監督 ベネディクト・エルリングソン 出演 馬、イングバール・E・シーグルズソン、シャーロッテ・ボービング、ステイン・アルマン・マグノソン
馬と人間を、馬から描いている。まず馬が登場し、その目のなかに人間がいる。あるいは人間がつくった何か(柵とかロープとか)が見える。その人間と馬とのいくつかのエピソードが映画を構成する。
この映画のいちばんの特徴は、人間は死ぬが馬は死なないということである。馬の死も描かれるが、それはどちらも人間が殺す。馬は殺されて死ぬのであって、人間のように欲望に暴走して死ぬ(自滅)するのではない。また、殺されることに対して馬は不平を言わない。死を受け入れる。(受け入れているように見える。)馬は死ぬことによって、人間を生かすのである。
象徴的なのが、スペイン語圏の旅行者と馬の関係。馬に乗って荒野を歩き回る。彼だけがはぐれてしまう。雪がふる。夜になる。彼は馬を殺して、内臓を取り出し、馬の体を「寝袋」にして寒さからのがれ、生き延びる。馬は死んで、人間は生きる。
この死と生の関係から、映画を思い出し直すと、最初の馬の死も、やはり人間を生かしているのだとわかる。独身の男がいる。自慢の白馬がいる。それに乗って、ちょっと気になる未亡人の家へ訪問する。どうも、日課らしい。近所(といっても、かなり離れている)のひとは、彼が未亡人を訪問するのを双眼鏡で見ている。未亡人も彼のことを気にいっているらしい。ふたりは何とかセックスをしたいと思っている。(らしい)
ところが、二人がセックスをする前に、二人の飼っている馬、男の白馬、女の黒い馬が先にセックスをしてしまう。男が未亡人を訪問した帰り道、白馬が道の真ん中で立ち止まり、黒い馬が男が乗っているのを無視して交尾する。(男が雌の馬、女が雄の馬を飼っている、男と女が、人間と馬では逆になっているのがなんともおもしろい。)それも、近所のひと全員にみられてしまう。
男はかってに(?)交尾した白馬を射殺する。馬は殺される。(黒い馬の方は去勢される。)この馬の死が人間を生かすこととどういう関係かあるかというと……。簡単に言うと、最後に男と女はセックスをする。ついに自分たちの愛を確認する。女が男を誘い、荒野(谷間)でセックスをする。もちろん、これもひとに見られてしまう。見ても、しかし、ひとはそれに口出しをするわけではないが……。
これも馬の死が、男と女を結びつけ、人間を「生かした」と言える。
こんなに人間より(?)の馬なのに……。
最初のシーンは、いささか変わっている。独身男の飼っている馬。これが、なかなか手綱をつけさせない。いったん、手綱をつけ、鞍を置き、男が乗ってしまうと洒落た走り方をするのに、なかなか面倒くさい。男の言うことを、素直に聞くわけではない。その「反抗」の最大のものが、男を載せたままの交尾。馬は男に「飼われている」という感覚はないようなのだ。黒い馬の方も、男が「あっちへゆけ」というのを無視して交尾する。男が乗っていて邪魔だともいわない。人間の存在を気にしていない。
変だな、と思う。
この「変」は最後になって「原因」がわかる。
村人がそろって馬に乗って荒野に出掛ける。ピクニック? いや、そうではなくて、野生の馬をつかまえにゆくのである。三班に別れ、荒野にいる馬を集めてまわる。(この過程で、独身男と未亡人は二人だけになり、セックスをする。家を訪問してセックスをすれば、近所のひとに目撃されるが、荒野なら見られない。実際は見られてしまうのだけれど……。)集めた馬を一か所に集め、「競り」なのか「配分」なのかわからないが、それぞれが自分の好みの馬を選ぶ。その馬をつかって、この村の住民は旅行者相手に「乗馬ピクニック」のようなことをして生計を立てているらしい。あるいは、その乗馬クラブに馬を提供することで生計を立てているらしい。--これは私の想像で、映画で、そう説明されるわけではないが。
で、私は馬のことを知らないのだが、この映画に登場する馬を見た瞬間、馬が「小型」だなあと感じた。見た感じがサラブレッドのように大きくない。競馬の乗り手が小さいからサラブレッドが大きく見えるのかなあ、とも思ったが、どうも違う。そして、その「小型」の理由が、やはり最後になってわかった。「野生の馬」なのだ。アイスランドの野生の馬。厳しい冬の寒さに絶えて生き延びる馬。人間によって改良されていないから「小型」なのだ。
「野生」だから、人間の言うことを聞かない。交尾したくなれば、だれが見ていようがしてしまう。本能だから。本能で生きている。(野生だから、この映画に登場する馬は厳寒の海を泳ぐこともできる。この海を泳ぐ馬は、男のためにロシア船まで泳ぎ、男にウオツカよりも強い酒をもたらす。その酒が原因で男は死ぬが、馬は死なない。)
この本能のまま、自由に生きている馬から見れば、人間はおろかしい。セックスしたくても、人目をはばかる。隠れて酒を飲んだり、ここは自分の土地と柵をつくったり、荒野を自由に歩き回る権利を奪うなと柵を壊したり、まあ、軋轢をかかえて生きている。映画の途中で、何度か家のガラスがピカリと光るが、あれは他人の目を意識しているから、他人が見ているように感じてしまうことの象徴である。でも、そういう人間も、この映画の人間側の主人公であるらしい独身男と未亡人のように、本能のままに生きれば自由と喜びを手に入れることができる。
馬は、そんなふうに見ている--と映画を見終わったとき、感じる。そして、アイルランドへ行って馬にあってみたい、馬の目を見てみたいと思う。
アイスランドの映画ははじめてみたので、そこに描かれるものすべてがおもしろかった。
