藤井優子「たがいちがいの空」、四方田犬彦「翼」、和合亮一「散髪雪達磨」(「現代詩手帖」2014年12月号)
藤井優子「たがいちがいの空」(初出『たがいちがいの空』3月)は不思議なエロチシズムがある。
「空遊び(鏡遊び?)」の視覚、飛翔/墜落という矛盾した動きの「恍惚」。それと「声」の関係がおもしろい。
1連目が「声」の特徴をよくあらわしている。「声」は「見えない」ところからも聞こえてくる。たてた襖、縁側の向こう側(縁側と部屋のあいだには障子があるかもしれない)、何かさえぎるものがあっても、そのさえぎるものを越えて聞こえてくる。視覚はさえぎるものがあると、そのさえぎるものしか見えない。「声」は障害物を越えて、肉体に入ってくる。
この愉悦は、視覚の愉悦よりも強い。
セックスは聴覚でするものかもしれない。たとえ、何かの理由があって、声を殺してセックスするときでも、互いに「殺した声」を「肉体」で聞きあっている。
「声がした/ごく近いあたりで」は、この「肉体」で聞いてしまう「声」である。「母の声ではなかった」なら、藤井自身の肉体のなかの「声」だろう。
自分で遊んでいるのに、自分で「禁じる」のは矛盾したことかもしれないが、それが矛盾だからこそ、そこに詩がある。矛盾は危険だが、危険だからこそ、詩がある。愉悦がある。
「声(ことば)」はあらわれては消える。その「あらわれた瞬間」は「くいちがう」というよりも、「時系列」を無視して「いま」「ここ」とつながるのだと思う。「あらわれた瞬間」、それは「真実」になるのだが、それは「時間」のなかに定着させておくことはできない。だれが言ったことば(声)であろうと、聞いた瞬間、それは「肉体」のなかで自分のものにすりかわる。「だれかのもの」として固定化できない。いりみだれて、快楽/恍惚/エクスタシー(自分の外へでてしまうこと/自分が自分でなくなること)を求めて動いてしまう。
自分の思う通りにならない、この「もどかしさ(うれしさ)」もセックスに似ているなあ。
*
四方田犬彦「翼」(初出『わが煉獄』3月)はセルビアを旅したときのことを書いているのだと思う。「シュピタルはアルバニア人を軽蔑的に呼ぶ際のセルビア語」という注釈が詩のおわりについているので、勝手に想像するだけだが。
その2連目。
バスのなかから見た風景。バスの「窓」の風景(情景)。それは何かの象徴だろうか。何かの「意味」を背負わされたことばだろうか。
「意味」を背負わされているかもしれないが(「固着」という表現が「意味」を背負わされているという印象を強くするが)、「意味」とは無関係に「もの」にふれている感じがする。「もの」の感じが直接伝わってくる。余分な「意味」がない。それが美しくて、強い。
そして3連目。
ここでは「意味」だけが書かれている。「翼」は「比喩」。四方田は人間であり、鳥ではないので、「翼」では空を飛べない。だから、着地もできない。鳥のことを心配して書いているわけでもない--と私は思う。で、「翼」を「比喩」だと考える。
何の「比喩」? 何の「象徴」? 「思想」とか「ことば」というものをすぐに思いつくが、そのことは、もう書かない。(「意味」はどうとでも書ける、「意味」は平気で嘘をつくから……。)
この3連目と2連目を比較すると、3連目は意味が強すぎて、味気ない。2連目の方が意味がなくておもしろい。とはいうものの、3連目のような「意味」を考えることばが2連目のことばのすぐ隣にあるから、2連目のことばは無意味でも強靱なままでいられるのかもしれない。
私は「ぼくは……考えている」というようなことばの、自己主張にはあまり興味がないが、こういう自己主張と「もの/こと」の直接的な描写を並列させる(共存させる)のが四方田の方法なのだろう。共存によって「描写」に奥行きを与えているのだろう。
*
和合亮一「散髪雪達磨」(初出「ウルトラ」15、3月)は雪の日に散髪する詩。髪を切られながら耳を澄ますと雪の降る音が聞こえる。気になるのは東京電力福島原子力発電所のことである。
「意味」ということばが出てくる。「意味」とはそこに存在するものではなく、つくりあげて形をととのえるものだろう。東京電力福島原子力発電所の汚染水は「わたしたちが死んでからも、/水は漏れていくのか」、つまり福島を、日本を、世界(地球)を汚染しつづけるのかという具合に、時間と空間のなかへひろがっていく。
