詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「蜜柑色の家」、管啓次郎「アイツタキ」、鈴江栄治「視線論」

2014-12-27 12:14:48 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
池井昌樹「蜜柑色の家」、管啓次郎「アイツタキ」、鈴江栄治「視線論」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 池井昌樹「蜜柑色の家」(初出『冠雪富士』6月)。『冠雪富士』については全作品の感想を書いたので、ここではあまり繰り返さない。

しかし、あれから、ラーメンと鉄火巻に満ち足りた私と訪
問着姿の若い母はどうしただろう。煮干の出汁の匂いのす
る薄暗い駅舎の改札を抜け、微かに潮鳴りを聞きながら、
いまはないディーゼル列車にゆられ、いまはない窓外を眺
め、いまはない、何処へ帰っていったのだろう。

 「いまはない」が繰り返される。そのたびに、かつてあったものが思い出されている。けれど思い出せない。「何処へ帰っていったのだろう」。これは、わかりすぎているために「何処」と言えない場所だ。「何処」と言う必要がない場所だ。言わなくても、池井にはわかっている。
 「思い出す」という動詞が必要がない。池井が「いま/ここ」にいるとき、いつも池井の「肉体のなか」にある。

あの頃は祖父母もいたな。愛犬コロも尻尾振り振り迎えて
くれたな。父はまだ会社だろうな。姉は帰っているかな。
いまはもうなにもかもことごとく喪われてしまったにも拘
さず、いまもなお、あの頃のまま、蜜柑色の陽に包まれた
家。

 「父はまだ会社だろうな。姉は帰っているかな。」ということばが、「家」が池井の「肉体」のなかにあることを語っている。「いま」は「過去のいま」とぴったり重なっている。「いま」そこにいるはずのない父と姉が「過去のいま」として「いま/ここ(池井の肉体)」のなかに生きている。それは「思い出」ではなく「現実」である。



 管啓次郎「アイツタキ」(初出『遠いアトラス』6月)。

「おれにはきみの世界観はわからないよ
俺たちの地図は縮尺がちがう
それにおれはときどき地図に嫌気がさして
存在しない海岸線や火山まで描きこむことがある」
と私はわざといった。何という意地悪。ぬるいビールを
茶色の瓶の口から少しずつ飲みながら
それからふたりで長いあいだ黙っていると
太陽が水平線を出たり入ったりした

 「黙っている」その時間のうちに「太陽が水平線を出たり入ったりした」というのは「矛盾」。そういうことは、ありえない。「現実」にはありえないけれど、意識のなかではありうる。この「意識」を何と呼ぶか。まあ、「意識」と呼ぶのが一般的なのだろうけれど、私は「肉体」と呼びたい。
 また、「肉体」と呼んでしまうので、たぶん、私の書いていることは、ほとんどの人に伝わっていない。
 でも、この詩なら、多くの人が「意識」と呼んでいるものを、私が「肉体」と呼んでいる「理由」のようなもをの説明するのに役だってくれるかもしれない。(こういう読み方は、詩の味わい方として「正しい」とは言えないのだが、あえて、そうしてみると……。)
 二人は会話しながら夕陽を見ている。会話している。その会話は「合意」に達しない。一致点を見出せない。でも、だからといって二人が対立するわけではない。一緒にいる。それだけではなく、ビールを飲んでいる。二人とも瓶の口から直接ビールを飲んでいる。そのとき、そこにあるのは「飲む」という「動詞」と、その「飲む」を実現する「肉体」。そういう「具体的なもの/こと」がそこにあって、「ビール/飲む」という「もの/こと」は何度も何度も繰り返されている。そのことを「肉体」は覚えている。「ぬるいビール」という表現が出てくるが、「肉体」はそれが「ぬるい」と「わかる」。それは「ぬるい/冷たい」を「肉体」が覚えていて、それを思い出すからだ。「意識」が覚えているのではなく、「肉体」が覚えている。「意識」が思い出すのではなく、「肉体」が思い出す。この「肉体」はあすも、あさっても、それからずーっとつづいていく。その「肉体」がつづいていく時間のなかで太陽が昇ったり沈んだりする。それは「肉体」がこまれでつづいてきた時間のなかで繰り返されたことと同じである。太陽が昇り、太陽が沈む--ということを「肉体」が覚えていて、「肉体」が思い出すのである。
 海(水平線)も太陽も「肉体」の「ひとつ」である。ビールも「肉体」の「ひとつ」である。それは「意識」によって「方便」で別個の存在としてとらえられているけれど「肉体」としては時間を越えてつながっている。
 いつまでも「いま」。
 そういう「永遠」がここにある。
 美しい詩だ。



