詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「石」

2016-10-19 12:38:38 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「石」(「午前」10、2016年10月15日発行)

 谷川俊太郎「石」について語るのは、なんだか、めんどうくさい。

雑木林の中の朽ちかけた神社の裏手に、ごろんとヒトの頭ほどの大きさの石が
転がっている。
石を見ていたら、石の中に何かがあるのを感じた。
何も見えないし、何も聞こえない、匂いもしない、だけど何かある。
何かとも呼べない途方もなく大きなもの、いや信じられぬほど小さいもの、い
や大きさも重さもないもの、訳のわからんもの。

 「めんどうくさい」と感じるのは、ことばが動いていかないからである。動いているのだけれど、動いていくという感じではなく、同じところにと止まっている感じがするからである。
 石の中に「何かがある」。それはいいけれど、その「何か」って何? それが「動いていかない」。「何かがある」と書いたあと、いきなり「ある」ではなく「ない」が書かれる。何も見え「ない」し、何も聞こえ「ない」、匂いもし「ない」。何もないじゃないか。「だけど何かある」。
 で、「ある」と言ったはずなのに、また、何かとも呼べ「ない」途方も「なく(ない)」と「ない」が来る。「いや」という否定語を挟んで、信じられ「ぬ(ない)」、大きさも重さも「ない」、訳のわから「ん(ない)」という語がつづく。その「ない」は「もの」と結びついている。
 ここから「何か」とは「もの」であることが、わかる。「何か」としか呼べない「もの」。それを谷川は「感じた」と書いている。これは、「感じ」が「ある」と言いなおすことができるかもしれない。「感じ」を「何か」「もの」と呼んでいることになるかもしれない。

 このあと、詩は、

石はなんの変哲もないただの石だ。地質学上の学名はあるのだろうが知らない。

 という一行(ここにも「ない」と「ある」が交錯している)を挟んで、こう転調する。

訳の分からんものを感じたら、笑いだすしかない、あるいは泣きだすしかない。
訳の分からんままに、祈れるヒトもいるだろう、訳の分からんものなんかすぐ
忘れてしまうヒトもいるだろう。

 「感じた」ということばが、再び出てきた。「感じた」というのは「感じ」という「名詞」ではなく、「感じる」という「動詞」。
 「感じる」というのは、「何か」があって、それに対する反応。いわば「受動」。「感じる」と「能動」でつかうけれど、これは「何か」に「感じさせられる」ということ。
 「感じさせられた(感じた)」ら、どうする?
 「笑う」「泣く」「祈る」。谷川は三つの「動詞」をあげている。三つの「動詞」で「肉体」を動かしている。「祈る」というのは「笑う」「泣く」と比較すると「精神的」な動きという気もしないではないが、「祈り」にはある種の「肉体的な動き」が伴うから、「肉体」を動かしているととらえてもいいと思う。
 そのあと、「忘れる」という「動詞」も出てくるが、私はここにびっくりした。どうじに、あっ、ここに谷川がいる、と感じた。
 「忘れる」という「動詞」のなかには「ある」と「ない」が共存している。「ある」のに「ある」ことを「忘れる」。「ない」と思う。でも、逆のこともある。「ある」とわかとわかっているのに、「思い出せない」ということがある。「ある」のに、それが「ない」という形でしかつかみ取れない。「忘れられない」という、さらにめんどうくさい動きもあるのだが、そういうことには深入りせずに、「忘れる」ということのなかに「ある」と「ない」が共存していることだけに目を向けたい。
 で。
 ちょっと飛躍するが、「忘れる」という動詞のなかにある「ある」と「ない」なのだが……。「忘れる」という動詞にとって、どちらに重点があるだろうか。私は「ない」だと感じている。「ある」のに「ない」という状態になるのが「忘れる」。
 この「ない」を「無(無意味)」という具合に押し広げていくと、谷川の詩の「ナンセンス」指向(嗜好?)につながる。
 谷川の詩の強さ(絶対的な感じ)は、「意味(文脈)」を拒絶して「もの」が存在する、「もの」が「ナンセンス」を主張するところにある。その「ナンセンス」の「絶対的存在感」というものが、この「忘れる」ということばに、「動詞」として噴出してきていると思う。
 この部分の「忘れる」という動詞は谷川にしかかけないと思う。
 この谷川独特の「忘れる」が、こんなだらだらした(?)、めんどうくさい詩にも「ナンセンス」の哲学として働きかけ、それが全体を清潔にしている。何か、「よどみ」のようなものを洗い流している。

