谷川俊太郎「愛読御礼」(「谷川俊太郎のポエメール デジタル」vol.56、mailmag@mag2.com2014年12月26日発行)
谷川俊太郎はベートーベンと誕生日が同じだという。12月16日、ということになるのか。この詩は、その誕生日のあとに書かれたものか。
「八三」を「ヤミ」「ハミ」「ヤサ」と読み替えている。語呂合わせ。ほかに語呂合わせのできることばがあるかどうか、私は、こうしたことを考えるのが苦手なのでわからないが、どのことばも「肯定的」な感じがしないのがおもしろい。「はみだす」「やさぐれる」ということばが乱暴な感じがするのもいい。「闇」なんか、まんたく気にしていない。「闇」と言ってみただけ。まだまだはみ出すぞ、やさぐれるぞ、という勢いがいい。「闇」なんか突き破ってしまう。83歳なのに、「若造(失礼!)」の感覚。
明るい。
人のやらない乱暴なこと(?)をする、は2連目もつづく。「虎穴に入って/虎の子を……」というのは、語呂合わせ(語呂合わせ)ではないけれど、「故事」を踏まえ、その「音」を替えているところがおもしろい。「ゲットする」というきわめて新しいことばと故事が出会うことで、故事が故事ではなくなっている。これは、とてもおもしろいことばの革新方法だと思う。
石川淳が、たしか「狂風記」で「ポンコツのカー」というような表現をつかっていたが、ことばに厳しそうな作家や詩人が率先してこういうことをするのは、とてもおもしろい。ことばをいつも耳で聞いているのだと思う。耳で聞いた「声」を自分のなかに取り込んで、文体を守ったまま自分の声として出すことができるのは、基本の文体が強靱だからだろう。新しいことばを文体に組み込む力があるからだろう。
そういうことをしておいて、「親虎に噛みつかれたら/私の負け」というような展開をするのも愉快だ。故事は「私の負け」というようなことを想定していない。故事から微妙にずれている。故事は危険を犯さないと大きな成功は得られないというだけであって、虎に噛まれるということを直接的には言っていない。「得る」を「ゲットする」と言いかえるような、不思議なずれがある。想像力による「誤解」のようなもの、「暴走/飛躍」がある。「若造」ならではの「解釈」がある。つけくわえた「意味」がある。
この「ずれ」のおかしみは、1連目の「八三」を「ヤミ」「ミハだす」「ヤサぐれる」という具合にずれていく感じと、何か似ている。「若造」の特権で誤読を突っ走る奇妙な軽さ。そして、速さ。重くない。もたもたしていない。かつ、明るい。
そのあと羊が出てくるのは、来年の干支がヒツジだから。でも干支の未は方角だから、それを羊とするのも、同じ「ずれ」? あ、そこまでは考えていないかも。でも、何か通じるね。
詩が年賀に来たらというときの詩は紙に書かれている? もしそうなら、虎が羊を食べるように、羊は紙(詩)を食べてしまう? 「虎穴にいらずんば……」ではなく、「果報は寝て待て」? 賀状が来たら食べられるぞ。寝て待っていよう、楽ちんだなあ。あ、これも故事の意味は「寝て待て(なまけていろ)」ではないから、ちょっと違うんだけれど、また谷川は「果報は……」までは書いていないから、これは私の勝手な「暴走/妄想」なのだけれど、そういうことを勝手に想像させてくれる。
最終連も、とてもおもしろい。単なるあいさつのようだけれど、
「まだ」と「また」のかけあい。「書く」と「読む」の交錯。これが楽しい。「あいさつ」は、こういう軽い感じがいいね。谷川は、あいさつの仕方がとても上品だ。
このあいさつには、こう答えよう。私は人見知りするのであいさつは苦手だから、谷川をまねして……。
「ポエメール」は今回でいったん「休刊」というメールが12月31日18時に送信されている。そうか、すでに決まっていて(決めていて)、この詩を書いたんだ……。
だからこそ、もう一度、
「また読む」ではなく「まだまだ読む/読みたい」、「ずーっと(いつまでも)読む」。「また」はじまるのを待っています、谷川さん。
谷川俊太郎はベートーベンと誕生日が同じだという。12月16日、ということになるのか。この詩は、その誕生日のあとに書かれたものか。
愛読御礼
いつの間にか八三歳
