詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ベネディクト・エルリングソン監督「馬々と人間たち」(★★★★)

2014-12-17 21:45:14 | 映画
監督 ベネディクト・エルリングソン 出演 馬、イングバール・E・シーグルズソン、シャーロッテ・ボービング、ステイン・アルマン・マグノソン



 馬と人間を、馬から描いている。まず馬が登場し、その目のなかに人間がいる。あるいは人間がつくった何か(柵とかロープとか)が見える。その人間と馬とのいくつかのエピソードが映画を構成する。
 この映画のいちばんの特徴は、人間は死ぬが馬は死なないということである。馬の死も描かれるが、それはどちらも人間が殺す。馬は殺されて死ぬのであって、人間のように欲望に暴走して死ぬ(自滅)するのではない。また、殺されることに対して馬は不平を言わない。死を受け入れる。(受け入れているように見える。)馬は死ぬことによって、人間を生かすのである。
 象徴的なのが、スペイン語圏の旅行者と馬の関係。馬に乗って荒野を歩き回る。彼だけがはぐれてしまう。雪がふる。夜になる。彼は馬を殺して、内臓を取り出し、馬の体を「寝袋」にして寒さからのがれ、生き延びる。馬は死んで、人間は生きる。
 この死と生の関係から、映画を思い出し直すと、最初の馬の死も、やはり人間を生かしているのだとわかる。独身の男がいる。自慢の白馬がいる。それに乗って、ちょっと気になる未亡人の家へ訪問する。どうも、日課らしい。近所(といっても、かなり離れている)のひとは、彼が未亡人を訪問するのを双眼鏡で見ている。未亡人も彼のことを気にいっているらしい。ふたりは何とかセックスをしたいと思っている。(らしい)
 ところが、二人がセックスをする前に、二人の飼っている馬、男の白馬、女の黒い馬が先にセックスをしてしまう。男が未亡人を訪問した帰り道、白馬が道の真ん中で立ち止まり、黒い馬が男が乗っているのを無視して交尾する。(男が雌の馬、女が雄の馬を飼っている、男と女が、人間と馬では逆になっているのがなんともおもしろい。)それも、近所のひと全員にみられてしまう。
 男はかってに(?)交尾した白馬を射殺する。馬は殺される。(黒い馬の方は去勢される。)この馬の死が人間を生かすこととどういう関係かあるかというと……。簡単に言うと、最後に男と女はセックスをする。ついに自分たちの愛を確認する。女が男を誘い、荒野(谷間)でセックスをする。もちろん、これもひとに見られてしまう。見ても、しかし、ひとはそれに口出しをするわけではないが……。
 これも馬の死が、男と女を結びつけ、人間を「生かした」と言える。

 こんなに人間より(?)の馬なのに……。
 最初のシーンは、いささか変わっている。独身男の飼っている馬。これが、なかなか手綱をつけさせない。いったん、手綱をつけ、鞍を置き、男が乗ってしまうと洒落た走り方をするのに、なかなか面倒くさい。男の言うことを、素直に聞くわけではない。その「反抗」の最大のものが、男を載せたままの交尾。馬は男に「飼われている」という感覚はないようなのだ。黒い馬の方も、男が「あっちへゆけ」というのを無視して交尾する。男が乗っていて邪魔だともいわない。人間の存在を気にしていない。
 変だな、と思う。
 この「変」は最後になって「原因」がわかる。
 村人がそろって馬に乗って荒野に出掛ける。ピクニック? いや、そうではなくて、野生の馬をつかまえにゆくのである。三班に別れ、荒野にいる馬を集めてまわる。(この過程で、独身男と未亡人は二人だけになり、セックスをする。家を訪問してセックスをすれば、近所のひとに目撃されるが、荒野なら見られない。実際は見られてしまうのだけれど……。)集めた馬を一か所に集め、「競り」なのか「配分」なのかわからないが、それぞれが自分の好みの馬を選ぶ。その馬をつかって、この村の住民は旅行者相手に「乗馬ピクニック」のようなことをして生計を立てているらしい。あるいは、その乗馬クラブに馬を提供することで生計を立てているらしい。--これは私の想像で、映画で、そう説明されるわけではないが。
 で、私は馬のことを知らないのだが、この映画に登場する馬を見た瞬間、馬が「小型」だなあと感じた。見た感じがサラブレッドのように大きくない。競馬の乗り手が小さいからサラブレッドが大きく見えるのかなあ、とも思ったが、どうも違う。そして、その「小型」の理由が、やはり最後になってわかった。「野生の馬」なのだ。アイスランドの野生の馬。厳しい冬の寒さに絶えて生き延びる馬。人間によって改良されていないから「小型」なのだ。
 「野生」だから、人間の言うことを聞かない。交尾したくなれば、だれが見ていようがしてしまう。本能だから。本能で生きている。(野生だから、この映画に登場する馬は厳寒の海を泳ぐこともできる。この海を泳ぐ馬は、男のためにロシア船まで泳ぎ、男にウオツカよりも強い酒をもたらす。その酒が原因で男は死ぬが、馬は死なない。)
 この本能のまま、自由に生きている馬から見れば、人間はおろかしい。セックスしたくても、人目をはばかる。隠れて酒を飲んだり、ここは自分の土地と柵をつくったり、荒野を自由に歩き回る権利を奪うなと柵を壊したり、まあ、軋轢をかかえて生きている。映画の途中で、何度か家のガラスがピカリと光るが、あれは他人の目を意識しているから、他人が見ているように感じてしまうことの象徴である。でも、そういう人間も、この映画の人間側の主人公であるらしい独身男と未亡人のように、本能のままに生きれば自由と喜びを手に入れることができる。
 馬は、そんなふうに見ている--と映画を見終わったとき、感じる。そして、アイルランドへ行って馬にあってみたい、馬の目を見てみたいと思う。
 アイスランドの映画ははじめてみたので、そこに描かれるものすべてがおもしろかった。
                     (2014年12月17日、KBCシネマ2)