それはそれでいいのだけれど、そのとき「意味」は「わたし」という「個人」を置き去りにしないか。「わたしたち(人類)」のなかの「わたし」は、そのときも、「意味」といっしょに生きているのだろうか。
私は、疑問に思っている。
1連目の「作業が困難を極めている」のような抽象的なことばのなかに、すでに、「わたし」はいない。テレビニュースことばの「他人」(私とは無関係)がいるだけだ。「意味」(ことばをより有効に動かして、経済学的に、合理的に他人を支配する方法)が個人(わたし)を切り捨ててしまっている。
どんなときにも四方田か書いていたような「雪片」を描写するようなことばがないと、「意味」だけが動いてしまう。「意味」が人間を支配してしまう。「意味」が人間を支配することに加担してしまう、と思う。
和合もそう意識しているから、後半は白髪染めの個人的な体験を書くのかもしれないが、書き出しのことばとの「落差」が気になるなあ。「東京電力」ということばを省略しているところは、すでに安倍政権の「意味」に加担しているといえるのではない。わかっているから省略したという言い方もあるが、わかっているから絶対に省略しないという「主義(思想/肉体)」もある。
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藤井優子「たがいちがいの空」(初出『たがいちがいの空』3月)は不思議なエロチシズムがある。
声がした
ごく近いあたりで
閉てた襖の奥からでも
縁側の向こうからでもなかった
母の声ではなかったが それでも
わたしははっと鏡からおりた
--空遊びをしていたのだ
仰向けに置いた鏡に映る
冷たい空のうえを歩く
飛翔と墜落のひとり遊び
それを危ないと禁じた母は
ほんとうは
恍惚とした娘の顔を見たくなかったのだろう
「空遊び(鏡遊び?)」の視覚、飛翔/墜落という矛盾した動きの「恍惚」。それと「声」の関係がおもしろい。
1連目が「声」の特徴をよくあらわしている。「声」は「見えない」ところからも聞こえてくる。たてた襖、縁側の向こう側(縁側と部屋のあいだには障子があるかもしれない)、何かさえぎるものがあっても、そのさえぎるものを越えて聞こえてくる。視覚はさえぎるものがあると、そのさえぎるものしか見えない。「声」は障害物を越えて、肉体に入ってくる。
この愉悦は、視覚の愉悦よりも強い。
セックスは聴覚でするものかもしれない。たとえ、何かの理由があって、声を殺してセックスするときでも、互いに「殺した声」を「肉体」で聞きあっている。
「声がした/ごく近いあたりで」は、この「肉体」で聞いてしまう「声」である。「母の声ではなかった」なら、藤井自身の肉体のなかの「声」だろう。
自分で遊んでいるのに、自分で「禁じる」のは矛盾したことかもしれないが、それが矛盾だからこそ、そこに詩がある。矛盾は危険だが、危険だからこそ、詩がある。愉悦がある。
そういえばあの声は
おまえのせいだ と言ったのではなかったか
記憶のなかで時が微妙にくいちがい
たがいの言葉がすりかわってもぐり込む
そのどれもが真実になろうとして
もどかしく結末をさぐる
「声(ことば)」はあらわれては消える。その「あらわれた瞬間」は「くいちがう」というよりも、「時系列」を無視して「いま」「ここ」とつながるのだと思う。「あらわれた瞬間」、それは「真実」になるのだが、それは「時間」のなかに定着させておくことはできない。だれが言ったことば(声)であろうと、聞いた瞬間、それは「肉体」のなかで自分のものにすりかわる。「だれかのもの」として固定化できない。いりみだれて、快楽/恍惚/エクスタシー(自分の外へでてしまうこと/自分が自分でなくなること)を求めて動いてしまう。
自分の思う通りにならない、この「もどかしさ(うれしさ)」もセックスに似ているなあ。
*
四方田犬彦「翼」(初出『わが煉獄』3月)はセルビアを旅したときのことを書いているのだと思う。「シュピタルはアルバニア人を軽蔑的に呼ぶ際のセルビア語」という注釈が詩のおわりについているので、勝手に想像するだけだが。
その2連目。
フロントガラスの向こう側の暗闇から
雪片がひっきりなしに窓に固着し、
光に反射して 黄金に輝いている。
ひとしきり 眩暈のような紋様が現われてしまうと、
窓の向うは深い暗闇となった。
