詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

城戸朱理「白のFRAGILE」ほか

2014-12-10 23:00:18 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
城戸朱理「白のFRAGILE」、倉田比羽子「追憶の国 ひとりの夜に--」、福間健二「彼女に会いに行く」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 城戸朱理「白のFRAGILE」(初出「江古田文学」84、13年12月)は「抒情」に城戸自身が夢中になっている感じがする。そうか、こんなふうにことばに酔うのか。

春雨は巻き毛のような若葉をじっとりと濡らすが
秋の雨は、あたりをただ白くけぶらせていく

手を伸ばすなら、指まで染まりそうな紅葉

 「春雨」に対して「秋雨」ではなく「秋の雨」。これは「音」の差異なのか、「意味」の差異なのか。その差異を選んだ「肉体」が見えない。私は、まず、ここでつまずく。対になった行で、書き出しのことばが対を装いながら、微妙にずれる。
 これは技巧? 何のための?
 わけのわからない「違和感」が残る。そのためだろうか。2連目の「手を伸ばすなら」の「なら」にも、あれっと思う。
 書かれている「意味」はわかる。いや、わかったつもりになるけれど、実はわからないといった方がいいのだと思う。
 私なら「手を伸ばせば」と常套句にしてしまう。「手を伸ばせば、指まで染まる」。そのとき、手は想像力のなかで、もう伸びて、紅葉に指先が触れている。
 「伸ばすなら」でも「意味」は同じなのか。
 「春雨」が次の行の「秋の雨」と対になっていることへの「違和感」に通じるものが「手を伸ばすなら」に残ってしまう。
 だいたい何かに感動したとき(強い印象を受けたとき)、ことばは短くなるのがふつうである。「伸ばすなら」よりも「伸ばせば」の方が音が少ない。それだけ速く動く。あざやかな紅葉にびっくりしているなら、それが「常套句」と批判されようと、私は「常套句」を選ぶなあ。「常套句」というのは考えずにすむ。それだけことばが速く動く。
 なぜ「伸ばすなら」とまわり道をして、しかもそのあとに読点「、」まであるのだろう。
 ことばに酔う、「抒情」に酔って、そこから離れたくないという感じがする。そんなに長い詩ではないのに、この2連だけでとても長い感じがしてしまう。
 このあと「白」は「紅く」はならずに、「白いシーツ」「しろい肌」へと動き、「赤らみ」ということばも経るけれど、さらに「白い花」へと動いている。「白い花」はきっと「死」を飾る花だろう。「死」に色はないが、「白い死」なんだろうなあ。さらに「白」を省略した形で、最後の2連。

三日もすれば 冬になる
きっと 雪が降るだろう

そして、わたしは
雪の匂いがする手紙を受け取るだろう

 その手紙は白い便箋に書かれているのだろう。
 この最後の2連では、私はまたまた違和感を覚えた。最初の2連とリズムが違いすぎる。別の作品という感じ。「意味」は「白(雪/便箋)」でつながっている。でも、ことばのリズムはつながっていない。「春雨」「秋の雨」のように。
 私は、こういうリズムの変化は苦手だ。「意味」は「頭」でわかるが(わかったつもりになるが)、「肉体」がついていけない。



 倉田比羽子「追憶の国 ひとりの夜に--」(初出「詩客」13年12月20日)は情報量が多いなあ。ことばが多いなあ、とまず感じてしまう。

時がたち 小高い丘の上の墓地では骨の人はこころを粉々に砕いた
一片一片、無数のこころのしこりを刃にして
魂を振りあげながら墓の下から転がりでてくる
無言の「強要」に謎めいた叫びをあげる異形の野犬や梟や黒カラスを引きつれる
贖われることのないままに阿鼻叫喚の墓標がつぎつぎ新しく取り替えられるまえに
光なき星の声に導かれるように満月に骨身を透かし 吐息は人類不在の風に乗り

 つぎつぎにあらわれることば。多すぎて、イメージが拡散する。拡散させたいのかもしれないけれど、ことばの数に酔っているようにも感じる。酔っている感じはわかるが、勝手に(?)酔われると、ちょっと気持ちが覚めてしまう。同じようには酔えない。
 特に

無言の「強要」に

 ということばの、わざわざ括弧付きで書いてある部分に、あ、わかりません、と言いたくなる。倉田には「意味」があるのだろうけれど、記号(カギ括弧)で「意味」を代弁させずに、もっと「肉体」をくぐらせたことばで書いてほしいなあと思う。
 そう思っていると、2連目は3字下げで……。(引用は3字下げずにするが。)