八三だから一寸先はヤミだ
ハミ出してもいいし
ヤサぐれてもいい
虎穴に入って
虎の子をゲットしようか
親虎に噛みつかれたら
私の負け
それとも
羊の毛皮にくるまって
詩が年賀に来るのを
待つとしようか
じゃあね2014
おやもう2015
まだ書くよ
また読んで
「八三」を「ヤミ」「ハミ」「ヤサ」と読み替えている。語呂合わせ。ほかに語呂合わせのできることばがあるかどうか、私は、こうしたことを考えるのが苦手なのでわからないが、どのことばも「肯定的」な感じがしないのがおもしろい。「はみだす」「やさぐれる」ということばが乱暴な感じがするのもいい。「闇」なんか、まんたく気にしていない。「闇」と言ってみただけ。まだまだはみ出すぞ、やさぐれるぞ、という勢いがいい。「闇」なんか突き破ってしまう。83歳なのに、「若造(失礼!)」の感覚。
明るい。
人のやらない乱暴なこと(?)をする、は2連目もつづく。「虎穴に入って/虎の子を……」というのは、語呂合わせ(語呂合わせ)ではないけれど、「故事」を踏まえ、その「音」を替えているところがおもしろい。「ゲットする」というきわめて新しいことばと故事が出会うことで、故事が故事ではなくなっている。これは、とてもおもしろいことばの革新方法だと思う。
石川淳が、たしか「狂風記」で「ポンコツのカー」というような表現をつかっていたが、ことばに厳しそうな作家や詩人が率先してこういうことをするのは、とてもおもしろい。ことばをいつも耳で聞いているのだと思う。耳で聞いた「声」を自分のなかに取り込んで、文体を守ったまま自分の声として出すことができるのは、基本の文体が強靱だからだろう。新しいことばを文体に組み込む力があるからだろう。
そういうことをしておいて、「親虎に噛みつかれたら/私の負け」というような展開をするのも愉快だ。故事は「私の負け」というようなことを想定していない。故事から微妙にずれている。故事は危険を犯さないと大きな成功は得られないというだけであって、虎に噛まれるということを直接的には言っていない。「得る」を「ゲットする」と言いかえるような、不思議なずれがある。想像力による「誤解」のようなもの、「暴走/飛躍」がある。「若造」ならではの「解釈」がある。つけくわえた「意味」がある。
この「ずれ」のおかしみは、1連目の「八三」を「ヤミ」「ミハだす」「ヤサぐれる」という具合にずれていく感じと、何か似ている。「若造」の特権で誤読を突っ走る奇妙な軽さ。そして、速さ。重くない。もたもたしていない。かつ、明るい。
そのあと羊が出てくるのは、来年の干支がヒツジだから。でも干支の未は方角だから、それを羊とするのも、同じ「ずれ」? あ、そこまでは考えていないかも。でも、何か通じるね。
詩が年賀に来たらというときの詩は紙に書かれている? もしそうなら、虎が羊を食べるように、羊は紙(詩)を食べてしまう? 「虎穴にいらずんば……」ではなく、「果報は寝て待て」? 賀状が来たら食べられるぞ。寝て待っていよう、楽ちんだなあ。あ、これも故事の意味は「寝て待て(なまけていろ)」ではないから、ちょっと違うんだけれど、また谷川は「果報は……」までは書いていないから、これは私の勝手な「暴走/妄想」なのだけれど、そういうことを勝手に想像させてくれる。
最終連も、とてもおもしろい。単なるあいさつのようだけれど、
まだ書くよ
また読んで
「まだ」と「また」のかけあい。「書く」と「読む」の交錯。これが楽しい。「あいさつ」は、こういう軽い感じがいいね。谷川は、あいさつの仕方がとても上品だ。
このあいさつには、こう答えよう。私は人見知りするのであいさつは苦手だから、谷川をまねして……。
まだ読むよ
また書いて
「ポエメール」は今回でいったん「休刊」というメールが12月31日18時に送信されている。そうか、すでに決まっていて(決めていて)、この詩を書いたんだ……。
だからこそ、もう一度、
まだ読みたい
また書いて
「また読む」ではなく「まだまだ読む/読みたい」、「ずーっと(いつまでも)読む」。「また」はじまるのを待っています、谷川さん。
おやすみ神たち | |
谷川 俊太郎,川島 小鳥 | |
ナナロク社 |