(2014年12月17日、KBCシネマ2)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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馬と人間を、馬から描いている。まず馬が登場し、その目のなかに人間がいる。あるいは人間がつくった何か(柵とかロープとか)が見える。その人間と馬とのいくつかのエピソードが映画を構成する。
この映画のいちばんの特徴は、人間は死ぬが馬は死なないということである。馬の死も描かれるが、それはどちらも人間が殺す。馬は殺されて死ぬのであって、人間のように欲望に暴走して死ぬ(自滅)するのではない。また、殺されることに対して馬は不平を言わない。死を受け入れる。(受け入れているように見える。)馬は死ぬことによって、人間を生かすのである。
象徴的なのが、スペイン語圏の旅行者と馬の関係。馬に乗って荒野を歩き回る。彼だけがはぐれてしまう。雪がふる。夜になる。彼は馬を殺して、内臓を取り出し、馬の体を「寝袋」にして寒さからのがれ、生き延びる。馬は死んで、人間は生きる。
この死と生の関係から、映画を思い出し直すと、最初の馬の死も、やはり人間を生かしているのだとわかる。独身の男がいる。自慢の白馬がいる。それに乗って、ちょっと気になる未亡人の家へ訪問する。どうも、日課らしい。近所(といっても、かなり離れている)のひとは、彼が未亡人を訪問するのを双眼鏡で見ている。未亡人も彼のことを気にいっているらしい。ふたりは何とかセックスをしたいと思っている。(らしい)
ところが、二人がセックスをする前に、二人の飼っている馬、男の白馬、女の黒い馬が先にセックスをしてしまう。男が未亡人を訪問した帰り道、白馬が道の真ん中で立ち止まり、黒い馬が男が乗っているのを無視して交尾する。(男が雌の馬、女が雄の馬を飼っている、男と女が、人間と馬では逆になっているのがなんともおもしろい。)それも、近所のひと全員にみられてしまう。
男はかってに(?)交尾した白馬を射殺する。馬は殺される。(黒い馬の方は去勢される。)この馬の死が人間を生かすこととどういう関係かあるかというと……。簡単に言うと、最後に男と女はセックスをする。ついに自分たちの愛を確認する。女が男を誘い、荒野(谷間)でセックスをする。もちろん、これもひとに見られてしまう。見ても、しかし、ひとはそれに口出しをするわけではないが……。
これも馬の死が、男と女を結びつけ、人間を「生かした」と言える。
こんなに人間より(?)の馬なのに……。
最初のシーンは、いささか変わっている。独身男の飼っている馬。これが、なかなか手綱をつけさせない。いったん、手綱をつけ、鞍を置き、男が乗ってしまうと洒落た走り方をするのに、なかなか面倒くさい。男の言うことを、素直に聞くわけではない。その「反抗」の最大のものが、男を載せたままの交尾。馬は男に「飼われている」という感覚はないようなのだ。黒い馬の方も、男が「あっちへゆけ」というのを無視して交尾する。男が乗っていて邪魔だともいわない。人間の存在を気にしていない。
変だな、と思う。
この「変」は最後になって「原因」がわかる。
村人がそろって馬に乗って荒野に出掛ける。ピクニック? いや、そうではなくて、野生の馬をつかまえにゆくのである。三班に別れ、荒野にいる馬を集めてまわる。(この過程で、独身男と未亡人は二人だけになり、セックスをする。家を訪問してセックスをすれば、近所のひとに目撃されるが、荒野なら見られない。実際は見られてしまうのだけれど……。)集めた馬を一か所に集め、「競り」なのか「配分」なのかわからないが、それぞれが自分の好みの馬を選ぶ。その馬をつかって、この村の住民は旅行者相手に「乗馬ピクニック」のようなことをして生計を立てているらしい。あるいは、その乗馬クラブに馬を提供することで生計を立てているらしい。--これは私の想像で、映画で、そう説明されるわけではないが。
で、私は馬のことを知らないのだが、この映画に登場する馬を見た瞬間、馬が「小型」だなあと感じた。見た感じがサラブレッドのように大きくない。競馬の乗り手が小さいからサラブレッドが大きく見えるのかなあ、とも思ったが、どうも違う。そして、その「小型」の理由が、やはり最後になってわかった。「野生の馬」なのだ。アイスランドの野生の馬。厳しい冬の寒さに絶えて生き延びる馬。人間によって改良されていないから「小型」なのだ。
「野生」だから、人間の言うことを聞かない。交尾したくなれば、だれが見ていようがしてしまう。本能だから。本能で生きている。(野生だから、この映画に登場する馬は厳寒の海を泳ぐこともできる。この海を泳ぐ馬は、男のためにロシア船まで泳ぎ、男にウオツカよりも強い酒をもたらす。その酒が原因で男は死ぬが、馬は死なない。)
この本能のまま、自由に生きている馬から見れば、人間はおろかしい。セックスしたくても、人目をはばかる。隠れて酒を飲んだり、ここは自分の土地と柵をつくったり、荒野を自由に歩き回る権利を奪うなと柵を壊したり、まあ、軋轢をかかえて生きている。映画の途中で、何度か家のガラスがピカリと光るが、あれは他人の目を意識しているから、他人が見ているように感じてしまうことの象徴である。でも、そういう人間も、この映画の人間側の主人公であるらしい独身男と未亡人のように、本能のままに生きれば自由と喜びを手に入れることができる。
馬は、そんなふうに見ている--と映画を見終わったとき、感じる。そして、アイルランドへ行って馬にあってみたい、馬の目を見てみたいと思う。
アイスランドの映画ははじめてみたので、そこに描かれるものすべてがおもしろかった。
(2014年12月17日、KBCシネマ2)
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