 鈴江栄治「視線論」(初出『視線論』6月)。空白の多い詩である。1行のあと、必ず1行のあきがあり、1行のなかにも1字あきがある。文字を見るよりも空白を見る方が多い。私には、そういうことくらいしかわからない。
 おわりの方の部分。

総身の 不定を

はるかにも 探るものとして

深みのみを 貫いている

なお 明るみに 加算する

結び目は 放たれて

終らない 淵を 晒す

 「動詞」がいくつか出てくるが、それが「肉体」としてつながらない。私の「肉体」では「動詞」をひとつのつながった「こと」として再現することができない。
 「探る」「貫く」「加算する」「放つ」「晒す」(「終る」+「ない」という用言もあるが……。)
 これは「肉体」ではなく「精神(意識)」で読む詩なのだろう。「意識」を飛躍させる(空隙、空間を飛び越えさせる)ことでつかみ取る詩なのだと思う。
 「視線」と書かれているが、その「視」は肉眼で見るというのとは違うものなのだろう。「示す」へんがついている。もしかすると、その「示す」ということが「視」の重要なことがらなのかもしれない。「見る」という「動詞」はもともと「肉体」から離れたものを「見る」、つまり対象と「肉体」のあいだに距離があるときに可能な「動詞」だけれど、その離れたもの(対象)を指で指し示して、それを見る。「いま/ここ(肉体)」からはなれる、「肉体」の限界を飛び越えるということが、そこに含まれているのかもしれない。
 「肉体/精神」という「二元論」でこの詩を見ていくと、鈴江の書いていることがあざやかに実感できるのかもしれない。
 私には「わからない」詩である。


ストレンジオグラフィ Strangeography
管 啓次郎
左右社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中庸介「旅と自由とファクチュアルな詩のゆくえ」

2014-12-27 11:26:42 | 詩(雑誌・同人誌)
田中庸介「旅と自由とファクチュアルな詩のゆくえ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 先日、くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ」の感想を書いた。それについて田中庸介から「ピンネシリ」が「知らないのならちょっとでも調べれば」という指摘をいただいた。そうですね。調べればいいのだと思う。でも、詩のなかで「アイヌモシリ」ということばが出てきたので、私は、北海道のどこかだろうと見当をつけた。大事なことばなら、作者はどこかで説明し直す。私は、そう信じている。
 同じ調子で、根本明の「潮干のつと」についても感想を書いた。「潮干のつと」ということばがわからない。でも見当はつく。その見当で感想を書いたところ、

言語の異化効果はもはやあまりにも手垢がつきすぎていて、ぼくら「妃」とか俊太郎さんはあえて採らないテクニックなのですよ。いくら平易なことばで書こうとしても、世界は十分に神秘的だと思う。そこのところでだれもが勝負できるように、詩の舞台をあと一段、前にファクチュアルに引き出しましょうよ。ぼくが現代詩年鑑で書いたことも基本的にはそういうこと。お時間があったら読んでみてください。

 という指摘。「現代詩手帖」は読んでいたが、田中の文章については感想を書いていなかったので、書くことにする。
 私の読み方は「手垢がつきすぎてい」るということだけれど、私には、まだまだ手垢を付けたりないという感じなので、同じことの繰り返しになってしまうだろうけれど。

