーミア・ハラビーに寄り添って控え目にことばを動かしたように、控え目なことばで「風を抱く人」を書きはじめるが、2連目から変化する。
中国からの小さな訃報は
異国のニュースの数十秒しか占めなかったが
私の心を震えさせた
背骨が熱くてまるで溶岩が噴出するようで
時間を引き裂く見えない手が
目の前で長くなるのを感じた
テレビを消して 窓を開け
空に大声を張り上げたかったが
声は喉に引っ掛かって死んでしまった
目を閉じた 二筋の熱い憤怒の涙が
黙々と流れ黄河と揚子江になった
田原は自分の「肉体」のなかで起きたことを書く。自分の「事実」を書きはじめる。その「事実」のなかに、「背骨が熱くてまるで溶岩が噴出するよう」という、日本人には思いつかないようなことばが動く。日本語で書かれているが、これは「中国語」である。田原は中国人であるという「事実」が動いて、ことばになっている。次の「時間を引き裂く見えない手が/目の前で長くなるのを感じた」も強烈である。
この田原のなかに存在する中国が「目を閉じた 二筋の熱い憤怒の涙が/黙々と流れ黄河と揚子江になった」という、私たちの知っている中国の「河/固有名詞」に還っていく。そして、そのとき田原は「風を抱く人」と「一体」になっていること、こころから追悼していることがわかる。そして、「大声を張り上げたかったが/声は喉に引っ掛かって死んでしまった」という人間に共通する「肉体」へと引き返してきて、私を感動させる。
田原は日本人がニュースで伝えることを客観的な「事実」としてしか認識できないが、田原は「中国」そのものの悲しみとして「肉体」で感じているということがわかる。
1連省略して、5連目。
彼はかつて黄河の北岸に昇ったわずかな紫色の日射しだ
世界は彼の光芒を浴びた
彼はかつて中国大地でゆらゆらと揺れた紫陽花だ
民衆は彼の芳香を嗅いだ
「紫」がとても美しい。田原が「風を抱く人」を「紫」の色として見ていたことが、わかる。
*
平田俊子「こころ」(「読売新聞」3月17日)は谷川俊太郎の『こころ』の「競作」?
ある時はまなざし
ある時はゆびさき
また ある時はコップの水に
こころは隠れているのかもしれない
そう思う。けれど、
こころというもの
ひとというもの
狡さ 儚さ
危うさというもの
こころを信じたいこころ
ひとのこころの温もりというもの
と「概念」で「意味」を語られてしまうと、私のこころは離れてしまうなあ。
ことばは「もの/こと」に寄り添うと、詩が生まれる。
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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
作品社 |
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。