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新川和江「つのぐむ」ほか

2014-12-17 10:00:43 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
長田弘「冬の金木犀」、岸田将幸「Find the river、石狩」、新川和江「つのぐむ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 長田弘「冬の金木犀」(「文藝春秋」3月号)は珍しい視点。金木犀というと、どうしても秋を思い出すが、その後を書いている。

人をふと立ち止まらせる
甘いつよい香りを放つ
金色の小さな花々が散って
金色の雪片のように降り積もると、
静かな緑の沈黙の長くつづく
金木犀の日々がはじまる。
冬から春、そして夏へ、
ひたすら緑の充実を生きる、
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。

 「金色の雪片のように降り積もる」は美しい比喩だ。予感のようにして、冬を呼び込み、そのまま冬へ動いていく。そして、そのあとに「静かな緑の沈黙の長くつづく」と視線が少しずれる。金木犀の香りでも、その香りをはなつ花でもなく、ひとが(私だけかもしれないが)見すごしている緑へと。私は金木犀の存在を香りが強い秋以外に感じたことがないので、そうか、金木犀は常緑樹だったのかと驚き、また、その緑を静かに見つめている長田にも驚く。花の咲いていない(香りのない)金木犀を長田は見ている。その木が金木犀とわかって、その緑と一体になっている。一体になって、「ひたすら緑の充実を生きる」。
 これは、長田と詩の関係のことを自ら語っているようにも思える。完成された詩は、秋の金木犀のよう。ひとの注目をひく。けれど、ことばは、詩の形だけで存在するわけではない。詩にならないときも、ことばの「沈黙」を生きている。「沈黙の充実」を生きている。ことばもまた「詩」という花を咲かせ、「香り」を発するかたちになるまで、沈黙し、力を充実させている。充実するという「自由」を生きている。
 「行為じゃない。生の自由は存在なんだと。」という行は、金木犀(樹木)は動かない。行為しないということに対する感想なのだろうか。動かない(行為しない)けれど、そこに存在する、そして生きている。存在しながら、花を咲かせ、香りをはなつまで、ただ「沈黙」している。「沈黙」しているときも、そこに「生きる」ことが充実している。
 「沈黙」「充実」「生きる」「自由」ということばが、金木犀という存在となって、そこに「ある」ように感じる。「沈黙」「充実」「生きる」「自由」ということばの接続と断絶の仕方が、「融合」している、というか……。それぞれのことばは何かを「分節」してきているのだが、「分節」はことばが発せられる瞬間だけのことであり、ことばになったあとすぐに「未分節」の世界へかえっていく。そしてその「未分節」の「場」でとけあっている。そういう「未分節」が存在ということか。そうであるなら「行為(する)」とは「分節(する)」こと……。
 あ、これ以上書くと、「意味」になってしまう。「意味」にしないで、ぼんやりと、ここでことばを止めておこう。



 岸田将幸「Find the river、石狩」(初出「midnight Press Web」9、3月)は、ことばに誘われて、肉体が肉体を裏切るようなおもしろい瞬間を書いている。

国道二三一号線沿いのセイコーマートで、来札というところはどこですか、と尋ね、
ガソリンスタンドを曲がって----、そのまま真っすぐゆくと、川に行ってしまうから-----、
あまり人の行かないところなのですね、----ト
(果たして、人の行き着くところとは、<人>であってほしい)
僕はそのまま真っすぐゆこうと思った、あまり人のゆかないところへゆこうと思った
僕はとうとう、いや僕もとうとう、そのような川へ来てしまう