 最初に「旅と自由とファクチュアルな詩のゆくえ」を読んだとき、あ、田中はどこかの大学の教授なのか、と思った。外国語(翻訳)文学に精通しているようだ、と思った。何冊かの詩集が取り上げられているが、私が読んだことのある本は限られている。そして、私の感想と田中の批評とには「共通点」がない。つまり違った読み方をしているということしか印象に残らなかった。
 何が書いてあったのだろう。読み返してみた。

作者が事物(ファクツ)を丹念に書き記したはずの詩が、その評価の段になると、「事物(ファクツ)」の部分の面白さがぞろっと抜け落ち、「丹念に書き記した」書記行為の強弱のみが問題とされるのは、どういうわけか。詩における事物(ファクツ)の意味性の蕩尽のすさまじさは筆舌に尽くしがたいほどであり、それを幾度も経験すると、事物(ファクツ)の記述を丹念に行うことが馬鹿馬鹿しくなってくるのだが、(以下略)

 ここが、たぶん田中の私への批判の出発点なのだと思う。
 私は「事物」(こと、もの、でいいのなかな?)をどうとらえるかというとき、どうしても「動詞」で考えてしまう。「動詞」を抜きにしては「もの」「こと」がつかみきれない。「肉体」とどういう関係にあるかを抜きにしては「もの」「こと」がわからない。たとえば、いま、こうしてワープロを打っているキーボード、文字を確認しているモニターは、手と目とつながっている。というより、それはほとんど手であり、目であり、また頭である、という感じ。
 詩を読みときも、そこに書かれている「もの」「こと」が作者の「肉体」とどういう関係にあるのか、どこまで「肉体」になっているのか、を「ほんとう」か「うそ」かの判断基準にしてしまう。
 で、田中の文章を読みながらいろいろ感じたのだが、それをそのまま(いま書いてきたような調子で)書いていくと……。

 四方田犬彦『わが煉獄』についてふれた部分。

ソクラテスは「哲学は死の予行演習」と述べ、その理由として魂が肉体という牢獄から解放されることが「哲学」と「死」に共通するものだと言った故事があるが、

 私はソクラテス(あるいはプラトンの文章)は好きだが、「魂/肉体」という「二元論」については、自分自身の「答え」をまだ持っていないので、田中の読み方に簡単に「同意」できない。(ソクラテスの「哲学」を語るときの出発点にはできない。)
 私がソクラテス(プラトン)からわかったことは、ひとつ。ソクラテスのことば(智恵)を慕って若者が集まった。そして一緒にある問題を語り合ったということ。それを楽しんだということ。これは、孔子にも通じる。「論語」の「友あり遠方よりきたる……」というのは、同じことを学びあう友が遠くからやってくる(集まってくる)。そうして一緒に学んだことを学び直すのは楽しいね、ということだと思う。道元のことばにも、これに似たのがあったと思う。仏法を真剣に学んでいるとだんだん人に知られるようになって、人が集まってくる。そういう人と一緒に同じことを学ぶのは楽しい。
 ソクラテス(プラトン)を読む楽しさは、私は、これにつきる。一緒の時代にいるわけではないが、読むと、一緒に考えることができる。いろいろ誤読しながら、それを叱られる。それが楽しい。
 で、田中が「けっして破滅することのない韻律のもとに」という行を中心にして、

これは破滅しうるものとしての生身の人間存在による絶対的な詩性への讃歌であり、この著者の「韻律」への信頼感の強さに驚く。

 と書いている部分。この「韻律」とは何か。田中は最初に引用したソクラテスと結びつけて「魂」と言うだろうか。
 私がソクラテスに結びつけて考えるなら、それは「語ること」、「語り方」だと思う。何かがテーマになる。それをどう語って行くか。どう語れば、求めている「真理」に近づいていくかということだと思う。人間は滅んでも、何かを求めて語るときの「語り口」(語り方)は滅びない。
 これを「魂」と呼んでいいかどうかは、私にはわからない。私は「魂」とは思っていない。あくまで「語る」というときの「肉体」、口を動かし、耳を傾けるという「行為(動詞)」そのものだと思っている。(これは、うまく説明できない。つまり、私のなかでは「予想/予感」のようにしてあるだけで、ことばにはなじまない。私には未解決の問題なので、説明しきれない。)

