詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

神山睦美、野村喜和夫、文月悠光「その先にある、詩の希望」

2014-12-02 12:11:23 | その他(音楽、小説etc)
神山睦美、野村喜和夫、文月悠光「その先にある、詩の希望」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 神山睦美、野村喜和夫、文月悠光が鼎談している。そのなかで、とても気になることばがあった。池井昌樹の『冠雪富士』について語っている部分。神山睦美が、

行分け詩はいいのですが、散文詩がちょっと異色かなと感じます。でも池井さんは思想のような場所とは違うところで書いているから、それはそれでいいのかなと。

 「思想のような場所とは違うところ」とは何だろう。「思想」とは何だろう。
 神山はポストモダンとかハイデガーとかパウンドとかデリダとかツェランとかアンナ・ハーレントとか、膨大な人名を出して語っているが、そういう「西洋の思想」を指してのみ「思想」と呼んでいるのだろうか。
 私は「思想」をもたない人間はいない、と考えている。「肉体」と「思想」は同じものであって、人間が「肉体」であるかぎり、生きているひとはみな「思想」を具体化している。ことばは「思想」そのものであると感じている。
 たとえばフーテンの寅さんは「それを言っちゃあ、おしめぇよ」とよく口にするが、それは寅さんの思想である。だから、それに共感する人もいる。
 ひとは誰でも幸福になりたいと思っている。みんなが幸福になるためにはどうすればいいのだろうと思っている。みんなが幸福になるということを願わない「思想」なんか、ない。すべてのことばが「思想」である。
 自分が信じている「思想」以外を「思想」から排除するのは、どういうものなのだろう。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ
でんわのむこうでいなかのははが
むすこはははのとなりにすわり
それはきれいなおつきさま
かたをならべてみあげていたが              (「手の鳴るほうへ」)

 これは美しい月をいっしょに見る幸福の描写。詩は、これだけで終わるわけではないが、こういうことを「幸福」と思うのは「思想」である。母といっしょに童心に返って美しい月を見て放心するという幸福を、神山は知らないのだろうか。そういう瞬間を幸福と呼ぶ「思想」を知らないのだろうか。
 神山はアンナ・ハーレントを引用しながら「共苦」ということばをつかっている。こんパッション、苦しみにどう共感するか、ということを問題にしている。いま引用した部分には「苦しみの共感」が描かれていないから、「思想」ではないというのだろうか。
 でも、「かたをならべてみあげていたが」の「が」に注目するなら、池井は楽しい一瞬だけを描いているわけではないことがわかる。母と楽しい時間を共有できない悲しさ、苦しさをも書いている。

そんなうそならもうたくさん
としおいたははおきざりにして
むすこはこんやものんだくれ
ホームのベンチでよいつぶれ
ゆめみごこちできいている

 ここにひとりの人間が生きて苦悩していると感じないのだろうか。それは「共感」に値しない苦しみ、「思想」とは無関係な「苦しみ」なのだろうか。
 あるいは、

あいついまごろゆめんなか
そうおもってははたらいた
 つめたいあめのあけがたに
 あせみずたらすまよなかに
あいついまごろゆめんなか
そうおもったらはたらけた                      (「夢中)

 これは息子のことを思いながら働く姿。そこには「苦しさ」はないか。苦しみながら、それでも息子のことを思う喜びはないか。そういうふうに働く親には「思想」はないのか。
 行分け詩ではなく、散文詩が問題だというのだろうか。「雲の祭日」はどうか。突然電話が通じなくなった息子を心配して、アパートまで妻といっしょに行ってみる。元気に顔を見せた息子に、心配したと言えずに一万円渡して、元気になるものを食えという。その帰り道。

                一万円は痛かったな。いいよ、
それくらい。夕闇の籠め始めた帰路、バスに乗ればよいものを、私
も妻も何か高揚して歩道を歩んだ。子がいてくれるのは、いいな。
うん。そしてまた黙って歩いた。遠くを台風が過ぎるらしい夕映え
の終わりの空には様々な姿した雲が様々に姿変えつつ流れ、だんだ
ん涼しくなってきた。背中の汗、すごいよ。妻が囁いた。ヒトのこ
と、言えるか。私は応えた。肩を並べて初めての帰路だったが、家
にはまだ、まだ遠いのだ。

