池井昌樹「蜜柑色の家」、管啓次郎「アイツタキ」、鈴江栄治「視線論」(「現代詩手帖」2014年12月号)
池井昌樹「蜜柑色の家」(初出『冠雪富士』6月)。『冠雪富士』については全作品の感想を書いたので、ここではあまり繰り返さない。
「いまはない」が繰り返される。そのたびに、かつてあったものが思い出されている。けれど思い出せない。「何処へ帰っていったのだろう」。これは、わかりすぎているために「何処」と言えない場所だ。「何処」と言う必要がない場所だ。言わなくても、池井にはわかっている。
「思い出す」という動詞が必要がない。池井が「いま/ここ」にいるとき、いつも池井の「肉体のなか」にある。
「父はまだ会社だろうな。姉は帰っているかな。」ということばが、「家」が池井の「肉体」のなかにあることを語っている。「いま」は「過去のいま」とぴったり重なっている。「いま」そこにいるはずのない父と姉が「過去のいま」として「いま/ここ(池井の肉体)」のなかに生きている。それは「思い出」ではなく「現実」である。
*
管啓次郎「アイツタキ」(初出『遠いアトラス』6月)。
「黙っている」その時間のうちに「太陽が水平線を出たり入ったりした」というのは「矛盾」。そういうことは、ありえない。「現実」にはありえないけれど、意識のなかではありうる。この「意識」を何と呼ぶか。まあ、「意識」と呼ぶのが一般的なのだろうけれど、私は「肉体」と呼びたい。
また、「肉体」と呼んでしまうので、たぶん、私の書いていることは、ほとんどの人に伝わっていない。
でも、この詩なら、多くの人が「意識」と呼んでいるものを、私が「肉体」と呼んでいる「理由」のようなもをの説明するのに役だってくれるかもしれない。(こういう読み方は、詩の味わい方として「正しい」とは言えないのだが、あえて、そうしてみると……。)
二人は会話しながら夕陽を見ている。会話している。その会話は「合意」に達しない。一致点を見出せない。でも、だからといって二人が対立するわけではない。一緒にいる。それだけではなく、ビールを飲んでいる。二人とも瓶の口から直接ビールを飲んでいる。そのとき、そこにあるのは「飲む」という「動詞」と、その「飲む」を実現する「肉体」。そういう「具体的なもの/こと」がそこにあって、「ビール/飲む」という「もの/こと」は何度も何度も繰り返されている。そのことを「肉体」は覚えている。「ぬるいビール」という表現が出てくるが、「肉体」はそれが「ぬるい」と「わかる」。それは「ぬるい/冷たい」を「肉体」が覚えていて、それを思い出すからだ。「意識」が覚えているのではなく、「肉体」が覚えている。「意識」が思い出すのではなく、「肉体」が思い出す。この「肉体」はあすも、あさっても、それからずーっとつづいていく。その「肉体」がつづいていく時間のなかで太陽が昇ったり沈んだりする。それは「肉体」がこまれでつづいてきた時間のなかで繰り返されたことと同じである。太陽が昇り、太陽が沈む--ということを「肉体」が覚えていて、「肉体」が思い出すのである。
海(水平線)も太陽も「肉体」の「ひとつ」である。ビールも「肉体」の「ひとつ」である。それは「意識」によって「方便」で別個の存在としてとらえられているけれど「肉体」としては時間を越えてつながっている。
いつまでも「いま」。
そういう「永遠」がここにある。
美しい詩だ。
*
鈴江栄治「視線論」(初出『視線論』6月)。空白の多い詩である。1行のあと、必ず1行のあきがあり、1行のなかにも1字あきがある。文字を見るよりも空白を見る方が多い。私には、そういうことくらいしかわからない。
おわりの方の部分。
「動詞」がいくつか出てくるが、それが「肉体」としてつながらない。私の「肉体」では「動詞」をひとつのつながった「こと」として再現することができない。
「探る」「貫く」「加算する」「放つ」「晒す」(「終る」+「ない」という用言もあるが……。)
これは「肉体」ではなく「精神(意識)」で読む詩なのだろう。「意識」を飛躍させる(空隙、空間を飛び越えさせる)ことでつかみ取る詩なのだと思う。
「視線」と書かれているが、その「視」は肉眼で見るというのとは違うものなのだろう。「示す」へんがついている。もしかすると、その「示す」ということが「視」の重要なことがらなのかもしれない。「見る」という「動詞」はもともと「肉体」から離れたものを「見る」、つまり対象と「肉体」のあいだに距離があるときに可能な「動詞」だけれど、その離れたもの(対象)を指で指し示して、それを見る。「いま/ここ(肉体)」からはなれる、「肉体」の限界を飛び越えるということが、そこに含まれているのかもしれない。
「肉体/精神」という「二元論」でこの詩を見ていくと、鈴江の書いていることがあざやかに実感できるのかもしれない。
私には「わからない」詩である。
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池井昌樹「蜜柑色の家」(初出『冠雪富士』6月)。『冠雪富士』については全作品の感想を書いたので、ここではあまり繰り返さない。
しかし、あれから、ラーメンと鉄火巻に満ち足りた私と訪
問着姿の若い母はどうしただろう。煮干の出汁の匂いのす
る薄暗い駅舎の改札を抜け、微かに潮鳴りを聞きながら、
いまはないディーゼル列車にゆられ、いまはない窓外を眺
め、いまはない、何処へ帰っていったのだろう。
