詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鶴見俊輔『敗北力』

2016-10-22 08:49:03 | 詩集
鶴見俊輔『敗北力』(編集グループSURE、2016年10月19日発行)

 鶴見俊輔『敗北力』は「遺稿集」ということになるのだろうか。巻頭の方に詩が掲載されている。その感想を、まず書いておきたい。
 「おぼつかなく」という作品。

記号論理学から
はずれた記号
「かがく」なんてものの
できるまえの
ただの「か」

そのりんかくは
それでないものと
の区別さえ
おぼつかなく、

ものと記号のわかれめが
つくのか
つかないのか
ぶよぶよとふわふわと

たよりなく
それを手がかりに
私は考える
といえるのか

ただ一つ言いたいことは、分類され
ならべられた記号から考えはじめないということだ。

 一連目の「かがく」から「思想の科学」の「かがく」を思い出す。私はときどき本屋でページをめくる程度のことしかしたことがないが、あの本には「輪郭」になる前のことが書かれていたと思う。ひとりひとりが「自分のことば」で語っていた。だから、何というのだろう、鶴見がここで書いていることばを借りて言えば、「わかれめ」のつかない部分があった。「科学」というよりも「書いている人の肉体」といえばいいのか、あ、こういう人がいるのだという感じがした。こういう「考え」があるといよりも前に、「考えつづけている人」がいると言う感じ。「考え(思想)」になるまえの、それをつかみだしていく「過程」があるといえばいいのかなあ。
 「考え」という「名詞」ではなく、「考える」という「動詞」がある。その「動詞」の感じが、私にはとてもうれしかった。「考え」に昇華されなくても、「考える」という動きがあればいいのだ、という感じ。

ただ一つ言いたいことは、分類され
ならべられた記号から考えはじめないということだ。

 この二行をどう読むか。いろいろな読み方があるだろうけれど、私は「分類されたもの」(既存のもの/記号化しているもの)ではなく、まだ「分類」されていないもの、「未分節」のものから「考える」という鶴見の「肉体/思想」を思い浮かべるのである。
 それは「ぶよぶよ」「ふわふわ」としている。「おぼつかない」。でも「おぼつかない」からこそ、「権力」からは「遠い」(権力には利用されない)。自分の中にだけあるもの、という感じがする。
 そういうものを、鶴見は、鶴見だけの力ではなく、多くの「市民」といっしょに探していたと思う。

 「それをさがしあてたい」という詩がある。

憲法、それは私から遠い
むしろ、自分からはなれず、
私の根の中に、
憲法とひびきあう何かをさがしあてなければ、
私には憲法をささえることはできない。

 「憲法」と既成のもの。そこにあるもの。前の詩のことばを借りていえば「分類」され「記号」になっている。「かがく」になっている。しかし、「私から遠い」。あるいは、だから「私から遠い」。それを利用して何かをしようとは思わない。ささえにしない。つまり、憲法の前で、鶴見は「おぼつかなくなる」。
 だから「自分から離れず」という立場をとる。自分がほんとうにできることだけをみつける。憲法が照らしだしてくれる「自分の中の何か」を探す。「憲法と同じもの」というよりも「憲法と響きあうもの」、違っていることによって、その二つが出合うとよりいっそう「美しい和音」になるようなもの、「自分の正直」をさがしあてたいと言ってるように思える。憲法を利用するではなく、憲法を「生きる」、「憲法といっしょに生きる」と言っているように思える。
 それは、どうやれば見つかるのだろう。
 鶴見は書いてはいない。でも、私は「感じる」。自分のことばで語る、自分のできることを確かめる、自分から「離れない」。そうするしかない。つまりだれかのことばを借りたり、だれかがそういうからそうするそうするというのではなく、ただ「自分でいること」、「個人」でいることを支える何かを見つけなければならないと言っているように思える。

 私も、それを探している。私の書いていることは「間違っている」。それは承知している。しかし、私は「間違える」ことしかできない。「間違える」、「間違ったことばを書く」ということを繰り返しながら、まだ繰り返し続けることができる何か、「間違い」を超えたものが自分のどこかにあると信じ、「間違えつづける」ということをしたい。

 詩の紹介が前後するが、巻頭の「無題」は、とても美しい。

棒を
一本たてる。
ひろってきた
木のはし一個。
今はない人の
思いが
あつまってくる
自分ひとりの儀式。
流れついた
この岸辺に。

 「一本」「一個」「ひとり」。あるいは、これは「この指とまれ」とかかげた「憲法」のようでもある。鶴見は、「憲法」をかかげ、この指とまれ、と言っているようにも聞こえる。「この指とまれ」ということが、憲法を支えるということだ。
 「一本」「一個」「ひとり」。それは憲法第十三条の、

すべて国民は、個人として尊重される。

 の「個人」の「個」につながる。だれとも違う「ひとり/個人」。絶対に他人とはいっしょではないという「多様性」の「多」としっかり向き合っている「個」。「個」であるからこそ、人は集まってくる。集まる。「個」だけが、集まることで「多」になる。言い換えると、そこに集まってきたひとは、みんな「この指とまれ」と言うのである。
 「個」は「記号」ではないのだ。「算数」の「代数」のように「計算」できない。「個」は「多」、「記号化されないひとりひとり」である。
 この美しい「個」の力というものを、自民党の憲法改正草案は、

全て国民は、人として尊重される。

 と「個」を抹消することで、否定している。「個人」を否定し「人」という形に抽象化、記号化している。こういう、人間を抽象化、記号化する考え方と戦う方法を身につけいないといけない、とも思った。


言い残しておくこと
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