詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(メモ1)

2016-10-24 23:03:50 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ1)

川は流れる、川という川はすべて流れる
けれど私はここにいる
空には星が満ちて沈黙になる
けれど私はここにいる
花が咲かない草が群がって影を落としている
けれど私はここにいる
あの淵にはいかない

八月の花が死んでも私は泣かなかった
私のものではないから
この切り揃えた髪も、この屈辱をひっかいた爪も、
(じゃあ、だれのもの)
知らないわ、知りたくないわ、
私のものじゃないことだけはわかるの
好きじゃないもの
(好きなものはみんな他人のもの、
他人が持っているものよ)
もうひとりのジュリエットが
脇腹のあたりをつついている







*

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ケヴィン・バーミンガム『ユリシーズを燃やせ』

2016-10-24 20:57:12 | その他(音楽、小説etc)
ケヴィン・バーミンガム『ユリシーズを燃やせ』(小林玲子訳)(柏書房、2016年08月10日発行)

 ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』がどうやって出版されるようになったか。これを三つの方向か描いている。執筆するジョイス。彼を支えた側。出版を禁じようとした側。完成されていな作品の可能性を信じて、ジョイスを支える人々もすごいが、まだ本になっていない作品を取り締まろうとする側の姿勢には驚く。
 なぜ、完成していない作品なのに、問題なのか。私は、ここにいちばんおもしろいものがあると思う。
 ジョイスには『ユリシーズ』に先立って『ダブリン市民』と『若き芸術家の肖像』がある。その作品でも「ことば」が問題になった。「わいせつなことば」とか「汚いことば」とか「神を冒涜することば」とか、簡単に言うと「芸術にふさわしくないことば」)読者を不愉快にさせることば)がつかわれていた。そして、雑誌に掲載された一部にも、「芸術にふさわしくないことば」があった。たとえば「テレマコス」でバック・マリガンがスティーヴン・ディーダラスから借りるハンカチの色。「青ぱなの緑」(丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳、集英社版)。現在の「ことばの状況」から見ると、なぜ?と思うが、ジョイスの時代は厳しかったのだ。(最終章の「ペネロペイヤ」が「わいせつ」という問題ではいちばん論争になった部分だけれど、それが完成するのはずっとあとだ。)
 で、ここからわかること。当時の「取り締まりの基準」というのは、その作品にひとつでも「文学にふさわしくないことば」があれば、それ取り締まり対象ということ。これが最終的にどうかわるか。なぜ発禁処分(焚書処分)が解かれたか。端折っていうと考え方が逆になったのである。「一語でもわいせつ/汚いことば/不愉快なことば」があれば発禁処分から、「一か所でも人間の真実に触れることば」があれば「文学」と認められるようになったのである。(筆者も、訳者も乱暴すぎる要約と言うかもしれないけれど。)どこに目を向けるか、その「向けどころ」が違ってきたのである。
 ここから、ジョイスを支えてきた人の「本質」がわかる。様々な人間がジョイスを支えてきたが、彼らはジョイスの書くものが「人間の真実に触れることば」であるとわかっていたのである。そして、その支える側の多くが、文学者ではなく、文学(本)が好きな女性というところが、なんともおもしろい。「ペネロペイヤ」の主役が「女性」であるように、20世紀の文学は女性が切り開いたとも言えるのである。20世紀は女性の時代なのだ。
 少し『ユリシーズ』から離れてしまうが、これはたとえばボーボワールを考えるとよくわかる。いろんな思想家がいて、いろんな思想があるが、マルクスさえ世界に行き渡らなかった。ところがボーボワールのフェミニズムは世界中に行き渡った。女性差別は間違いであると、いまでは誰もが認識している。思想が思想家のものではなく、常識になった。ボーボワールは世界を変えた。ここから、私は20世紀最大の思想家はボーボワールであると考えているのだが。
 20世紀は女性の時代、女性が世界を変えた時代。そういう意味で言えば、「ペネロペイヤ」こそが『ユリシーズ』のハイライトである。「YES」ということば、ひとりの女性が発する「肯定」が真実の中心にある。ケヴィン・バーミンガムは、その点を、実に劇的に描いている。この「ひとりの女性の発する肯定」の前では、男はみんな脇役である。
 『ユリシーズ』(ジョイス)を支えたのは、多くの(ひとりひとりの)女性の「YES」(肯定)だったのである。古い男は、このひとりの女性の「YES」(肯定)に打ちのめされたのである。そのことが、とてもよくわかる。
 エピローグに、こんな文章がある。

 ジョイスの小説は(略)満天の星を眺め、計り知れないものの前で自分たちの小ささを肯定するのだ。その肯定が揺れ動くことこそ、たとえ不行儀に映ったとしても、それをより強いものにする。

 人間を「肯定」する力が、ジョイスのことばにはあるのだ。それも「ひとり」の、言い換えると「個人の肯定」の力があるのだ。

 「文学」は「社会」のものではなく、「個人」のものである。そういう視点で書かれているから、この本を読んでいると、ただただ『ユリシーズ』を読みたくなる。もう一度、それを自分自身のものにしたくなる。厳しい「検閲」を生き延びた『ユリシーズ』。そのことばを、もう一度読みたくなる。私は何とか『ユリシーズを燃やせ』を読み終わるまで『ユリシーズ』を開かなかったのだが、『ユリシーズ』と併読してもおもしろいかもしれない。そうすると、ああ、ジョイスを「肯定」してくれた人がいて、ほんとうによかったという思いが、読み進むのにあわせていっそう強くなるかもしれない。
 ケヴィン・バーミンガムの「あとがき」というのだろうか、「謝辞」が最後にある。そこには夥しい数の名前が出てくる。彼らはケヴィン・バーミンガムを支えた。それはジョイスを「肯定」した人が、また限りなくいたということを想像させる。そうなのだ。名前こそ登場しないが、無数の読者(個人)が『ユリシーズ』とジョイスを突き動かしたのだ。いま目の前にある『ユリシーズ』の奥に、そういう人々(多様な人々)がいる、いた、ということに深々と頭をさげたい。いま『ユリシーズ』を読むことができることに感謝したくなる本である。


ユリシーズを燃やせ
ケヴィン バーミンガム
柏書房
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