 道を尋ねて、そのときの「答え」に誘われて、目的地を忘れてしまう。目的地よりも、そこからそれた「脇道」にそれてしまう。それを「僕はとうとう」と言ったあと「僕もとうとう」と言いなおす。この言いなおすときの「接続」と「切断」がおもしろい。
 ひとはあらゆる瞬間に「切断/接続」を繰り返している。それは、私には「分節/未分節」を往復しているようにも見える。「分節」された何かは「目的地」、この詩で言えば「来札」ということになる。そこへ向かってはいるのだが、「分節」されたもの、「限定的」なものを、行動の「経済学」のままに実現するのはおもしろくない(かもしれない)。それよりも「分節」(目的地)までの行動がわかったなら、それを別な形で「分節」しなおせないか。教えられた道をまっすぐに、「正しく」進むのではなく、そこからそれて、もう一度「ここ(道の場所)」から「分節」できないか。間違うふりをして「新しい」道をみつけられないか。「分節」しなおせないか。
 そういう「むだ」(不経済)を岸田は書いている。「不経済」のなかに詩がある、と書いているように思う。
 このあと岸田は「リヤカーで薪を運ぶ小父」にまた道を尋ねるのだが、人との出会いによって「分節」が再度おこなわれるときの、その不思議なおもしろさ。不合理というか、不条理というか、「非経済学」的な行動のなかで、ことばが、少しずつ揺らぎ、ことばではなくなってゆく。その崩壊。さらに、崩壊しながら、崩壊の中に姿をあらわす岸田の肉体--そういうものが、おもしろい。不思議に「抒情」というものを刺戟する。「抒情」はたいてい「敗北する精神」の形でセンチメンタルを刺戟するのだが、岸田の場合、ことばが「不経済」なのでセンチメンタルにならない。「合理的」にならない感じ、「精神」ではなく、「なまの肉体」という感じで、体温があるところが魅力的だ。
 --こんな抽象的な書き方では、岸田のことばの魅力を説明したことにならないだろうけれど、岸田が書いていることばの「分節/未分節」のあり方は、説明しようとすれば何十枚ものページが必要だ。だから、端折って、私はテキトウに「感覚の意見」のまま、書いておく。いわば、メモである。



 新川和江「つのむぐ」(「初出阿由多」15、3月)。私は「つのぐむ」ということばを知らない。辞書を引けばいいのかもしれないが、私は辞書をあまり信じていない。辞書よりも、そこに書かれていることばを、そのまわりのことばと関連づけて読んでいけばいいと思っている。大事なことは、ひとは何度でも言いなおす。きっと、その言い直しの中に「意味」の手がかりがある。
 で、知らないまま、読んでいくと、

二はしらの神が
国産みの仕事もまだお始めにならぬうちに
混沌(どろどろ)の中から最初にかたちをあらわしたのは
つのぐむ葦でありました
あざやかな緑の錐は
萌えあがる力をもって世界の中心をさしたと
いにしえの書物はしるしています

 頼りになることばは「葦」。それから「かたちをあらわす」「緑の錐」「萌えあがる」。葦が「混沌(どろどろ)」から形をあらわすなら、そしてそれが緑色で錐の形をしていて、萌えあがるなら、それは「芽ぶく/芽を出す」だろう。「芽」を「つの」にかえると、「つのぶく」。「つの」は「角」であり、それは先がとがった「錐」の形。
 「芽ぶく」よりも「つのぶく」の方が音がゆっくりしていて、古い感じがする。この「古い」は「原始的(根源的)」という感じでもある。
 それにしてもおもしろいなあ。「芽」よりも先に「つの(角)」がことばとしてあったのか。「混沌」という観念的なことばのまえには「どろどろ」があった。(「どろどろ」というルビが「混沌」を「混沌」ということばになる前の世界に引き戻す。)これはなんとなくわかる。こどものは「どろどろ」ということばを先に知る。「混沌」はもっとあとからだ。観念で世界をととのえることを覚えてからだ。「どろどろ」は最初は「泥泥」かもしれないが、生きているあいだに「泥」よりももっと「肉体」的なもの、肉体の内部にあるもの、「感情のどろどろ」にかわっていく。おとなになってしまうと「泥」とは遊ばなくなり、もっぱら感情(人間関係)の「どろどろ」にからまれてしまう。そして、その「感情」には「怒る」ということも含まれる。「怒る」は「角を出す」ともいう。「つのぶく」には、何か、そういうものを感じさせる力もある。我慢しきれなくなって、激情が噴出する。その「激情」を感じさせるものがある。
 「芽ぶく」ということばなら、こんな寄り道(ことばの不経済/くだくだとした思いめぐらし)はしない。奇妙な寄り道をすると、自分の「肉体」の内部が揺り動かされた感じがする。その揺らぎの中に「いにしえの書物」(古事記?)につながるものがあるのだと感じる。人間はみんな「つのぶく」ということをするのだ、と思う。--こういう「余分」な寄り道、どうでもいい思い(思い間違い?)のなかに詩はあるんだろうなあ、と私は感じる。そういうことをおもしろいなあと感じながら読み進む。
 で、そのあと。

