谷川俊太郎「石」(「午前」10、2016年10月15日発行)
谷川俊太郎「石」について語るのは、なんだか、めんどうくさい。
「めんどうくさい」と感じるのは、ことばが動いていかないからである。動いているのだけれど、動いていくという感じではなく、同じところにと止まっている感じがするからである。
石の中に「何かがある」。それはいいけれど、その「何か」って何? それが「動いていかない」。「何かがある」と書いたあと、いきなり「ある」ではなく「ない」が書かれる。何も見え「ない」し、何も聞こえ「ない」、匂いもし「ない」。何もないじゃないか。「だけど何かある」。
で、「ある」と言ったはずなのに、また、何かとも呼べ「ない」途方も「なく(ない)」と「ない」が来る。「いや」という否定語を挟んで、信じられ「ぬ(ない)」、大きさも重さも「ない」、訳のわから「ん(ない)」という語がつづく。その「ない」は「もの」と結びついている。
ここから「何か」とは「もの」であることが、わかる。「何か」としか呼べない「もの」。それを谷川は「感じた」と書いている。これは、「感じ」が「ある」と言いなおすことができるかもしれない。「感じ」を「何か」「もの」と呼んでいることになるかもしれない。
このあと、詩は、
という一行(ここにも「ない」と「ある」が交錯している)を挟んで、こう転調する。
「感じた」ということばが、再び出てきた。「感じた」というのは「感じ」という「名詞」ではなく、「感じる」という「動詞」。
「感じる」というのは、「何か」があって、それに対する反応。いわば「受動」。「感じる」と「能動」でつかうけれど、これは「何か」に「感じさせられる」ということ。
「感じさせられた(感じた)」ら、どうする?
「笑う」「泣く」「祈る」。谷川は三つの「動詞」をあげている。三つの「動詞」で「肉体」を動かしている。「祈る」というのは「笑う」「泣く」と比較すると「精神的」な動きという気もしないではないが、「祈り」にはある種の「肉体的な動き」が伴うから、「肉体」を動かしているととらえてもいいと思う。
そのあと、「忘れる」という「動詞」も出てくるが、私はここにびっくりした。どうじに、あっ、ここに谷川がいる、と感じた。
「忘れる」という「動詞」のなかには「ある」と「ない」が共存している。「ある」のに「ある」ことを「忘れる」。「ない」と思う。でも、逆のこともある。「ある」とわかとわかっているのに、「思い出せない」ということがある。「ある」のに、それが「ない」という形でしかつかみ取れない。「忘れられない」という、さらにめんどうくさい動きもあるのだが、そういうことには深入りせずに、「忘れる」ということのなかに「ある」と「ない」が共存していることだけに目を向けたい。
で。
ちょっと飛躍するが、「忘れる」という動詞のなかにある「ある」と「ない」なのだが……。「忘れる」という動詞にとって、どちらに重点があるだろうか。私は「ない」だと感じている。「ある」のに「ない」という状態になるのが「忘れる」。
この「ない」を「無(無意味)」という具合に押し広げていくと、谷川の詩の「ナンセンス」指向(嗜好?)につながる。
谷川の詩の強さ(絶対的な感じ)は、「意味(文脈)」を拒絶して「もの」が存在する、「もの」が「ナンセンス」を主張するところにある。その「ナンセンス」の「絶対的存在感」というものが、この「忘れる」ということばに、「動詞」として噴出してきていると思う。
この部分の「忘れる」という動詞は谷川にしかかけないと思う。
この谷川独特の「忘れる」が、こんなだらだらした(?)、めんどうくさい詩にも「ナンセンス」の哲学として働きかけ、それが全体を清潔にしている。何か、「よどみ」のようなものを洗い流している。
「よどみ」が清められた結果、詩は、「清潔」の象徴である「妖精」ということばを含む一行、
この一行で、さらに転調する。
この転調の特徴は、時間でできて「いる」、棲んで「いる」という「ある(存在の肯定)」が前面に出ていることである。忘れてしまうヒトも「いる」だろう、の「いる」を引き継いでいる。かもしれ「ない」という形で「ない」も出てくるが、この「ない」は「ある」を際立たせるための「方便」。
