谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(27)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
本のカバーをとったときにあらわれる「秘密の詩」。この詩の感想を書けば、この本を全部読んだことになるのか。わくわくする。私はあいかわらず「タマシヒ」を信じているわけではないが、谷川が「タマシヒ」と呼んでいるものが、なんとなく「あれか」とわかったような気持ちになっているので、最後の詩でその印象がどうかわるのか、どきどきもする。
私の読んだ来たことは全部「誤読」? それともいくらかは谷川の「タマシヒ」と交流してきた証拠(?)のようなものをつかみとれるだろうか。
灰色の表紙に銀の型押しした文字。
うーん、読みづらい。「タマシヒ」って、こんなふうに見えにくいもの?
引用して読み直そう。
あれっ、この詩、読んだことがある。「悟る」という動詞に触れて、何か書いたはず。「細部は何ひとつ思い出せない」ではなく、「悟る」について書いたこと、それから「むすぶ」について書いたことを思い出すが、でも、「何ひとつ思い出せない」と言っていいくらいに、何と書いたか思い出せない。
これが、この本の「いちばんいい詩(代表作)」?
私は「オロルリァ滞在記」がいちばん好きだけれど、そう思うのは、それが最後に読んだ詩だからかもしれない。私は忘れっぽい人間だから、最後のことしか覚えていないだけなのかもしれない。
あれこれ考えてもしようがないので、きょうはきょうの感想を書こう。きのうの「感動」を引きずりながら。
二連目を私は、書き換えたい衝動にとらわれている。書き換えてみよう。
空の色をつかみ取る。たとえば「青」とことばにする。ことばにしながら「青」ではいいきれないと、ことばの奥でことばにする。そのとき「空」と、あるいは雲、木、風と対話した。ことばにしたり、ことばにしなかったりして。そのときの、ことば、ことば以前(未生のことば)の「細部」(正確にはどう言ったのか、どう思ったのか)は「思い出せない」。でも、そういうことばを動かしたとき、そこに「タマシヒ」は存在した。「タマシヒ」が動かしたことばがあり、「交流」が存在した。その「タマシヒ」はことばを動かしながら、「世界」から愛撫されている、「交流している」と感じた。「タマシヒ」は「私」になって世界から愛撫されている。「世界」(遠心)と「タマシヒ」(求心)は「愛撫される」ことでつながる。交流し、ひとつになる。
「タマシヒ」が何か言う。外へ出ていく。あ、「求心」ではなく、「遠心」か。私は「遠心」と「求心」を間違えてつかっていたのか。その外へ向かって動くタマシヒに向かって世界が「愛撫」してくる。外から内へ、遠くから中心へ、つまり「求心」。
そのとき「私(のからだ、肉体)」が世界と出会う。「世界」-「タマシヒ」-「私」。。
あ、言いなおそう。「世界」-「私」-「タマシヒ」、あるいは「世界」-「私-タマシヒ」というのが最初の関係かな? 私の奥(深部)にあるタマシヒが「私」を突き破って「世界」に触れる。そうすると、世界の奥(深部)に「世界」の「タマシヒ」が生まれ、「タマシヒ-世界」-「私-タマシヒ」という交流ができる。「タマシヒ」は「私」と「世界」を飛び越えて「ひとつ」になる。そのとき、「タマシヒ」のなかで「世界-私」が合体する。そういう運動が瞬時に起きる。
どう呼ぶのが正確なのか、あるいはわかりやすいのか。(わかりやすいものが正確とはかぎらないが……)。厳密に考えるのはやめよう。「タマシヒ」が「往復」する、相互に働きかけるということがわかればいい。「タマシヒ」は、能動として動きながら、他方で「世界」から「愛撫される(働きかけられる/受け身)私」になるということがわかればいい。
