詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金時鐘「朝に」、倉橋健一「パンの朝」、小池昌代「さかのぼる馬の首」

2014-12-13 10:24:17 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
金時鐘「朝に」、倉橋健一「パンの朝」、小池昌代「さかのぼる馬の首」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 金時鐘「朝に」(初出「朝日新聞」2月4日)は世界と詩人との「ずれ」のようなものを書いている。世界に溢れる映像(他人が見た世界の間接的表現)と詩人の認識の「ずれ」。それに向き合っている。

新年の三が日はどの番組からも
開年を言祝(ことほ)ぐお笑いがあふれ出ていた。
画面いっぱい共感をつのらせて
くっきり霊峰富士も映えていた。
裾野がかすむはるかな東北で
錆びついたブランコは垂れたまま
きしりひとつ立てなかった。
終日風が吹きすさび
男は彫像となって枯れ木の陰にいた。
頬のゆるんだ私が
見るともなくそれを見やっていた。

 ぼんやりした倦怠のようなものを感じる。「頬のゆるんだ私」が倦怠を感じさせるのかもしれない。自分の気持ちにあわない世界(他人が「定型」におしこめた世界)をみつめると、世界が自分から離れていって、倦怠感がただようのか。「開年」ということばは聞かないなあ、言わないなあ、「霊峰富士」という言い方はいやだなあ、と私は、行ったり来たりしながら、ちょっとつまずくのだが……。
 途中を省略して、

今に草木も萌え出る新春だ。
帰りつけない住処(すみか)ではあっても
蔓草(つるくさ)は延び 花は咲く。
羊歯(しだ)が生い茂った中生代までも
あるいは持ち越さねばならない空漠の時間が
そのことろで滞っている。

 あ、ぼんやりとテレビを見るふりをしながら、ぼんやりのなかに「既成」の視点を捨てていたのか。テレビが伝える「定型」をくぐりながら、「定型」を捨てていたのか。「定型」を捨てて「時間」をつかみ取っているのか。
 人為を超えて、繰り返す自然の「時間」が「蔓草」「羊歯」という「野生」の強い草花を通って動きはじめる。そして、

私は水仙のような懸念をまたひとつ
胸にかかえて
風のなかをさざめいている

 この3行のあとに、もう1行あるのだが、それを無視して、私はここで「誤読」する。この3行が美しいと思う。
 蔓草や羊歯の生命力に気づいた詩人が、それに呼応するように胸のなかに水仙を咲かせている。自分のなかに花開いたものをかかえている。それは「懸念」と表現されているが、「正しい懸念」(希望につながる懸念)であるだろう。
 「意味」をさがそうとは思わない。「意味」は何とでも書くことができる。「水仙」は象徴である。何の象徴かは考えず、象徴とだけわかればいい。そして、その「水仙」が見えれば、それでいいと思う。
 このとき詩人の頬は「ゆるんで」いないと私は感じる。既成の「定型」を破って、突然花開く1行--そこに詩の不思議さがあると思う。



倉橋健一「パンの朝」(初出『唐辛子になった赤ん坊』2月)は「文体」が詩である。

砂浜に降りていってしゃがみ込んで
<曾(ひい)>の字を書いて遊んでいたら
椿の杖をついた媼が近づいて
おまえのひばばだよ、ひばばだよ、
ついて来な、という
もぐもぐする口元は
よく生きていたな、生きていたな、
といっているようにも見える
そこでわたしは立ち上がるが
おばばの胸のあたりでぴたりととまってしまった
背伸びしても伸びないのだ

 昔話(民話)風の不条理な世界。「曾の字を書いて遊ぶ」などということを、誰もしない(だろう)。そこからすでに不条理なのだが、ことばが隠れている「現実」を引き出すということはある。ことばにすることは、最近あちこちでみかける概念をつかって言えば「分節」すること。「分節」によって「世界」の見え方は違う。どういうことばをつかうかによって、世界が変わってしまうのはあたりまえのことなのだ。だから「曾」から「いま」の世界とは違う世界がはじまっても不思議はない。「遊び」なら、なおさらである。「いま」と「永遠(普遍/真実)」を攪拌して「いま」ではないものを生きるのが「遊び」だ。
 「よく生きていたな、生きていたな」は老婆が「もぐもぐ」言っていることばなのだが、それは「わたし(倉橋)」が老婆に感じていることそのものである。年老いた女がこどもに向かって「よく生きていたな」というのは時系列からいうと変なのだが、「こんなに幼くてよく生きていられる」という驚き(自分は苦労して生きてきたという思い)が、ことばの「意味」をを「逆転」させるのだろう。その「逆転」のなかで、幼い倉橋と老婆が「一体」になる。「よく生きていたな」はどちらのことばにもなる。
 「一体」になってしまったから、「わたし」が立ち上がっても、老婆の思い描いている「曾孫」のままの大きさより大きくはなれない。
 この先、詩はさらに不条理の世界へ進んで行くが、ことばはゆるぎがない。「悪夢」を「分節」しつづける。



 小池昌代「さかのぼる馬の首」(初出「樹林」2月号)は、倉橋が「一体感」の悪夢として「民話」風のことばにしているものを、「現代」のまま描こうとしているようにも読むことができる。--「文体」として、という意味だが……。

宿り木を見たのはある詩人の庭だった
世界のなかに世界 木のなかにもう一本の木
存在の畸型に 胸を打たれた
あなたに昨日、木のおもかげが走ったように
あるとき木にあなたのおもかげが 素早く横切っても不思議はない

 「木のおもかげ」「あなかのおもかげ」が「あなた」と「木」のあいだで交代する。そのときの突然の変化、「分節」の崩壊の「場」に詩がある。「分節の崩壊」という「詩/新しい分節の方向」を小池は「民話」にならないように動かしていこうとしている。「畸型」を「分節」しなおして、「正しい形(?)」にしようとしている。「正しい論理」にしようとしている。

止まるところを探してはぐれた鳥が
ある日
木の腕から落ちてきた
石に次々に翼が生え 鳥になった民話がどこかにあったが
翼をもったものが
石となって 落下し続ける山峡もあるという
地獄だが
それは落ちることによって地獄なのではなく
落ちる生というものが
永遠に続くことによって地獄なのである

 「民話」ということばを出しているのは、「民話があった」と書くことでそこへ近づくのではなく、そこから離れようとする意図があるからだ。そこに「いま」を書こうとする小池の意思も感じられるのだが、なんだかことばが「理詰め」すぎる。リズムも先を急ぎすぎて乱れているように感じる。
 詩ではなく、小説にすると落ち着くかもしれないと思った。

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何度も思い返すのだが、

2014-12-13 00:51:47 | 
何度も思い返すのだが、

何度も思い返すのだが、思い返すたびに同じ場所を通ってしまう。
靴屋の明るいウインドーを左手に見ながら角を曲がる。
「蔦が二階まで這い上り、
もう上には何もないとわかってしかたなく横に広がったみたい」
蔦の真ん中で四角い窓が夕陽をななめに反射させている。
その光のためになかは見えないように
そのひとは横顔で片方の目を反対側に隠していた。
こころは見えなかったと思いたいけれど、
しかたなくということばが冷たく反射していると気づいた。
何度も思い返すのだが、
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