監督 アトム・エゴヤン 出演 クリストファー・プラマー、マーティン・ランドー、ブルーノ・ガンツ
記憶とことば。記憶と肉体。ことばによって呼び覚まされる記憶。肉体が忘れることができない記憶。この交錯がきちんと描かれている。
認知症の男(クリストファー・プラマー)が薄れていく記憶と闘いながら、ナチスの生き残りを探し、家族を殺された復讐をするというストーリー。彼は認知症なので、同じ老人ホームにいたアウシュビッツの生き残りの男(マーティン・ランドー)が書いた手紙(ことば)を頼りにしている。
で、老人ホームにいる男を訪ねたとき、ふとピアノの音を聞く。クリストファー・プラマーはピアノが好き(あるいはピアノ演奏者だったのかもしれない)。ふと、そのピアノの方へ近づいていく。作曲家の名前を三人出したが、私にはなじみのない人。たぶんユダヤ人の作曲家なのだろう。そこまでは、ことば。その曲を聴いて、ピアノを弾くことを思い出し、実際に引き始める。でも、それは先に名前をあげた三人の曲ではない。シューベルトだったかリストだったか、東欧系(ドイツ系?)の作曲家の曲。これが最初の「肉体の記憶」。ここで、一瞬、あれっと思うのだが、まあ、有名な作曲家だし、この曲の方が観客にはわかりやすいからそうなのかなあ(ピアノを弾いているという人物設定の紹介には、これでいいのかなあ)と、半分無意識に見逃してしまう。
次に、田舎の一軒家。そこでは訪ねていった男は死んでいない。そのかわり、息子(警官)と会う。この息子が、ナチス心酔者。父の影響を強く受けている。クリストファー・プラマーをドイツ人だと思っていたのだが、アウシュビッツの生き残り(ユダヤ人)がと思って、激昂する。シェパードをけしかける。これをクリストファー・プラマーが一発の銃で仕留める。銃を撃つことを「肉体」が覚えていて、反応するのだ。(銃は事前に買って持っているのだが、買うときは「つかい方を紙に書いてくれ。忘れてしまうから」と言っている。銃をつかったことがある、という設定ではない。)さらに息子も撃ってしまう。このときの「腕前」がすばらしい。一発目は心臓を直撃。とどめの二発目は脳(頭)を直撃。こころえているのだ。ここで、クリストファー・プラマーの「本性」が半分以上明らかになる。アウシュビッツの生き残りのユダヤ人が、こんな完璧に銃をつかいこなせるわけがない。老人なのに、銃を撃ったときの反動にぐらつくこともない。
最後。ブルーノ・ガンツと対面する。その直前、もう一度ピアノが登場する。ここでクリストファー・プラマーはワーグナーを弾く。生粋のドイツ人。そればかりか、ナチス(ヒトラー)のお気に入り。クリストファー・プラマーがユダヤ人なら、なぜ、ワーグナー? これは、ブルーノ・ガンツも指摘する。ブルーノ・ガンツはクリストファー・プラマーがガンツをなつかしくて訪ねてきたと思い、ドイツ語で話し、ワーグナーの話もするのである。
ここから急転直下、話が大展開する。クリストファー・プラマー自身もナチスの生き残りであり、それと知ったマーティン・ランドーが、クリストファー・プラマーが認知症であることを利用してナチス狩りをしていることがわかる。クリストファー・プラマーは最後になって、自分がナチスの生き残りであるということを思い出し、ブルーノ・ガンツを射殺した後は、自殺する。
ストーリーは予告編を見たときから半分わかっている。「衝撃の結末」といううたい文句も「補助線」の役割をしている。これを、どう映画化するか。ということで、見どころは(見逃してはいけないのは)、先に書いた「肉体が覚えてること」が「無意識」に出てくる三つのシーン。
これをアトム・エゴヤンは慎重に、しかしスムーズに組み立てている。(脚本がそうなっているのだろうが、うまく肉体化している。)ピアノの、最初の「ずらし」が微妙だし、だめ押しのワーグナーが強烈だ。銃で犬を殺す、人を殺すという「体験」が、記憶のなかに隠れている「暴力」を覚醒させるというのも刺激的である。一度銃を撃つということを「体験」しなおすと、もう、ためらいがなくなってしまう。その「肉体」の「無意識の変化」がとても巧みに映画化されている。
それにしても「ことば(脳)」とは何と嘘つきなのだろう。脳は(ことばは)、いつでも自分の都合のいいように「現実/事実」を変更して、それを「真理」と思い込む。けれども「肉体」は、そういう嘘がつけない。「肉体」で覚え込んだことは、忘れることができない。「肉体」が思い出したことは、人間を「過去」に引き戻していく。
最後のシーンに、顔は忘れたが、声は覚えているという、ちょっと複雑な「認識論」が出てくるが、声は肉体を動かして「出す」ものだから、その「出し方の癖」は変えられないということだろう。ブルーノ・ガンツは90歳に「変装」しているのだが、声でブルーノ・ガンツとわかる。(目も、わかるといえばわかるが。)そこにも「肉体」そのものが出てきて、なかなか刺激的な映画、考えさせられる映画であった。