「タマシヒ」と「世界」と「私」の関係を象徴する(再確認する)のが、
「私と」の「と」。「私」は「主語」として「能動」の働きをしない。「私」は「受け身」だ。「タマシヒ(私のタマシヒと世界のタマシヒ)」が「私と成果をむすんでいる」。「私」は「世界と結び合わされる」、「タマシヒ(私のタマシヒと世界のタマシヒ)」によって。そのとき、ここには明確に書かれていないが「私(のタマシヒ)」は「世界(のタマシヒ)」に「愛撫される」。
三連目も書き換えよう。
愛撫した「世界」が「タマシヒ」を忘れないのは、人間が誰かを愛撫したとき、その相手(愛撫された人間)を忘れないのと同じだ。私が愛した誰かが私のもとから離れていっても、私はその人を忘れない。その人は、あの愛の瞬間から私に属している。物理的に属していないくても、記憶がつないでしまう。
そんなことも思う。
さらに四連目。
「そのひととき」の「その」は「愛撫された」という「意味」を含んでいる。特別な印が「その」なのである。「その」は「愛撫された」ひとにしか分からない。
さらに書き直してみよう。
「交流した」という感じ(実感/肉体がつかみとる事実)は、いつまでも残る。消えることはない。
詩を読む、ことばを読む--谷川の詩を読む、そのとき、私は谷川と交流している。そのことを谷川が知っているのかどうかは問題ではない。また、私の交流の仕方(読み方)を谷川が気にいるかどうかも関係がない。私にとって、その「交流」は失われることはない。何が書いてあったか、そのとき私が何を思ったかという細部は全部忘れても、「交流した」ときの感じが残り、それがあるとき、無意識の形で、どこかに出てくる。その無意識の形(ふと動くのだけれど、それがどこからやってきたかわからない何か)として「タマシヒ」は「ある」かもしれない。「無意識」なので、私は「魂はない」と言うのかもしれない。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
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本のカバーをとったときにあらわれる「秘密の詩」。この詩の感想を書けば、この本を全部読んだことになるのか。わくわくする。私はあいかわらず「タマシヒ」を信じているわけではないが、谷川が「タマシヒ」と呼んでいるものが、なんとなく「あれか」とわかったような気持ちになっているので、最後の詩でその印象がどうかわるのか、どきどきもする。
私の読んだ来たことは全部「誤読」? それともいくらかは谷川の「タマシヒ」と交流してきた証拠(?)のようなものをつかみとれるだろうか。
灰色の表紙に銀の型押しした文字。
うーん、読みづらい。「タマシヒ」って、こんなふうに見えにくいもの?
引用して読み直そう。
ひととき
長い年月をへてやっと
その日のそのひとときが
いまだに終わっていないと悟るのだ
空の色も交わした言葉も
細部は何ひとつ思い出せないのに
そのひとときは実在していて
私と世界をむすんでいる
死とともにそれが終わるとも思えない
そのひとときは私だけのものだが
否応無しに世界にも属しているから
ひとときは永遠の一隅にとどまる
それがどんなに短い時間であろうとも
ひとときが失われることはない
あれっ、この詩、読んだことがある。「悟る」という動詞に触れて、何か書いたはず。「細部は何ひとつ思い出せない」ではなく、「悟る」について書いたこと、それから「むすぶ」について書いたことを思い出すが、でも、「何ひとつ思い出せない」と言っていいくらいに、何と書いたか思い出せない。
これが、この本の「いちばんいい詩(代表作)」?