 ここに書かれている安心と情けないような喜び。これは「思想」ではないのか。

 だいたい「共苦(コンパッション)」と、どういうことなのか。
 私は、キリスト教徒でもないし、聖書も読んだことはないが、映画や小説で聞きかじった範囲で言えば、このことばはキリスト教(あるいはユダヤ教)と深い関係がある。キリストは人間の苦しみを背負うことで人間を浄化した。苦しみによる浄化という考えと結びついた発想だと思う。
 神山がキリスト教徒ならそれでもいい。日本がヨーロッパのようにキリスト教を基本にした国なら(多くの人がキリスト教になじんでいるなら)、まだ「共苦」ということばもわからないではない。
 でも、日本人の多くは、キリストの苦しみによる人間の浄化などという考えを自分の「肉体」として感じているだろうか。身近にそういう人間を見ているだろうか。
 私は無宗教だが(宗教に自分の生き方を結びつけてきたことはないが)、私の母などは、自分ではどうしようもできないことが起きたとき、仏壇の前で「なんまいだ、なんまいだ」と繰り返していた。これは「他力本願」と言えばいいのか、浄土真宗そのもの。自分の苦しみは仏様が助けてくれる。仏様に何とかして、と祈る。母は何か勘違いしているかもしれないが、まあ、そこには「共苦」というような考えはないなあ。「共苦」も「コンパッション」ということばも、わけがわからないだろうなあ。でも、母に「思想」がなかった、とは私は思ったことがない。

 さらに、倉橋健一の『唐辛子になった赤ん坊」について、

デリダやツェランの文脈とは違いますが、(略)キルケゴール的なものをもってきながら考えている。いずれにしても、到達点にそうした生贄や犠牲のようなものがやってきた。(略)最後までデリダやツェランみたいなところに、倉橋さんなりの視線で到達していく。

 と語る。なぜ、「デリダやツェランみたいなところに」「到達」しないといけないのか。どこへ到達したっていいだろう。倉橋は「デリダやツェランの文脈」(ヨーロッパの文脈)を生きているのだろうか。
 私は倉橋のことを知らないからわからないけれど、倉橋はヨーロッパで育ったのだろうか。その宗教風土を生きてきたのだろうか。ぜんぜん違うところで生きてきたのに、「デリダやツェランみたいなところに」「到達」してしまったなら、それはどこかで何かを間違えていないだろうか。ぜんぜん違う暮らしを生きてきながら「デリダやツェランみたいなところに」「到達」したら、それは変じゃないだろうか。

 また、野村は八木忠栄の『雪、おんおん』について、次のように語る。

死者も生者も不分明に溶け合って作り出される、明るい土俗ともいうべき時空が展開し、終わりなき青春に勝るとも劣らない不思議なエネルギーをはなっているです。

 これって、「思想」を評価している? 「思想」として評価している?
 私は「思想」として評価していると読んだのだが、神山は、この「思想」に対してはどう思っているのかわからない。「デリダやツェランみたいなところに」「到達」している? していないなら、それを評価するときの基準は?
 それにしても……。
 「思想」と「土俗」か。妙だねえ。
 わからないことは、いろいろあるのだけれど、まあ、私の母の「なんまいだ、なんまいだ」も「土俗」の類なんだろうなあ。母は詩など書かないし、本も読みはしないが、それでも「思想」はある。暮らし(田舎の、土まみれの生活)のなかで見聞きして身に着けた考えがある。「土俗」というより土がついている「土着」、土地にへばりついている「土着」かもしれないが。

 しかし、わけがわからないなあ、と感じるのは、なぜ神山は「デリダやツェランみたいなところ」を、ヨーロッパを「基準」にして日本の詩を考えるのだろう。
 たとえばキリスト教と同じ一神教のイスラム教には「共苦」というようなことばがあるんだろうか。私は「コーラン」も読んだことはないから知らないが、映画なんかで見る限りイスラム教徒には「共苦」が世界を浄化するという考え方はないなあ。
 あ、ここでイスラム教を突然出したのは、実は、理由がある。
 ときどき日本の詩を問題にして、それを批評しているのに、まったく違う文脈の発言が「評価」の基準として動いているを見ることがある。たとえばだれそれの詩を評価するのに、井筒俊彦の哲学を持ち出して、誰それの詩は井筒哲学と合致する、ゆえに誰それの詩は世界レベルである云々……。変だよねえ。そんなに井筒俊彦の書いていることと詩が関係するなら(あるいは井筒俊彦に詳しいなら)、こういう鼎談のときにイスラム教の視点から見るとというような発言があってもいいのになあ、と思う。
 あるいは孔子を引用して「論語」から見ると、とか、中南米の思想からいうととか、アフリカの経済的視点から見るととかね。
 ヨーロッパ中心の哲学ヒエラルキーで日本の詩を読んで、そこから何が出てくるのだろうか。

