詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(メモ6)

2016-10-31 11:28:14 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ6)

かつてのオフィーリアが今のオフィーリアなら、
やがてオフィーリアでなくなるオフィーリアはどこを流れる?

醜聞は風のごとく吹き寄り、風のごとく吹き去る。
水は流れ寄り、水は流れ去る。
              (何のごとく?)

               これから男の私が演じるのは
九百九十九人目のオフィーリア。
男ゆえに不作法に女の傷を逆撫でし、
男ゆえに寝取られハムレットを演じつつ、泣き言わめき、わがままに、
そして繊細に、千人目のオフィーリアという反論を読者にまかせ、

では。

流されながら流れてゆけないオフィーリア、
流されながら流れを遡るオフィーリア、
貯水槽にあつまり密談するオフィーリア、
水道管で分配されることばのオフィーリア、
排水管を通り下水を揺するオフへーリア、
見えない水の、見えない流れの、見えないオフィーリア、

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和合亮一『昨日ヨリモ優シクナリタイ』

2016-10-31 10:01:34 | 詩集
和合亮一『昨日ヨリモ優シクナリタイ』(徳間書店、2016年03月31日)

 和合亮一『昨日ヨリモ優シクナリタイ』は、とても読みやすい詩集である。谷川俊太郎か、ゲーテのように読みやすい。

五年

はるか遠くの浜辺の
津波で残った
たった一本の松が
私やあなたの

庭に
街に
通りに
立っている

私もあなたも
あの波にさらされた
木の影に
立たされている

朝の太陽にしがみつき
真昼の時報にしがみつき
夜の食卓にしがみつき
生きている

 なぜ読みやすいのか。繰り返しが多いからである。「立っている」「立たされている」が二、三連目に出てくる。「立つ」という動詞が繰り返されている。そしてこの「立つ」は「残った」というかたちで一連目にも存在している。
 私たちは、その松のことを知っている。
 だから「残る」という動詞を、同時に「立つ」という動詞で把握する。
 そして、その「立つ」を繰り返すと、主語が自然に混じり合う。「松」が「立つ」、「私やあなた」が「立つ」。松と私たちの「肉体」が「立つ」という動詞でかさなりあうとき、そこに「気持ち」の重なりも生まれる。「立たされている」という悲しく、つらい気持ちが生まれる。
 気持ちは、しかし、変わるものである。「立たされている/悲しい」は「立っている」へと引き返し「生きている」という動詞になって、懸命さに変わる。「懸命に生きる/生きたい/生きなければならない」という気持ちに変わる。「しがみつく」という動詞が「懸命」を生み出す。
 繰り返しは、同じ繰り返しではない。変化がある。変化を生み出す。変化とは発見である。
 一篇の詩のなかにある繰り返し。それは一篇の詩が短いとき「短時間」に起きたもののように見えるかもしれないが、実はそうではない。タイトルの「五年」が雄弁に語っているが、この和合の詩(詩集)のなかにある繰り返しは、何年もの時間をかけての繰り返しなのである。「五年」と書いているが、この「五年」は、計り知れない年月である。「五年」を超える。「永遠」の「五年」である。何度も何度も繰り返し、やっとととのえられたことばなのである。
 「ととのえる」という人間懸命なの生き方が、この詩集を支えている。

風に

風の音を聞くと 心がしんとします
涙があふれてきます 吹かれている気がする
胸に手をあてて あの子の名をささやく
波にさらわれてしまった 子どもの声がします

風の音を聞くと 人の生き死にを考えます
命の重み 夜更けの一軒だけの 家明かりを思います
あの子が わたしを呼んでいます
吹きつけるさびしさは 深さを連れてきます

風の音が止むと わたしはしきりに泣いている
あの子が 話すのを止めて
生きることを あきらめて
じっと黙っているのが 分かるから

 ふすまの陰で 布団を被って
 あの子の妹は 想っている 母のことを
 姉のことを そうして 胸に手をあてて
 吹く風に どうか 母さんを泣かさないで つぶやく

 「風の音」が繰り返される。繰り返しているうちに主語が変わる。一連目の風の音を聞いているのは誰か。明記されていない。自然に筆者(和合)が聞いているのだと想像する。二連目、三連目の「わたし」は和合であるかどうか、はっきりしない。(私は和合の家族のことを知らない。)ところが四連目で、二、三連目の「わたし」は「母さん」であったことがわかる。それも「あの子」の「母さん」。
 和合が「あの子」の「お父さん」であるかどうかはわからないが、私は「父さん」ではないと思う。
 そして、ここが重要だと思う。
 私は、読みながら、この詩は和合の「体験」ではないと感じる。では、「誰の」体験なのか。そこで動いている「肉体」は「誰の肉体」なのか。
 私の、読者の、私の肉体である。
 私には津波で子を失った体験はない。けれども「風の音」を聞いた体験がある。そして「心がしんとする」という体験もある。「風の音」を聞いて「人の生き死にを考える」ということも体験したかもしれない。もちろん、その体験は、ここに書かれている体験とは同じ「質」のものではない。ここに登場する人物の思いに比べれば、はるかに「浅い」ものである。浅いものではあるけれど、私の「肉体」を、ここに書かれている「肉体」へと連れていってくれる。そして、そこで重なる。そこには、新聞やテレビで繰り返し聞いた東日本大震災の被災者の「思い/体験を語ることば」も入り込んでくる。私の思い/体験は「浅い」が、ことばに触れるにしたがって「深さ」を感じ始める。「深い」ものになる。
 二連目の最後の「深さ」は「感情の深さ」である。そして、その「深さ」のなかで、「わたし」は「わたし」でありながら「あの子」にもなる。「ひとつ」になる。
 その「ひとつ」は四連目で「あの子の妹」という「肉体」にかわる。「あの子の妹」の「感情」にも変わる。
 これは、主語が変わるのではなく、主語がとけあって「ひとつ」になるのである。「ひとつ」になりながら、そのつど、その「ひとつ」から分かれて母になり、あの子の妹になり、そしてまた和合にもなる。その「ひとつ」から分かれる形で母が生まれ、あの子の妹が生まれ、和合が生まれる。あの子も生まれる。
 この詩のなかでは、人が繰り返し生まれてきている。その「ひとり」として読者(私/谷内)も生まれる。生まれて、その感情を生きる。
 また書いてしまうが、これは一篇の詩のなかで起きていることだが、それは詩を書く(詩を読む)という「時間」のなかだけで起きているのではない。「五年」を超える「永遠」のなかで繰り返され、やっとととのえられて、こういう形になって生まれてきてるのである。

昨日ヨリモ優シクナリタイ
和合亮一
徳間書店
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