何が「ある」のか。
この部分で、私が興味深く感じるのは「訳の分からんものは、言葉では捕まえられない」という部分。「妖精」は「言葉」。「言葉」になっているから、谷川は「妖精」を「捕まえられる」のである。私は「妖精」のような「自分が見たことがないもの/触れたことがないもの」の存在を「ある」とは認めないので、この部分にはとても違和感をおぼえるのだが、それはそれとして脇に置いておいて……。
ここから先に書いた部分に戻ると。
「忘れる」という「動詞/ことば」を動かすとき、谷川は「忘れる」ということをとらえているということになる。さらに、詩を書く(ことばを書く)ということは、それが「何か」としか言えないとしても、それを「捕まえている」ということ。そういうことを、谷川は、もう一度「感じる」という動詞が念押ししているように思う。
「何か」としか呼べない「もの」がある。それは「動き始めている」から「こと」かもしれない。それをあらわすことばを、谷川は「忘れて」いる。思い出せずに、いる。それを「忘れる」ではなく、思い出そうとしている。「感じる」を、少しずつととのえて、覚えているにととのえ、さらに思い出すにつなげようとしている。
そういう運動がある。
最後の一行は、また、おもしろい。
目を逸らし、石を「忘れたい」。でも、書いてしまえば、忘れられない。
めんどうくさい詩を読みながら、めんどうくさいことを考えてみるのだった。私の考えがととのえられないから、めんどうくさいという感想になっているだけなのだけれど。
谷川俊太郎「石」について語るのは、なんだか、めんどうくさい。
雑木林の中の朽ちかけた神社の裏手に、ごろんとヒトの頭ほどの大きさの石が
転がっている。
石を見ていたら、石の中に何かがあるのを感じた。
何も見えないし、何も聞こえない、匂いもしない、だけど何かある。
何かとも呼べない途方もなく大きなもの、いや信じられぬほど小さいもの、い
や大きさも重さもないもの、訳のわからんもの。
「めんどうくさい」と感じるのは、ことばが動いていかないからである。動いているのだけれど、動いていくという感じではなく、同じところにと止まっている感じがするからである。
石の中に「何かがある」。それはいいけれど、その「何か」って何? それが「動いていかない」。「何かがある」と書いたあと、いきなり「ある」ではなく「ない」が書かれる。何も見え「ない」し、何も聞こえ「ない」、匂いもし「ない」。何もないじゃないか。「だけど何かある」。
で、「ある」と言ったはずなのに、また、何かとも呼べ「ない」途方も「なく(ない)」と「ない」が来る。「いや」という否定語を挟んで、信じられ「ぬ(ない)」、大きさも重さも「ない」、訳のわから「ん(ない)」という語がつづく。その「ない」は「もの」と結びついている。
ここから「何か」とは「もの」であることが、わかる。「何か」としか呼べない「もの」。それを谷川は「感じた」と書いている。これは、「感じ」が「ある」と言いなおすことができるかもしれない。「感じ」を「何か」「もの」と呼んでいることになるかもしれない。
このあと、詩は、
石はなんの変哲もないただの石だ。地質学上の学名はあるのだろうが知らない。
という一行(ここにも「ない」と「ある」が交錯している)を挟んで、こう転調する。
訳の分からんものを感じたら、笑いだすしかない、あるいは泣きだすしかない。
訳の分からんままに、祈れるヒトもいるだろう、訳の分からんものなんかすぐ
忘れてしまうヒトもいるだろう。
「感じた」ということばが、再び出てきた。「感じた」というのは「感じ」という「名詞」ではなく、「感じる」という「動詞」。
「感じる」というのは、「何か」があって、それに対する反応。いわば「受動」。「感じる」と「能動」でつかうけれど、これは「何か」に「感じさせられる」ということ。
「感じさせられた(感じた)」ら、どうする?