それから春は数えきれないほどめぐって
この国もすっかり年をとりました

 これは「流通言語(ことばの経済学にのっとったことば)」で言いなおせば、古事記(神話?)の時代から何年もたったということに過ぎないが、「つのぶく」で寄り道をした私は、またさらに寄り道(脱線)をする。
 「春を数える」(春を繰り返す)ということばのなかに、「肉体」が何度も「つのぶく」を「見る」という「動詞」が重なって動く。そして「見る」には当然自分自身の「肉体」が重なるので、「この国もすっかり年をとりました」は「私もすっかり年をとりました」という「実感」と重なる。この「重なり」がおもしろいのは、古事記から現代までの「時間」と自分自身の「年取ったというときの時間」では「長さ」がまったく違うのに、その「長さ」の違いが抜け落ちて、「つのぶく」「めぐる」という「動詞」のなかで「重なる」ということが起きることだ。
 「時間」、「時の間」「時と時の間」は、あって、ないのだ。「いま」だけがあって、「いま」古事記の過去を思い、「いま」自分の過去、生きてきた時間を思うとき、ふたつの過去は数字(年数)で客観的に言うことはできても、「実感」としては「いま/思い出す」という「瞬間」にのみこまれて、区別がない。
 時間に区別がないなら。
 と、私は、ここで「飛躍」する。「誤読」する。ことばを暴走させる。
 「つのぶく葦」と「私(新川)」もまた区別がない。新川は古事記を読んで葦のことを思い出しているだけではない。自分の「生きてきた時間」を思い出している。生き方をも思い出している。
 葦は生まれて、何をしたか。

萌えあがる力をもって世界の中心をさした

 あ、すごい。
 ひとは、生きるとき「世界の中心をさす」のだ。さそうとするのだ。そして、その「さす」ものが「つの(尖った感情/怒り/激情)」なのか。
 ひとは年を取ると「まるくなる」というが、そんなことはないのかもしれない。

でも春ごとに萌えだす草が
もののはじめのあの葦のように
どの葦も どの葦も
世界の中心をさそうと背のびしているのは
なんと嬉しいことでしょう
 
 いいなあ。この希望の力はいいなあ、と思う。新川のことば自体が「中心」をさして「つのぶいている」。
 「中心」というと、何かの真ん中なのだが、葦の芽(つの)が指しているのは、「どろどろ/泥/大地」とは正反対の「天(空/宙)」。えっ、「世界の中心」は「天」?
 「論理」が一気に逆転する。自分の根を張って生きている大地(泥)が、突然、世界の端っこに押しやられる。中心は自分の生きている場所とははるかに遠い「宇宙」。
 この瞬間、不思議な開放を感じる。「世界」がひろがった感じ。「どろどろ」がきれいさっぱり消えてしまう感じ。
 これ以上ことばを動かすと「倫理」になってしまいそう。だから、もう書かない。
 ただ、ひとこと。もしこの詩が「芽ぶく」というタイトルで、途中に出てくることばが「芽ぶく」だったら、私はきっとこんなふうには感じなかった。「つのぶく」が私の考えた通りの意味なのかどうかはわからないが、私はこういう「誤読」が好きなのだ。「誤読」をしたくて詩を読むのだとあらためて思った。

ブック・エンド
新川 和江
思潮社
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どこで間違えたのだろう、

2014-12-17 01:24:32 | 
どこで間違えたのだろう、

どこで間違えたのだろう、
一階二階に四戸ずつのアパートなのに階段を上って歩きはじめると、廊下がどこまでものびてゆき、部屋にたどりつけない。

いつ間違えたのだろう、
明かりの消えた部屋の前をすぎて廊下が玄関のドアの前をとおると、まっすぐなはずの廊下が左へまがって、ホテルのように奥へ奥へと部屋がつづいている。

なぜ見えたのだろう、
冬の深夜なのに台所の窓があいていて女が見えないところで手を動かしている、と書いてある本がその奥の部屋の机の上にある。

夢のなかでも起きるはずがない、
アパートのまわりには一戸建ての家がひしめき、その路地のどこかから湯のにおいと化粧のにおいがするのを頭の中で思い描く私が布団の上であぐらをかいている。



*

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