 「よどみ」が清められた結果、詩は、「清潔」の象徴である「妖精」ということばを含む一行、

石は何億年もの時間でできているから、時間の妖精が棲んでいるかもしれない。

 この一行で、さらに転調する。
 この転調の特徴は、時間でできて「いる」、棲んで「いる」という「ある(存在の肯定)」が前面に出ていることである。忘れてしまうヒトも「いる」だろう、の「いる」を引き継いでいる。かもしれ「ない」という形で「ない」も出てくるが、この「ない」は「ある」を際立たせるための「方便」。
 何が「ある」のか。

妖精はヒトの言葉を知らない。でもそれも訳の分からんものではない。
訳の分からんものは、言葉では捕まえられない、かと言って素手でも無理だ。
じっと動かない石の中で、何かが動き始めているのを感じる。

 この部分で、私が興味深く感じるのは「訳の分からんものは、言葉では捕まえられない」という部分。「妖精」は「言葉」。「言葉」になっているから、谷川は「妖精」を「捕まえられる」のである。私は「妖精」のような「自分が見たことがないもの/触れたことがないもの」の存在を「ある」とは認めないので、この部分にはとても違和感をおぼえるのだが、それはそれとして脇に置いておいて……。
 ここから先に書いた部分に戻ると。
 「忘れる」という「動詞/ことば」を動かすとき、谷川は「忘れる」ということをとらえているということになる。さらに、詩を書く(ことばを書く)ということは、それが「何か」としか言えないとしても、それを「捕まえている」ということ。そういうことを、谷川は、もう一度「感じる」という動詞が念押ししているように思う。
 「何か」としか呼べない「もの」がある。それは「動き始めている」から「こと」かもしれない。それをあらわすことばを、谷川は「忘れて」いる。思い出せずに、いる。それを「忘れる」ではなく、思い出そうとしている。「感じる」を、少しずつととのえて、覚えているにととのえ、さらに思い出すにつなげようとしている。
 そういう運動がある。

石から目を逸らしたい。

 最後の一行は、また、おもしろい。
 目を逸らし、石を「忘れたい」。でも、書いてしまえば、忘れられない。
 
 めんどうくさい詩を読みながら、めんどうくさいことを考えてみるのだった。私の考えがととのえられないから、めんどうくさいという感想になっているだけなのだけれど。


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自民党憲法改正草案を読む/番外33(情報の読み方)

2016-10-19 02:28:48 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党改憲草案と憲法審査会
               自民党憲法改正草案を読む/番外33(情報の読み方)

 2016年10月18日の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞(ともに西部版・4版)の一面に憲法審査会、自民党憲法改正草案のことが書いてある。見出しだけを読むと、これはいったいどういうことだ?と首をかしげてしまう。

朝日新聞
自民改憲草案撤回せぬ方針/盗難議論の土台に

毎日新聞
自民改憲草案棚上げ/本部会合 議論加速へ野党に譲歩

読売新聞
憲法審 27日にも再開/昨年6月以来 衆院与野党一致

 朝日新聞と毎日新聞は、正反対のことを報道しているように見える。だが、どちらも「正しい」のである。
 朝日新聞の記事を引用する。

 自民党は18日、憲法改正推進本部を開き、本部長の保岡興治元法相が2012年の党憲法改正草案を撤回しない方針を表明した。党の「公式文章」と位置づけて、党内議論の土台とする。ただ、改憲草案の内容には野党の反発が強いため、保岡氏は「草案やその一部を切り取って(衆参の憲法)審査会に提案することは考えていない」と表明。党内外で取り扱いを分ける考えだ。