(天神東宝ソラリアスクリーン8、2016年10月30日)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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記憶とことば。記憶と肉体。ことばによって呼び覚まされる記憶。肉体が忘れることができない記憶。この交錯がきちんと描かれている。
認知症の男(クリストファー・プラマー)が薄れていく記憶と闘いながら、ナチスの生き残りを探し、家族を殺された復讐をするというストーリー。彼は認知症なので、同じ老人ホームにいたアウシュビッツの生き残りの男(マーティン・ランドー)が書いた手紙(ことば)を頼りにしている。
で、老人ホームにいる男を訪ねたとき、ふとピアノの音を聞く。クリストファー・プラマーはピアノが好き(あるいはピアノ演奏者だったのかもしれない)。ふと、そのピアノの方へ近づいていく。作曲家の名前を三人出したが、私にはなじみのない人。たぶんユダヤ人の作曲家なのだろう。そこまでは、ことば。その曲を聴いて、ピアノを弾くことを思い出し、実際に引き始める。でも、それは先に名前をあげた三人の曲ではない。シューベルトだったかリストだったか、東欧系(ドイツ系?)の作曲家の曲。これが最初の「肉体の記憶」。ここで、一瞬、あれっと思うのだが、まあ、有名な作曲家だし、この曲の方が観客にはわかりやすいからそうなのかなあ(ピアノを弾いているという人物設定の紹介には、これでいいのかなあ)と、半分無意識に見逃してしまう。
次に、田舎の一軒家。そこでは訪ねていった男は死んでいない。そのかわり、息子(警官)と会う。この息子が、ナチス心酔者。父の影響を強く受けている。クリストファー・プラマーをドイツ人だと思っていたのだが、アウシュビッツの生き残り(ユダヤ人)がと思って、激昂する。シェパードをけしかける。これをクリストファー・プラマーが一発の銃で仕留める。銃を撃つことを「肉体」が覚えていて、反応するのだ。(銃は事前に買って持っているのだが、買うときは「つかい方を紙に書いてくれ。忘れてしまうから」と言っている。銃をつかったことがある、という設定ではない。)さらに息子も撃ってしまう。このときの「腕前」がすばらしい。一発目は心臓を直撃。とどめの二発目は脳(頭)を直撃。こころえているのだ。ここで、クリストファー・プラマーの「本性」が半分以上明らかになる。アウシュビッツの生き残りのユダヤ人が、こんな完璧に銃をつかいこなせるわけがない。老人なのに、銃を撃ったときの反動にぐらつくこともない。
最後。ブルーノ・ガンツと対面する。その直前、もう一度ピアノが登場する。ここでクリストファー・プラマーはワーグナーを弾く。生粋のドイツ人。そればかりか、ナチス(ヒトラー)のお気に入り。クリストファー・プラマーがユダヤ人なら、なぜ、ワーグナー? これは、ブルーノ・ガンツも指摘する。ブルーノ・ガンツはクリストファー・プラマーがガンツをなつかしくて訪ねてきたと思い、ドイツ語で話し、ワーグナーの話もするのである。
ここから急転直下、話が大展開する。クリストファー・プラマー自身もナチスの生き残りであり、それと知ったマーティン・ランドーが、クリストファー・プラマーが認知症であることを利用してナチス狩りをしていることがわかる。クリストファー・プラマーは最後になって、自分がナチスの生き残りであるということを思い出し、ブルーノ・ガンツを射殺した後は、自殺する。
ストーリーは予告編を見たときから半分わかっている。「衝撃の結末」といううたい文句も「補助線」の役割をしている。これを、どう映画化するか。ということで、見どころは(見逃してはいけないのは)、先に書いた「肉体が覚えてること」が「無意識」に出てくる三つのシーン。
これをアトム・エゴヤンは慎重に、しかしスムーズに組み立てている。(脚本がそうなっているのだろうが、うまく肉体化している。)ピアノの、最初の「ずらし」が微妙だし、だめ押しのワーグナーが強烈だ。銃で犬を殺す、人を殺すという「体験」が、記憶のなかに隠れている「暴力」を覚醒させるというのも刺激的である。一度銃を撃つということを「体験」しなおすと、もう、ためらいがなくなってしまう。その「肉体」の「無意識の変化」がとても巧みに映画化されている。
それにしても「ことば(脳)」とは何と嘘つきなのだろう。脳は(ことばは)、いつでも自分の都合のいいように「現実/事実」を変更して、それを「真理」と思い込む。けれども「肉体」は、そういう嘘がつけない。「肉体」で覚え込んだことは、忘れることができない。「肉体」が思い出したことは、人間を「過去」に引き戻していく。
最後のシーンに、顔は忘れたが、声は覚えているという、ちょっと複雑な「認識論」が出てくるが、声は肉体を動かして「出す」ものだから、その「出し方の癖」は変えられないということだろう。ブルーノ・ガンツは90歳に「変装」しているのだが、声でブルーノ・ガンツとわかる。(目も、わかるといえばわかるが。)そこにも「肉体」そのものが出てきて、なかなか刺激的な映画、考えさせられる映画であった。
(天神東宝ソラリアスクリーン8、2016年10月30日)
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