「笑う」「泣く」「祈る」。谷川は三つの「動詞」をあげている。三つの「動詞」で「肉体」を動かしている。「祈る」というのは「笑う」「泣く」と比較すると「精神的」な動きという気もしないではないが、「祈り」にはある種の「肉体的な動き」が伴うから、「肉体」を動かしているととらえてもいいと思う。
そのあと、「忘れる」という「動詞」も出てくるが、私はここにびっくりした。どうじに、あっ、ここに谷川がいる、と感じた。
「忘れる」という「動詞」のなかには「ある」と「ない」が共存している。「ある」のに「ある」ことを「忘れる」。「ない」と思う。でも、逆のこともある。「ある」とわかとわかっているのに、「思い出せない」ということがある。「ある」のに、それが「ない」という形でしかつかみ取れない。「忘れられない」という、さらにめんどうくさい動きもあるのだが、そういうことには深入りせずに、「忘れる」ということのなかに「ある」と「ない」が共存していることだけに目を向けたい。
で。
ちょっと飛躍するが、「忘れる」という動詞のなかにある「ある」と「ない」なのだが……。「忘れる」という動詞にとって、どちらに重点があるだろうか。私は「ない」だと感じている。「ある」のに「ない」という状態になるのが「忘れる」。
この「ない」を「無(無意味)」という具合に押し広げていくと、谷川の詩の「ナンセンス」指向(嗜好?)につながる。
谷川の詩の強さ(絶対的な感じ)は、「意味(文脈)」を拒絶して「もの」が存在する、「もの」が「ナンセンス」を主張するところにある。その「ナンセンス」の「絶対的存在感」というものが、この「忘れる」ということばに、「動詞」として噴出してきていると思う。
この部分の「忘れる」という動詞は谷川にしかかけないと思う。
この谷川独特の「忘れる」が、こんなだらだらした(?)、めんどうくさい詩にも「ナンセンス」の哲学として働きかけ、それが全体を清潔にしている。何か、「よどみ」のようなものを洗い流している。
「よどみ」が清められた結果、詩は、「清潔」の象徴である「妖精」ということばを含む一行、
石は何億年もの時間でできているから、時間の妖精が棲んでいるかもしれない。
この一行で、さらに転調する。
この転調の特徴は、時間でできて「いる」、棲んで「いる」という「ある(存在の肯定)」が前面に出ていることである。忘れてしまうヒトも「いる」だろう、の「いる」を引き継いでいる。かもしれ「ない」という形で「ない」も出てくるが、この「ない」は「ある」を際立たせるための「方便」。
何が「ある」のか。
妖精はヒトの言葉を知らない。でもそれも訳の分からんものではない。
訳の分からんものは、言葉では捕まえられない、かと言って素手でも無理だ。
じっと動かない石の中で、何かが動き始めているのを感じる。
この部分で、私が興味深く感じるのは「訳の分からんものは、言葉では捕まえられない」という部分。「妖精」は「言葉」。「言葉」になっているから、谷川は「妖精」を「捕まえられる」のである。私は「妖精」のような「自分が見たことがないもの/触れたことがないもの」の存在を「ある」とは認めないので、この部分にはとても違和感をおぼえるのだが、それはそれとして脇に置いておいて……。
ここから先に書いた部分に戻ると。
「忘れる」という「動詞/ことば」を動かすとき、谷川は「忘れる」ということをとらえているということになる。さらに、詩を書く(ことばを書く)ということは、それが「何か」としか言えないとしても、それを「捕まえている」ということ。そういうことを、谷川は、もう一度「感じる」という動詞が念押ししているように思う。
「何か」としか呼べない「もの」がある。それは「動き始めている」から「こと」かもしれない。それをあらわすことばを、谷川は「忘れて」いる。思い出せずに、いる。それを「忘れる」ではなく、思い出そうとしている。「感じる」を、少しずつととのえて、覚えているにととのえ、さらに思い出すにつなげようとしている。
そういう運動がある。
石から目を逸らしたい。
最後の一行は、また、おもしろい。
目を逸らし、石を「忘れたい」。でも、書いてしまえば、忘れられない。
めんどうくさい詩を読みながら、めんどうくさいことを考えてみるのだった。私の考えがととのえられないから、めんどうくさいという感想になっているだけなのだけれど。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫) | |
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