 つまり、自民党内で審議するときは2012年の草案をそのままつかうが、憲法審査会では草案をそのまま提示しない。つまり、「棚上げ」する。
 簡単に言いなおすと「二枚舌」作戦である。
 これを、読売新聞は、こう書いている。

 (保岡は)12年草案への野党からの批判などを踏まえ、「所属議員で議論を行い、党の考え方を整理する必要がある」との認識を示した。与野党の議論の場では、草案の一部をそのまま提案することはしない方針も示した。自民党は衆院憲法審査会では草案にこだわらず、各党が合意できる改正項目をさぐる。

 「各党が合意できる改正項目をさぐる」とは、議論を進める上でまっとうな方法のようにも聞こえるが、これは、何としても「憲法改正」を議題にしようという作戦である。
 朝日新聞の次の「表現」の方が、このあたりの「事情」を正確に伝えている。

 (「国防軍」という表現を含む改憲草案に対して)民進党の野田佳彦幹事長が代表質問で撤回を求めたが、安倍晋三首相は拒否。衆院憲法審査会の与野党の筆頭幹事間でも議題になり、議論再開の壁になっていた。保岡氏の方針は、野党側を議論に呼び込む狙いがある。

 「狙い」という表現が巧みだ。自民党は何としても野党を取り込む形で、憲法審査会で改憲をテーマにしたいのである。そのために、自民党の2012年草案を「棚上げ」にして見せるのである。そして背後、自民党の内部では、2012年草案について議論する。
 きっと憲法審査会で議論が進めば、つまり、野党が「対案」などを出した段階になれば、自民党内で練り上げた「改正草案」にぱっとすり替える作戦なのだ。野党の対案を待って、自民党は「新しい対案(野党案に対する案)」という形で2012年案を提案し、それを「多数決」で押し切るつもりなのである。
 野党が反対といっている2012年案を提出しないのだから(譲歩しているのだから)、野党も審議にふさわしい案をそれぞれ出すべきだ、と誘いかけて、野党の改憲草案を促しているのである。
 これは、もちろん「だましの手口」である。野田は、この誘いには乗ってしまうだろう。それが「だましの手口」であると指摘することはしないだろう。
 現行憲法を変えないということこそ、自民党草案に対する「対案」なのだが、「対案を」と言われれば、それにあわせて「対案」を出してしまうのが野田と民進党である。憲法を守るという意識があいまいである。

 で。
 おもしろいのが、最初に引用した読売新聞の見出しである。読売新聞は自民党の憲法改正推進本部の全体会合のことは記事の後半に見出しなしで紹介し、ニュースを「憲法審
27日にも再開」という点に焦点を当てている。

 衆院憲法審査会の与野党筆頭幹事は18日、国会内で会談し、27日にも審査会を開催することで合意した。

 これに該当する部分を朝日新聞で探すと、

衆院憲法審査会の与野党の筆頭幹事は推進本部会合に先立ち、協議を行った。20日に幹事懇談会を開き、今後の審査会の日程調整に入ることで合意した。

 朝日新聞では「日程」が決まっていない。けれど読売新聞では決まっている。想像だが、たぶん、読売新聞の記事が「正しい」。「日程」が決まったからこそ、保岡は「自民党内では2012年の改正草案を審議し、与野党が参加する憲法審査会では草案を棚上げするふりをする」という「二枚舌作戦」をとると、自民党内に語ったということだろう。「日程」が決まっていないなら、まだ「作戦」を自民党内に説明もしないだろう。「作戦」を徹底させる必要があるから、「作戦」を語るのである。

 で、気になるのが、この「27日にも開催」という「日程」である。昨年6月以来開催されていないのに、なぜ、急に? 昨年6月の憲法審査会では、戦争法案を憲法学者3人が「違憲」と指摘した。そのために、それ以後、憲法審査会は開かれなくなっている。
 何か、事情が変わった?