ときおり遠くの野原で 誰かが火を焚いている。
バスのなかから見た風景。バスの「窓」の風景(情景)。それは何かの象徴だろうか。何かの「意味」を背負わされたことばだろうか。
「意味」を背負わされているかもしれないが(「固着」という表現が「意味」を背負わされているという印象を強くするが)、「意味」とは無関係に「もの」にふれている感じがする。「もの」の感じが直接伝わってくる。余分な「意味」がない。それが美しくて、強い。
そして3連目。
ぼくは翼のことを考えている。
翼はより高く飛ぶためにあるのではない。
翼は高みを見究めた後、
無事に着地をはたすために 与えられているのだ。
けれども そう信じてみたものの、
いったいどこに着地をすればいいのだろう。
ここでは「意味」だけが書かれている。「翼」は「比喩」。四方田は人間であり、鳥ではないので、「翼」では空を飛べない。だから、着地もできない。鳥のことを心配して書いているわけでもない--と私は思う。で、「翼」を「比喩」だと考える。
何の「比喩」? 何の「象徴」? 「思想」とか「ことば」というものをすぐに思いつくが、そのことは、もう書かない。(「意味」はどうとでも書ける、「意味」は平気で嘘をつくから……。)
この3連目と2連目を比較すると、3連目は意味が強すぎて、味気ない。2連目の方が意味がなくておもしろい。とはいうものの、3連目のような「意味」を考えることばが2連目のことばのすぐ隣にあるから、2連目のことばは無意味でも強靱なままでいられるのかもしれない。
私は「ぼくは……考えている」というようなことばの、自己主張にはあまり興味がないが、こういう自己主張と「もの/こと」の直接的な描写を並列させる(共存させる)のが四方田の方法なのだろう。共存によって「描写」に奥行きを与えているのだろう。
*
和合亮一「散髪雪達磨」(初出「ウルトラ」15、3月)は雪の日に散髪する詩。髪を切られながら耳を澄ますと雪の降る音が聞こえる。気になるのは東京電力福島原子力発電所のことである。
あまりもの雪で、原子力発電所の屋外の作業が困難を極めている、
その情報がテレビで告げられた、水漏れを食い止める作業などは中断するしかない、
雪は容赦がない、人類がこうして滅んでいくのならば、私の髪よ、
伸びるのは止めにしてもらいたいものだ、髪は落ちていく、奈落へと、
雪が、残酷な意味をつづけている、わたしたちが死んでからも、
水は漏れていくのか、こうしている間にも、逃げているのだ、
「意味」ということばが出てくる。「意味」とはそこに存在するものではなく、つくりあげて形をととのえるものだろう。東京電力福島原子力発電所の汚染水は「わたしたちが死んでからも、/水は漏れていくのか」、つまり福島を、日本を、世界(地球)を汚染しつづけるのかという具合に、時間と空間のなかへひろがっていく。
それはそれでいいのだけれど、そのとき「意味」は「わたし」という「個人」を置き去りにしないか。「わたしたち(人類)」のなかの「わたし」は、そのときも、「意味」といっしょに生きているのだろうか。
私は、疑問に思っている。
1連目の「作業が困難を極めている」のような抽象的なことばのなかに、すでに、「わたし」はいない。テレビニュースことばの「他人」(私とは無関係)がいるだけだ。「意味」(ことばをより有効に動かして、経済学的に、合理的に他人を支配する方法)が個人(わたし)を切り捨ててしまっている。
どんなときにも四方田か書いていたような「雪片」を描写するようなことばがないと、「意味」だけが動いてしまう。「意味」が人間を支配してしまう。「意味」が人間を支配することに加担してしまう、と思う。
和合もそう意識しているから、後半は白髪染めの個人的な体験を書くのかもしれないが、書き出しのことばとの「落差」が気になるなあ。「東京電力」ということばを省略しているところは、すでに安倍政権の「意味」に加担しているといえるのではない。わかっているから省略したという言い方もあるが、わかっているから絶対に省略しないという「主義(思想/肉体)」もある。
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
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