現代詩手帖 2014年 12月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(25)

2014-12-02 10:41:08 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(25)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「失題」の右側のページは黄色一色。裏が透けて見える紙。そして、その黄色の前(裏側)のページにはひよこの写真。だから、その黄色はひよこの本質を集めて凝縮した色かもしれない。ということのほかにも思いは広がる。ひよこは前のページでは右側を向いている。ひよこの見ている先(本を読んできた時間からいうと「過去」の方向)に、きのう読んだ詩がある。白い、半透明の紙。文字が少し感じられるが、意識を集中しないと読むことはできない。
 もとへ戻って、黄色いページ。今度は、ひよこは左側を向いている。表と裏では、向いている方向、見つめている方向が違う。そうか、ひよこが「過去」を見ていたというのは私の一方的な思い込みで、反対側から見れば「未来」を見ている。何を見ているかなんて、見方次第で変わってしまう。外からはわからない。何を見ているかは、ひよこにしかわからない。
 で、その黄色のなかからぼんやり浮かぶひよこの見ている先に「失題」という詩がある。

言い足りないのがいい
いやむしろ
言わないでいい

コトバを
自分の肚(はら)に収めて
成熟を待つ

静かに
深く
黙っている
コトバから生まれる力

暴力と正反対の


 「意味」の強い詩である。「意味」が強いと感じるのは、そこに「論理」を感じるからだ。「論理」は「行動様式」と言いかえることもできる。何かに対して頭に来る。怒りがふつふつとわいてくる。でも、そういうとき怒りに任せて暴言を吐くのではなく、じっとこらえている。そのとき、ことばの暴力とは違ったもの、暴力とは正反対のものが、静かに生まれてくる--ということだろうか。「寛容」が生まれてくる、ということだろうか。
 正確には言いなおすことができないけれど、こういうことは誰もが経験したことかもしれない。誰かに、そういうことを教えられたことが、一度や二度は、たいていの人にあるだろう。
 そんなことを思いながら、私は、いつものように、ことばを入れ換えてみる。たとえば「肚」を。「肚」という文字を私は自分ではつかわない。「はら」とルビがふってあるから「腹部」のどこかと感じるが、特定の「部位」を意識するわけではない。「肚」って、内臓のどのあたり? 胃袋? 腸? 肝臓? 膵臓? 腎臓あたり? わからないけれど「はら」なので、体の内部ではあるだろう。意外と、「胸」かもしれない。「はらに一物」なんていうときは、ことばにしない考えをもっているということだから。内臓で物思いにいちばん近いのは「胸」だから。「腹黒い」というときの「はら」にも近いと思う。「はらに収める」の「収める」が黒々とした何かを感じさせるから。
 で、何に置き換えるかというと--いま書いてきたこととはかけ離れてしまうのだが、私はこの詩を読んだ瞬間、この「肚(はら)」は「タマシヒ」だな、と思った。「タマシヒ」ということばを何度も読んでいるので、知らず知らずに、そのことばが動いた。