私は「オロルリァ滞在記」がいちばん好きだけれど、そう思うのは、それが最後に読んだ詩だからかもしれない。私は忘れっぽい人間だから、最後のことしか覚えていないだけなのかもしれない。
あれこれ考えてもしようがないので、きょうはきょうの感想を書こう。きのうの「感動」を引きずりながら。
二連目を私は、書き換えたい衝動にとらわれている。書き換えてみよう。
空の色も交わした言葉も
「交流の」細部は何ひとつ思い出せないのに
その「交流したタマシヒ/タマシヒの交流」は実在していて
私と世界をむすんでいる
空の色をつかみ取る。たとえば「青」とことばにする。ことばにしながら「青」ではいいきれないと、ことばの奥でことばにする。そのとき「空」と、あるいは雲、木、風と対話した。ことばにしたり、ことばにしなかったりして。そのときの、ことば、ことば以前(未生のことば)の「細部」(正確にはどう言ったのか、どう思ったのか)は「思い出せない」。でも、そういうことばを動かしたとき、そこに「タマシヒ」は存在した。「タマシヒ」が動かしたことばがあり、「交流」が存在した。その「タマシヒ」はことばを動かしながら、「世界」から愛撫されている、「交流している」と感じた。「タマシヒ」は「私」になって世界から愛撫されている。「世界」(遠心)と「タマシヒ」(求心)は「愛撫される」ことでつながる。交流し、ひとつになる。
「タマシヒ」が何か言う。外へ出ていく。あ、「求心」ではなく、「遠心」か。私は「遠心」と「求心」を間違えてつかっていたのか。その外へ向かって動くタマシヒに向かって世界が「愛撫」してくる。外から内へ、遠くから中心へ、つまり「求心」。
そのとき「私(のからだ、肉体)」が世界と出会う。「世界」-「タマシヒ」-「私」。。
あ、言いなおそう。「世界」-「私」-「タマシヒ」、あるいは「世界」-「私-タマシヒ」というのが最初の関係かな? 私の奥(深部)にあるタマシヒが「私」を突き破って「世界」に触れる。そうすると、世界の奥(深部)に「世界」の「タマシヒ」が生まれ、「タマシヒ-世界」-「私-タマシヒ」という交流ができる。「タマシヒ」は「私」と「世界」を飛び越えて「ひとつ」になる。そのとき、「タマシヒ」のなかで「世界-私」が合体する。そういう運動が瞬時に起きる。
どう呼ぶのが正確なのか、あるいはわかりやすいのか。(わかりやすいものが正確とはかぎらないが……)。厳密に考えるのはやめよう。「タマシヒ」が「往復」する、相互に働きかけるということがわかればいい。「タマシヒ」は、能動として動きながら、他方で「世界」から「愛撫される(働きかけられる/受け身)私」になるということがわかればいい。
「タマシヒ」と「世界」と「私」の関係を象徴する(再確認する)のが、
私と世界をむすんでいる
「私と」の「と」。「私」は「主語」として「能動」の働きをしない。「私」は「受け身」だ。「タマシヒ(私のタマシヒと世界のタマシヒ)」が「私と成果をむすんでいる」。「私」は「世界と結び合わされる」、「タマシヒ(私のタマシヒと世界のタマシヒ)」によって。そのとき、ここには明確に書かれていないが「私(のタマシヒ)」は「世界(のタマシヒ)」に「愛撫される」。
三連目も書き換えよう。
死とともに「タマシヒの交流」が終わるとも思えない
「世界から愛撫されたタマシヒ」は私だけのものだが
否応無しに「私のタマシヒを愛撫する」世界(のタマシヒ)にも属しているから
愛撫した「世界」が「タマシヒ」を忘れないのは、人間が誰かを愛撫したとき、その相手(愛撫された人間)を忘れないのと同じだ。私が愛した誰かが私のもとから離れていっても、私はその人を忘れない。その人は、あの愛の瞬間から私に属している。物理的に属していないくても、記憶がつないでしまう。
そんなことも思う。
さらに四連目。
「愛撫されたタマシヒ」は永遠の一隅にとどまる
「タマシヒが愛撫される時間」がどんなに短い時間であろうとも
「愛撫されたタマシヒ」が失われることはない
「そのひととき」の「その」は「愛撫された」という「意味」を含んでいる。特別な印が「その」なのである。「その」は「愛撫された」ひとにしか分からない。
さらに書き直してみよう。
「タマシヒの交流」は永遠の一隅にとどまる
「タマシヒの交流」がどんなに短い時間であろうとも
「タマシヒが交流したという事実」が失われることはない
「交流した」という感じ(実感/肉体がつかみとる事実)は、いつまでも残る。消えることはない。
詩を読む、ことばを読む--谷川の詩を読む、そのとき、私は谷川と交流している。そのことを谷川が知っているのかどうかは問題ではない。また、私の交流の仕方(読み方)を谷川が気にいるかどうかも関係がない。私にとって、その「交流」は失われることはない。何が書いてあったか、そのとき私が何を思ったかという細部は全部忘れても、「交流した」ときの感じが残り、それがあるとき、無意識の形で、どこかに出てくる。その無意識の形(ふと動くのだけれど、それがどこからやってきたかわからない何か)として「タマシヒ」は「ある」かもしれない。「無意識」なので、私は「魂はない」と言うのかもしれない。
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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
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