「いまはない」が繰り返される。そのたびに、かつてあったものが思い出されている。けれど思い出せない。「何処へ帰っていったのだろう」。これは、わかりすぎているために「何処」と言えない場所だ。「何処」と言う必要がない場所だ。言わなくても、池井にはわかっている。
「思い出す」という動詞が必要がない。池井が「いま/ここ」にいるとき、いつも池井の「肉体のなか」にある。
あの頃は祖父母もいたな。愛犬コロも尻尾振り振り迎えて
くれたな。父はまだ会社だろうな。姉は帰っているかな。
いまはもうなにもかもことごとく喪われてしまったにも拘
さず、いまもなお、あの頃のまま、蜜柑色の陽に包まれた
家。
「父はまだ会社だろうな。姉は帰っているかな。」ということばが、「家」が池井の「肉体」のなかにあることを語っている。「いま」は「過去のいま」とぴったり重なっている。「いま」そこにいるはずのない父と姉が「過去のいま」として「いま/ここ(池井の肉体)」のなかに生きている。それは「思い出」ではなく「現実」である。
*
管啓次郎「アイツタキ」(初出『遠いアトラス』6月)。
「おれにはきみの世界観はわからないよ
俺たちの地図は縮尺がちがう
それにおれはときどき地図に嫌気がさして
存在しない海岸線や火山まで描きこむことがある」
と私はわざといった。何という意地悪。ぬるいビールを
茶色の瓶の口から少しずつ飲みながら
それからふたりで長いあいだ黙っていると
太陽が水平線を出たり入ったりした
「黙っている」その時間のうちに「太陽が水平線を出たり入ったりした」というのは「矛盾」。そういうことは、ありえない。「現実」にはありえないけれど、意識のなかではありうる。この「意識」を何と呼ぶか。まあ、「意識」と呼ぶのが一般的なのだろうけれど、私は「肉体」と呼びたい。
また、「肉体」と呼んでしまうので、たぶん、私の書いていることは、ほとんどの人に伝わっていない。
でも、この詩なら、多くの人が「意識」と呼んでいるものを、私が「肉体」と呼んでいる「理由」のようなもをの説明するのに役だってくれるかもしれない。(こういう読み方は、詩の味わい方として「正しい」とは言えないのだが、あえて、そうしてみると……。)
二人は会話しながら夕陽を見ている。会話している。その会話は「合意」に達しない。一致点を見出せない。でも、だからといって二人が対立するわけではない。一緒にいる。それだけではなく、ビールを飲んでいる。二人とも瓶の口から直接ビールを飲んでいる。そのとき、そこにあるのは「飲む」という「動詞」と、その「飲む」を実現する「肉体」。そういう「具体的なもの/こと」がそこにあって、「ビール/飲む」という「もの/こと」は何度も何度も繰り返されている。そのことを「肉体」は覚えている。「ぬるいビール」という表現が出てくるが、「肉体」はそれが「ぬるい」と「わかる」。それは「ぬるい/冷たい」を「肉体」が覚えていて、それを思い出すからだ。「意識」が覚えているのではなく、「肉体」が覚えている。「意識」が思い出すのではなく、「肉体」が思い出す。この「肉体」はあすも、あさっても、それからずーっとつづいていく。その「肉体」がつづいていく時間のなかで太陽が昇ったり沈んだりする。それは「肉体」がこまれでつづいてきた時間のなかで繰り返されたことと同じである。太陽が昇り、太陽が沈む--ということを「肉体」が覚えていて、「肉体」が思い出すのである。
海(水平線)も太陽も「肉体」の「ひとつ」である。ビールも「肉体」の「ひとつ」である。それは「意識」によって「方便」で別個の存在としてとらえられているけれど「肉体」としては時間を越えてつながっている。
いつまでも「いま」。
そういう「永遠」がここにある。
美しい詩だ。
*
鈴江栄治「視線論」(初出『視線論』6月)。空白の多い詩である。1行のあと、必ず1行のあきがあり、1行のなかにも1字あきがある。文字を見るよりも空白を見る方が多い。私には、そういうことくらいしかわからない。
おわりの方の部分。
総身の 不定を
はるかにも 探るものとして
深みのみを 貫いている
なお 明るみに 加算する
結び目は 放たれて
終らない 淵を 晒す
「動詞」がいくつか出てくるが、それが「肉体」としてつながらない。私の「肉体」では「動詞」をひとつのつながった「こと」として再現することができない。
「探る」「貫く」「加算する」「放つ」「晒す」(「終る」+「ない」という用言もあるが……。)
これは「肉体」ではなく「精神(意識)」で読む詩なのだろう。「意識」を飛躍させる(空隙、空間を飛び越えさせる)ことでつかみ取る詩なのだと思う。
「視線」と書かれているが、その「視」は肉眼で見るというのとは違うものなのだろう。「示す」へんがついている。もしかすると、その「示す」ということが「視」の重要なことがらなのかもしれない。「見る」という「動詞」はもともと「肉体」から離れたものを「見る」、つまり対象と「肉体」のあいだに距離があるときに可能な「動詞」だけれど、その離れたもの(対象)を指で指し示して、それを見る。「いま/ここ(肉体)」からはなれる、「肉体」の限界を飛び越えるということが、そこに含まれているのかもしれない。
「肉体/精神」という「二元論」でこの詩を見ていくと、鈴江の書いていることがあざやかに実感できるのかもしれない。
私には「わからない」詩である。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
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