 私が思いつくのは、「生前退位」をめぐる「有識者会議」の開催である。天皇の「生前退位」の審議が動き出した。
 国民の目は、「生前退位」の行くへの方に向いている。いまなら、国民の意識が憲法改正に集中しない。そう判断したのではないか。あるいは、逆に憲法審査会の方に国民の目を引きつけ、その間に「生前退位」の問題に決着をつけようというのかもしれない。
 どっちにしろ、二つの大問題を同時に強い関心を持って追い続けるのはなかなかむずかしい。
 自民党(安倍)は「二枚舌作戦」と同時に「攪乱作戦」も進めるつもりなのだろう。



 昨日、書き漏らした「生前退位」を巡る「有識者会議」の8項目に関することを補足する。
 有識者会議は、

①憲法における天皇の役割
②天皇の国事行為や公的行為のあり方
③高齢となった天皇の負担軽減策
④摂政の設置
⑤国事行為の委任(臨時代行)
⑥天皇の生前退位
⑦生前退位の制度化
⑧生前退位後の天皇の地位や活動のあり方

 を検討する。この①から⑧の順序と、現行憲法の「条」の順序を比較してみる。
 ①これは第一条「天皇は、日本国の象徴である」に相当する。この「象徴」としての「務め」について天皇は8月8日に語ったのだが、「象徴の務め」が具体的に何を指してしているかは、よくわからない。憲法では天皇の「務め」を「国事行為」としか書いていない。
 天皇は、その憲法に書かれていない「象徴としての務め」に重点を置いている。①を天皇の考えで膨らませている。
 これが安倍の気に入らないことがらである。
 だから、この問題を先になんとか整理したいという思いが、検討事項の順序に反映されている。

 言いなおそう。
 ②の「国事行為」は第三条である。本来なら三番目の検討項目。なぜ、「皇位継承」を押し退けて二番目に検討するのか。さらに現行憲法の第三条には「公務」というようなことばはない。「公務」は定義されていない。なぜ「公務」ということばをつけくわえて、それを検討するのか。きっと安倍は「公務」ということばで「象徴としての務め」を「限定」したいのだ。
 具体的にいえば、天皇が各地に出かけ国民と交流し、親しまれることを阻みたいのだ。
 「公務」ということばは自民党憲法改正草案にもないが、類似したことばが、次の部分に出てくる。「公的な行為」ということばがある。

第六条の5
天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う。

 地方に出かける、地方で国民と触れる「公的な行為」。これが「公務」といえるかもしれない。(天皇は、それ以外の災害被害者へのお見舞いや、地方を見て回ることをも「象徴の務め」と感じている。)それを③の「負担軽減」という形で制限したいのだ。さらに「負担軽減」というものを積極的に推し進めるために「摂政を設置する」という具合に、「議論」を進めたいのだろう。

 別な角度から見ていこう。
 ①天皇の役割のあと、現行憲法で問題にするのは、

第二条
皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

 「皇位継承」問題である。
 「生前退位」は、ことばを変えていえば「生前の皇位継承(譲位)」である。憲法の定義の順序で議論を進めるのがいちばん「論理的」というか、「中立」の立場だと思うが、有識者会議は、これを後回しにしている。
 これは、私には「意図的」な操作に見える。
 なぜ、そうするのか。
 繰り返しになるが、天皇を「象徴」と定義したあと、天皇が語った「務め」を定義(限定)したいのである。天皇の活動(国民とのふれあい)を制限したいのである。国民に親しまれる天皇というのは、安倍の「理想の天皇像」とは違うのだ。
 自民党憲法改正草案では、天皇をまず「元首」と定義している。「象徴」である前に「元首」。つまり「絶対権力者」。そういう「地位」に天皇をまつりあげて、その「地位」を利用する。そういうことを安倍は考えていると私には思える。

 現行憲法は、天皇を「象徴」と定義したあと、「継承」について定義し、そのあと天皇は「国事に関する行為」のみを行うと定義し、そのあとで「国事行為」を詳細に定義している。「公務」というものは現行憲法では書かれていない。それなのに有識者会議では「公務」を検討する。しかも「負担減」という口実で。
 「生前退位⑥」の前に「摂政の設置④」が検討されるのも、とても奇妙である。「生前退位」を認めるのではなく「摂政」を設置したいという「意図」がここに隠れている。




*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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