「花一つ、花一つさえ
この身をおさめた柩にそなえるな。
友一人、友一人さえ、
悲しみの野辺の送りに従うな。
人知れぬ山奥の地に、この身を
埋めておくれ、
墓を見てまことの愛に泣くものを
避けるために。」---

 あ、いいなあ。対句はリズムもしっかり踏まえているし、起承転結もある。--と思ったら、シェイクスピア『十二夜』(小田島雄志訳)と注にある。
 シェイクスピアと比較してはいけないのかもしれないけれど、私はシェイクスピアの、口に出して気持ちよくなる音の方が好きだなあ。情報は少ない方がうれしいなあ。「追憶」なら、とくにことばは少ない方が切実に響くのでは、と思う。



 福間健二「彼女に会いに行く」(初出「江古田文学」84、13年12月)は、比喩と意味の関係がよくわからない。

彼女に会いに行く。
自分のものだと言い切りたい。
労働の音を、全身でアレンジして
彼女の好きな
迷子のうた
脱水に入った
洗濯機のようにうなりながら

 「脱水に入った/洗濯機のようにうなりながら」という比喩は、「比喩」であることを忘れてしまって「もの(洗濯機)」が見える。とても気持ちがいい。というか、「納得」してしまう。福間がどういうつもりで書いたのかわからないが、そこに書かれていることが「わかる」。(誤読できる。)でも、

労働の音

 って、何? 福間が(と仮定しておく)働いているときの、福間自身の「肉体」のたてる音? 福間が働いているとき「頭」が動く音? それとも福間の周囲にある何かが動く音? 引用しなかったが、その前にでてくる「搾取の手を動かして」ということと関係があるのかな? 搾取の音?
 「労働の音」が比喩になりきれていない。「意味」だけを伝えようとしている。そのくせ「意味」にもなっていない。「論理」が見えてこない。比喩を書こうとしてるということだけ、わかる。(この「わかる」は勘違いなのだろうけれど。)

なにが食べたい?
ラーメン
ライスの小をつけて
しまりにくい蓋のかわりというわけじゃないよ。

 この最終連も、何のことかわからない。ラーメンを食べたいのは福間? それとも彼女?
 詩に「意味」を求めるわけじゃないけれど、「意味」がないのも、どうかなあ。「意味」が書いてあって、しかし、「意味」を超える何かに引きつけられ、「意味」を忘れてしまうというのが詩ではないのかな?

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北川透『現代詩論集成1』(14)

2014-12-10 11:37:29 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(14)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 十三 意味の偏向 比喩論の位相

 「荒地」の総論として、この「意味の偏向」という指摘はとてもおもしろかった。「荒地」の比喩論の重視は経験を新しくする、経験をひろげるという態度から起きていると書いたあと、北川はつづける。

詩の言語に即して言えば、比喩によって、ことばの意味の転位・拡充・強調をめざすということになろうか。                      ( 294ページ)

 ここに幾つかの問題が視えてくるだろう。意味の比較の過程を、<のような>によって明らかにしている直喩の形式においても、意味論だけで考えることは不十分だということが一つである。あるいは次に検討する暗喩も、意味論で解こうとした「荒地」派の偏向は、比喩を重視しつつも、それを不自由にしたのではないか、ということが考えられる。
                                ( 296ページ)

