監督 マシュー・ブラウン 出演 デブ・パテルラ、ジェレミー・アイアンズ
「アインシュタインと並ぶ無限の天才」とも称されたインドの数学者ラマヌジャンと、彼を見出したイギリス人数学者ハーディの実話を映画化した伝記ドラマ、という「ふれこみ」。
数学を映画で見せるのはむずかしい。だから(?)、「未知との遭遇」では「音楽と光」であらわしていた。「コンタクト」では平面に書かれていた数式が実は「立体」に書かれていた(数式のつながりが平面とは違ってくる)という形であらわしていた。でも、この映画では、そういう「仕掛け」はない。ぱっと見ただけではわからない数字、数式がノートや黒板に書かれるだけ。唯一、素人でもわかるのは、「4という数を整数の組み合わせで表現すると何種類あるか」という部分くらい。1+1+1+1、2+1+1、2+2、3+1、4の5種類。この「5」という答えを導き出すための「公式」を発見しようとしている。
ラマヌジャンは「証明」は苦手だが、なぜか、「答え(公式)」はひらめく。ハーディは「証明」(公式を発見するまでの過程?)ができなければ、その「答え」は「公式」とは言えない、という。そこに、一種の不思議な「ドラマ」があり、この「理不尽なドラマ」と、イギリス、インドの関係が交錯する。当時、インドはイギリスの植民地だった。ハーディの、「証明できなければ公式ではない」という姿勢は純粋に数学的な問題であって植民地支配(インド人への蔑視)とは別問題のようだけれど、自分の知っている「流儀(思想)」以外は受け入れないという部分では、何か、通じるものがある。かたくななのである。
身分の安定しないラマヌジャン、フェローという身分の確定したハーディ、「神」を信じるラマヌジャン、信じないハーディ、結婚しているラマヌジャン、未婚のハーディ、故国から離れて孤独なラマヌジャン、母国にいるハーディ(友人のいるハーディ)、さらには菜食主義のラマヌジャン、肉食のハーディ。ふたりは、なにから何まで違うのだが、この違いを「数学」がやわらげていく。
あ、そんなことはないか。
かたくななハーディの方が少しずつ変化してゆき、ラマヌジャンをさえるようになる。「天才」を発見し、そのことに夢中になる。天才といっしょに数学の難題に立ち向かっているうちに、いままで知らなかった「人間の苦悩」を知り、こころを開いていくようになる。そういうことが「テーマ」になっている。ハーディの変化。イギリスの変化。
だから、見どころはジェレミー・アイアンズ(ハーディ)の演技力。なかなか丁寧なのだが……。うーん、その前に見た「ある天文学者の恋文」がよくなかったなあ。あの、いつまでも終わらない映画で、「ビデオ」の中だけで出てくる「学者」の印象が悪すぎて、親身になって見ることができない。どこか巧みに演じているだけというかんじ。悪く言うと「公式」にしたがって肉体を動かしいる。感情が自然に動いていくという具合は感じられない。私は「ダメージ」のラストシーンのジェレミー・アイアンズが好きなのだが。
それに。
一番の問題は、デブ・パテルラ(ラマヌジャン)の方は、そんなに「こころ」が変化していかないところだなあ。ハーディが変化するならラマヌジャンの方も人間として変化していいはずなのに、ずーっと「数学」に夢中になっているだけ。「数学」が認められてうれしい、というだけ。インドに残してきた妻のことを思ったりはするのだけれど、その思いが「数学」に反映することはない。「数式」を美しくするわけではない。
「天才」の「頭脳」はわからない、というのは、それはそれで仕方がないが、「天才」の「こころ」は、もっと「人間らしく」描いてほしいなあと思う。ハーディも凡人ではなく「天才」のひとりなのだろうけれど、この映画では何かラマヌジャンという「天才」がハーディという凡人の「こころの変化(人間的なふくらみ)」を導くための「補助線(あるいは狂言回し)」になっているところが残念。せっかく「天才」を描くのだから、もっと「天才」に焦点をあててほしい。
(KBCシネマ2、2016年10月24日)
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