 ここまで書いてきて、私の感想は田中の指摘(批判)とうまくかみ合っていないなあ、と思う。原因は、田中の指摘している「事物(ファクツ)」というものを私が把握しきれていないところにある。「事物」という日本語を私はめったにつかわない。「ファクツ」という英語(?)もつかわない。「ファクチュアル」ということばもつかたことがない。そのことばは私の「肉体」になじんでいない。
 だから、どうしても疑問が多くなる。疑問を書くことになってしまう。

詩において事物(ファクツ)とは、つねにその「素材」としてしか取り扱われず、「何が」書いてあるかということよりも、「どのように」書かれているかということのほうがはるかに重要視される、

 こういう詩の読み方に対して田中は疑問を投げかけている。そこから推測すると、田中は「事物(ファクツ)」を「何が」ということばで言いかえているように思える。私のことばで言いなおせば、そこで起きていること(事件)。
 もしそうであるなら、(ここからは、私の「誤読」の暴走になるのだが)、私も、やはり「こと」を浮き彫りにすることで感想を書いている、というしかないのだが。
 つまり、「起きていること」というとき、そこには「場」があり、「時」があり、「人間」がいる。その三つをつかみ取るとき、私は「人間(肉体)」を基準にして考える。「肉体」の「動き」(動詞)を基本にして考える。「肉体」が「動く」と、その動きにあわせて「場」の大きさがきまり、「時」のひろがりも決まる。どんなふうに「動詞」をつかって「こと」と「肉体」を関係づけているか、その「書き方」から作品に近づいていこうと試みている。そういう読み方は、田中に言われば「手垢がつきすぎて」いるということになるのだが……。

 「書記行為」ではなく「事物(ファクツ)/何が」が重要と田中は言うのだが……。
 清岡智比古『きみのスライダーがすべり落ちるその先へ』に関する次の評価、

瞬時に作品を閉じてしまうこの暴力的な書法など、まるで野球の「スライダー」そのものとさえ言えるような、著者の高度なことばのあしらいの技に感じ入る。

 こう書くときの「書法」とは何なのだろう。「事物(ファクツ)」なのか。
 さらに、

<ここではないどこか>を求めつづけようとする永遠のアドレセンスの、すばらしい換喩となっている。(中村和恵『天気予報』についての言及)

この詩集が作者自身の深奥の苦悩を、これほどまでに親しみ深く、われわれに語りえたのは、(くぼたのぞみ『記憶のゆきを踏んで』についての言及)

馬や猫を主人公にした『第九夜』の書法を受け継ぎつつ、こちらはあれやこれやの引用を含めもっと日本的で繊細な感受性によって彩られている。(竹内新『果実集』についての言及)

 そこでつかわれている「換喩」「語りえた」「書法」「感受性によって彩る」というような表現は「事物(ファクツ)」なのか。「書記行為」への注目とどう違うのか。
 そういう部分に、私はつまずいてしまう。
 「事物(ファクツ)」のおもしろさよりも、「表記行為」の充実に目を向けて、田中は作品を紹介(批評)しているように思える。

 「事物(ファクツ)」って、何?