 私が引用している部分だけでは「意味(論理)」がわかりにくいかもしれないが、私の「日記」は北川の論の紹介ではなくて、北川のことばを読んで私が何を考えたかを書いているので、わかりにくさを承知で書きつづけると……。
 私は「比喩(直喩/暗喩)」を「意味」で解くという指摘から、その逆のことを考えた。逆というのは、「読む」ではなく「書く」方から北川の書いていることを言いなおすと、「荒地」は「意味」を「比喩」で書こうとしたのではないか。(もっとも、これは私の考えというよりも、北川の視点だと思う。私の引用した部分は、たまたま詩の「比喩を読み解く」という部分のことばの運動について書いているだけで、「詩を書く」という視点から言えば、必然的に「意味を比喩で書く」になると思う。)
 「意味(論理)」というものは、ひとに共有されることで成立し、世界を支配していくものだから、無数に見えても意外と単純な何かに還元されてしまう。「戦争はいけない」とか「人を殺してはいけない」とか、「労働に支払われる対価が少ないのは許せない」とか。その「意味(論理)」はいくら「真実」であっても、なかなかひろがらない。また、逆の言い方もできる。「意味」はどうとでもこじつけることができる。「戦争はいけいないというが、誰かが侵略してきて、あなたの大切な人を殺そうとしたら、それを見ているだけでいいのか。あなたの大切なひとを守るために、侵略者と戦わないのはなぜなのか」。「意味(論理)」は「真実」ではなく、ひとを動かす(支配する)「方便」なのである。
 「ない」ものを考える。「ない」が「ある」と考えることができると、考えた古代ギリシャの時代から「論理(意味)」というのは、常に「反対の意味」をひきつれて動いている。どうとも言えるのが「意味」であり、どうとも言えるからこそ「弁論」というものも生まれたのだろう。
 で、詩は、そういう「意味」から逸脱しようとする行為のように私には思える。
 「意味」を個人的なものに染め上げてしまう。個人的な体験や、個人的な「感覚」で染め上げてしまう。「意味」と「個人的体験/感覚(非論理)」が結びついたとき、それは「思想(肉体)」になる。「荒地」の詩人たちは、私の「感覚(直観)の意見」では、「意味」を「比喩」で語ることで、その「意味」を「肉体」にかえたのだと思う。
 「肉体」を「文体」と言いかえるといいのかもしれない。「荒地」の詩人たちは、それまでの詩の「文体」とは違った、独特の「文体」をつくりあげた。「意味」を「意味」のまま語るのではなく、「比喩」として語る。「比喩」はそれまで存在しなかった「ことばの運動の形式」だ。その詩人独自の「ことばの動き」。「意味」ではなく、その「独特の動き」を見せる。「独特の動き」が「私である(私という固体、肉体は存在する)」と主張する。
 それは「永遠」のように見える。「真実」のように見える。--と、書いてしまうと、飛躍しすぎるが、私には、そう感じられる。
 言いなおすと。
 北村太郎の「管のごとき存在」という「比喩」は、その比喩によって「意味」を逸脱して、「意味」以上に意味になる。そこに北村自身がでてきて、「意味」を北村のなかに隠してしまう。そういうことが人間にはできる。そういう「運動」の仕方、ことばの動かし方の可能性が「永遠の真実」として迫ってくる。そういうことばの運動を自分でも動かしてみたい、動かせるのだということを気持ちを引き起こさせる。「意味」ではなく、「私になる(なりたい)」という「欲望」がそのとき「共有」される(伝染する)。「本能」が共有される。「本能」こそが「永遠の真実」である。「肉体の真実」である、と私は思うのだが、これも「直観の意見」。「意味」がつたわるようには、私には、まだ書くことができないことだけれど……。

 私が書いたことを、強引に、北川の書いている文章に結びつけてしまうと。
 北川は田村隆一の「繃帯をして雨は曲がつていつた」という行を取り上げて、こう書いている。

わたしには、雨が繃帯をしているイメージの直接性のうちに、田村の戦後現実があったのだと思う。                           ( 297ページ)

 この文章の「直接性」が「肉体(思想)」。それは「切り離せない」。「意味」のように簡単には他者と共有できない。愛するか、憎むか。いっしょにいるときに、どんなふうにふるまうかが問題になってくる。「意味」のように、それだけを取り出して、その「意味」のもとに団結する(支配する)という具合には動かない、一種の「うらぎり」のような、わがまま。
 人間は「意味」ではなく、自分とは切り離せない何かを生きている。「意味」を媒介にせずに、「世界」と「直接」触れている。
 その触れ方を「比喩」として表現し、「比喩」こそが「思想(肉体)」なのだと「荒地」の詩人は主張したのかもしれない。

「荒地」の意味への偏向は、ほんとうは単なる言語の指示機能としての意味ではなく、いわば存在の意味ともいうべき、より根源的な意味へ通じるものであっただろう。
                                ( 303ページ)

 北川の書いている「根源的な意味」を、私は、そんなふうに読んだ。(長い間をあけてしまったので、前に書いた感想と関連性が弱くなってしまった、かも。)

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
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呼ばれて

2014-12-10 01:25:35 | 
呼ばれて

呼ばれて振り返ったが誰もいなかった。しかし、その声のなかに最初に会ったときの窓があった。窓の外には夜があった。木が部屋のなかをのぞいていた。

そんなことがありうるのか。ありえないけれど、それはあったのだ。あったことは、なくなることはない。だからいまも呼ばれて振り返ってしまう。

何を言っていいのかわからなかった。そのひとも何を言っていいかわからず、ことばを探しているのがわかった。

夜の窓が鏡になってしまって、その部屋にあって、私は半透明の鏡を見ているのか。私は夜の茂った一本の木になって、記憶をのぞいているだけなのか。
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