コトバを
「タマシヒ」に収めて
成熟を待つ

 このとき、ことばは動かない。タマシヒも動かない。そして「肉体」も動かない。それで、次の連は、

静かに
深く
黙っている
「肉体」から生まれる力

 タマシヒもコトバも「肉体」そのものになる。「ある」というよりも消える。タマシヒもコトバも「ない」。ただ「肉体」だけがある。そこから、何かが生まれてくる。

「コトバの」暴力と正反対の


 このときの「コトバの暴力」と正反対の力は、「肉体の暴力」とも正反対だ。静かに、動かないでいるのは「肉体」自身もそうなのだ。「肉体」は動くもの。その動くはずのものが動くことを止めている。そのとき、「肉体」も「ない」状態だ。
 では、何がある?
 まず、コトバがなくなり、タマシヒがなくなり、肉体もなくなる。
 そのとき、「ない」はずのタマシヒが感じられる。
 死んだあと(肉体が動かなくなったあと)魂が残されるという言い方があるが、私は肉体がなくなれば何もかもがなくなると思っているので、そんなふうには考えない。私はタマシヒがあるとしても、それは肉体といっしょに「ある」。だからタマシヒは肉体であると考える。タマシヒは「肉体」そのものであると考える。「肉体」でから「肉体」が動かないときはタマシヒも動かない。ただ、肉体に動かなくても大丈夫だと教えるという形で「ある」のかもしれない。何もかもが動かないとき、その「動かない」の中心からタマシヒは広がり出てくるのかもしれない。「動かない」のに、その中心から何かが出てくる--というのを「成熟」というのかもしれない。
 「成熟」して、出てくる、と言っても、それは「コトバ」ではなく、むしろ、「無言」だろうなあ。ことばにならないまま、「態度(肉体)」が出てくる。中心にあったタマシヒが肉体の表面を覆う。肉体を隠す。それが「成熟」。中心と表面が入れ代わる、見分けがつかなくるなる。
 うーん、こんなことを書いていると、コトバとタマシヒと「肉体(はら)」がごちゃまぜになって、何がなんだかわからない。見分けのつかない「ひとつ」、そのときどきでコトバになったりタマシヒになったり「肉体(はら)」になったりする。
 この「ひとつ」を「未分化」(未分節/混沌)と言いなおせば、これまで書いてきた感想につながるのだが……。
 きょうは、少し違ったことを書く。(同じことなんだけれど、言いなおしておく。)

 「未分節」ということばを私はついついつかってしまうが、谷川はつかわない。つかっているかもしれないが、私は読み落としている。谷川は、そのかわりに「未生」ということばをつかう。『女に』という詩集を読んだとき、そのことばに出会った。
 この「失題」でも「未生」に通じる「生まれる」ということばをつかっている。

コトバから生まれる力

 「分節(する)」と「生まれる」は、どう違うか。「分節する」と「分ける」は厳密には違うのかもしれないけれど、めんどうくさいので日常的につかう「分ける」ということばを手がかりにすると、「分ける」は他動詞。「生まれる」は自動詞。
 「分ける」とき、誰かが何かを「分ける」。混沌を整理して「分ける」。そうやって、そこから何かをつかみ出す。理性がそうするのか、感情がそうするのか、あるいは、それは人間を超越した力(神)がするのかわからないが、そこには対象とそれに働きかける存在(主語)がある。
 でも、「生まれる」は違う。自力で生まれてくる。自力で生まれるというと、人間を考えると、その前に性行為があって、精子と卵子の結合があって、「自力」とは言い切れないのかもしれないけれど、そういうのは「屁理屈」。赤ん坊は、やっぱり自分で「生まれる」。
 谷川は、何か、こういう「自然に生まれる」力を信じている。
 人間が何かを「産む」のではなく、分節させる(分娩させる)のではなく、何かが「生まれてくる」のを待っている。谷川の力を越えて「生まれる」ものを。
 「生まれてくる」瞬間に立ち会う、あるいは生まれる瞬間を見逃さないようにしていると言えばいいのだろうか。
 自分で何かを「分ける」(分けることで、つくり出す)のではなく、何かが「生まれてくる」のを待つというのは、別なことばで言うと、谷川自身は何もしないということでもある。言いなおすと、何かが「生まれる」というのは谷川の力の及ぶ範囲ではないから、何かが「生まれる」瞬間には、谷川の世界が一瞬「切断」される。「生まれてくる」ものによって、谷川の世界が一瞬、否定される。「生まれた何か」を受け入れるとき、世界は「接続」する。そして、新しくなる。谷川が「生まれ変わる」。
 「生まれる何か」をだきしめて、新しい谷川自身が「生まれる」。
 「分節」ということばをつかって言いなおせば、何かが生まれるとき、谷川が分節されるのである。

 谷川は何かを「分節する」のではなく、何かによって「分節される」。そういう詩人である。そして、谷川自身の「分節」をうながしたものは何かというと--私は直観でいうだけなのだが、佐野洋子である。佐野洋子と出会う前は、谷川も「分節する」主体だったかもしれない。けれど『女に』以降は、谷川は「分節される」(常に新しく生まれ変わる)詩人になったと思う。--これは、私の「感覚の意見」なんだけれどね。

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そんなはずはない

2014-12-02 01:31:49 | 
そんなはずはない

悲しみは、
木のように枯れて、木のように頑丈になる

そんなはずはない。
折れた木の断面に触れたことがないのだろう

別れたひとの恋人だと知って、
本屋の棚の前に並んで立ったことがある。

別れた人に会っているような気持ちが
わいてくる。

そんなはずがない、
悲しみは自分を裏切るはずがない



*

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