 そういう疑問を脇に置いておいて。
 私がおもしろいなあと感じたのは、岩切正一郎『視草の襞』から「Wiosnaを、春を、口ずさみたくて」という行の前後を引用したあとに書いている次の部分。

Wiosnaは予想通りポーランド語で「春」の意味。

 田中は「Wiosna」の意味を調べる。私は、こういうとき調べない。「知らない」は「知らない」と書く。けれど、「Wiosnaを、春を」と書いているので、「Wiosna=春」だと考える。ひとは大事なことはことばを繰り返して説明する。それが私の知っている「肉体」の動きだからである。そして、聞く方(読む方)は、その「知らない/わからない」ことばに対して「予想する」。知らなくても、わからなくても、それまで聞いてきたことば、読んできたことばの動きから「何か」を感じ、それを「予想」し、その予想が的中するか、外れるか、考えながら(そのことばを持続させながら)、ことばを追う。
 「知らない/わからない」、けれど、ことばを「追う」。「追う」という動詞(肉体の動き)が何かとぶつかり、その瞬間、詩がぱっと輝く。

この詩はスラブ圏の秋、冬、そして春への季節の巡りを描いたものだろう。そしてそこから「光の枝」(ポーランド語ではOddaialy swiatla)という美しい表現にたどりついたところで、詩が体内でにわかに沸騰するのを作者は覚えたのだろう。

 「詩が体内でにわかに沸騰する」。田中の表現をかりれば、これが、私の書いている「肉体」に「起きていること」。「Wiosna」は何か「知らない(わからない)」をかかえたまま、そのことばを追っていって、「Wiosna」ということばをつかう人間の「肉体」と自分の「肉体」が重なる(セックスする)瞬間、その「重なること」が、詩。
 そしてそれは、ことばをどう書いているか(「表現」しているか)を、「肉体」で動かしてみないとわからない。「肉体」を動かしてわかれば、それが「誤読」であってもかまわない、と私は思っている。
 「事物(ファクツ)」よりも「動詞」。
 「Wiosnaを、春を、口ずさみたくて」に合わせて、「Wiosnaを、春を、口ずさ」むとき、おのずと「肉体」のなかで「Wiosna=春」が生まれてくる。「予想」は「肉体」のなかで「事実」をつくり出す。この瞬間が、私はおもしろいと思う。そういう瞬間へ向けて、私は「肉体」を動かしたいと思う。
 私は「動詞」をとおして、詩人の「肉体」をひっぱり出したい。そして「肉体」を重ね合わせたい。セックスしたい。ことばのセックスをとおして、私の「肉体」の奥にひそんでいるものをひっぱり出してみたい。

 山崎佳代子『ベオグラード日誌』について書いた部分にもおもしろいところがあった。田中の文章ではないのだが、

「旅はお好きですか」と聞かれた詩人シンボルスカさんは、タバコをくゆらせ、にっこり微笑み、「私、還ってくるのが好きなの」とおっしゃった。

 「還ってくるのが好きなの」。このことばのなかにある「還ってくる」という「動詞」。私は、「動詞」にあわせて、そこで起きている「こと」を確かめる。旅へ出る。それから「還る」。その「還る」ときの自分の「肉体」のなかで起きたあれこれを思い出し、それが「好き」と言った人の「肉体」のなかで起きていることを想像する。そうすると、自分の「肉体」のなかから何かが思い出される。「肉体」が覚えていることが、「好き」ということばになって動く。その「肉体」の重なり(ことばのセックス)のなかで、私は暴走したい。
 どういう「動詞」で「こと」と「肉体」を関係づけているか。そのことに私は関心がある。
 田中が「事物(ファクツ)」で書いていることが何かはっきりしない。それが「予想通り」の「予想する」であったり、「還ってくるのが好き」の「還ってくる(こと)」という「動詞」に関係しているのなら、「事物(ファクツ)」という「名詞」でことばを進めていることは、私には、できない。
スウィートな群青の夢
田中 庸介
未知谷

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南公園の遊歩道に

2014-12-27 01:00:00 | 
南公園の遊歩道に

南公園の遊歩道に雨が降る。
砕かれた木のチップが獣の匂いになって土をやわらかくする。
その色と、坂を歩くときの興奮が好きになったのは昨日。
崖下の森の奥には動物園があり、虎の檻が見える。
黄色と黒の縞と檻の鉄柵が干渉しあって
空間と空間の間隔が消えて
恐怖がはじまる。
やわらかい土の奥から昔の血の色が滲み出してくる。
南公園の遊歩道に雨が降ると、





*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする