詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

いがらしみきお「孤独な脳」

2016-10-06 09:42:16 | 詩(雑誌・同人誌)
いがらしみきお「孤独な脳」(「ココア共和国」20、2016年10月01日発行)

 いがらしみきお「孤独な脳」の最初の方に、

脳ってオレのものなのか
それともオレが脳のものなのか

 という「対句」がある。あ、これって、秋亜綺羅のことばの動かし方そっくりだなあ、と思う。私は、こういう客観化(相対化)が、どうにも好きになれない。
 うさんくさい。

脳について考える時
考えているのは脳だ

 後半に、こういう二行が出てくる。これも、うさんくさい。「考える」という動詞の「主語」を「脳」と特定している。そして、その「特定」はいがらしが見つけ出したものなのか。どうも、そうは思えない。「脳は考える器官」(考えるのは主語は脳である)という「常識」を前提として、それを単に「小手先」で動かしている感じがする。
 この「小手先」を「脳」と言い換えてもいいのだが、私は、そうしない。なぜそうしないかというと、私は「考える」を「脳」の「特権」とは思っていないからである。「小手先で動かす」あるいは「舌先三寸」というような言い方(日本語になじんでいることばのつかい方)のなかには、「考える」という「動詞」が「脳」だけではなく、「手」とか「舌」とも結びついていることを証明しているからである。人間は「脳」だけで「考える」のではない。「手」や「舌」でも「考え」を動かす。それも、小手「先」、舌「先」、つまり「肉体の端っこ」で「考える」ということを、日本語は知っている。日本語はおぼえている。
 この「先」を応用すると、いがらしの書いていることは「脳先」で動かしていることばという印象がする。「小手先」ではなく「脳先」。私は、そう言いたいのである。
 で、先の二行は実は四行で「対句」になっている。(私の印象では。)

脳について考える時
考えているのは脳だ
脳が脳について考えている
そのときオレはどこでなにをしているんだ

 「脳は考える」「オレはなにをしているか」。「脳」と「オレ」との「対比」がある。こういう「対比」は「小手先」とか「舌先」というときは、起きない。「小手先」「舌先」という「動いている」そのものが「その人」である、と認定される。「小手先」の「小」が象徴的だが、そのとき「その人」は「小さい」と受け止められる。「小ささ」を前面に出して、背後に「大きな」何かがあるというよりは、「こんな小さなことしかできない人間/小さくずるい」という批判をこめて「小手先」ということばがつかわれている。「小手先」そのものが「その人」。そして「ことば(考え)」。「考え(あらわされたことば)」と「人間(肉体)」は、相対化されない。「対比」されない。つまり「ひとつ」のものととらえられている。
 私は「利口ぶったことば」相対化、客観化よりも、「日常のなかでつかわれている無意識のことば」の方を信頼する。「日常の無意識」を切り離して動くものを「うさんくさい」と感じてしまう。
 と、書いてくると、ただ批判するだけのためにいがらしの詩を取り上げているようだが……。
 このあとの展開に、私は、ちょっとうれしくなった。「小賢しい」ものが消えて、いがらしが「本気」で、つまり「全身」で考え始めている。

脳も内臓だという
こんな内臓あるわけないのに
誰も「変だ」とか言わない
意図か肝臓とかとちがうぞ
人が死ぬと勝手に溶けてしまうそうじゃないか
なぜ溶けてしまうんだ
まるで詮索されなくないことがあるみたいだ
なにを詮索されたくないんだ

あれか
あのことか

 「全身で考える」というのは、そこに「内臓/胃/肝臓」が出てくるからだけではない。(私は、胃や肝臓という内臓も「考える/思う」ということをしている思うので、「脳が内臓である」という「定義」はまったく不自然には感じない。)「脳も内臓だ」という「新説」に、いがらしが全身で疑問を投げつけている。「変だ」「ちがう」という「直感」(論理的な説明を省いた動き)で立ち向かっている。まず、異議を唱える。それから、その異議をととのえるために、自分の「肉体(内臓)」を動かしている。
 そして、「溶ける」→「なくなる(消える)」という「自動詞」の変化を、「溶かす/消す」という「他動詞」としてとらえなおし、そこに「人間」の主体的な動きをからめていることろが、とてもおもしろい。「何かに働きかけるもの」として人間をとらえなおしている。「消す/消したいもの」を「隠したいもの/詮索されたくないもの」というふうに動かしていくのも楽しい。相対化し、その相対化を固定させずに、逆にゆさぶっていく。それがおもしろいし、何よりも、

あれか
あのことか

 がいい。
 何も言っていないが、これで全部言っている。「あれ/あのこと」。それは、いがらしだけの「あれ/あのこと」なのだが、誰にも「あれ/あのこと(隠したいこと/詮索されたくないこと)」ことがある。それは「あれ」としか言えない。「あのこと」と反復するしかないものである。「小手先」や「舌先」という表現同じように、そういうことばでしかとらえられないものを、そういうことばでつかみなおしている。「日常」で無意識のまま「肉体」にしみついていることばでつかみなおしている。
 こういう「事実」のつかみなおし、「肉体」がおぼえているものを、ことばによって引き出す/生み出しなおす、ということがあったあとで、ことばは暴走する。
 それが「対句」を破って、とてもおもしろいのだ。

脳は頭蓋骨の中から出て来れない
脳だけで生きて行く脳はどんな脳だろう
どこにもなににも繋がれていない脳
脳だけの脳

脳よ
自由になれ
自分勝手に生きて行けよ

働きになんて行かなくたっていいし
家になんて帰らなくたっていいし
ボランティアなんかしなくていいよ
やりたいことをやれよ

脳よ
なにをやりたいんだ

やってみな
やりたいことを

オレは待ってるぞ
オレは待ってるぞ

 「考える」という「動詞」から解放されている。「働く」「家に帰る」「ボランティアをする」という具合に、「考える」以外の「動詞」といっしょになって、「肉体」そのものとして生まれ変わっている。
 「オレは待ってるぞ」だから、まだ「生まれ変わっている」とは言えないのかもしれないけれど、「胎児」として「肉体」のなかで動き始めているというところなのかもしれないが、「胎児」はすでに「新しい人間」である。だから「生まれ変わっている」と、私は言うのである。


ココア共和国vol.20
秋 亜綺羅,いがらし みきお,佐々木 英明,宇佐美 孝二,佐藤 龍一,藤本 玲未
あきは書館
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大根仁監督「SCOOP!」(★★★)

2016-10-06 00:30:41 | 映画
監督 大根仁 出演 福山雅治、二階堂ふみ、リリー・フランキー

 福山雅治が中年のパパラッチを演じる、というのが「売り」なんだろうなあ。リリー・フランキー(うまい!)とのからみが、とてもいい。
 のだけれど。
 映画の後半、あれは何? 二階堂ふみに連続殺人犯(レイプ魔)の写真を撮らせる、というところで終わっていいんじゃない? その撮影の前に、二階堂ふみに「こんな男(殺人犯)許せない」というようなことを言わせている。それだけで、二階堂ふみを「記者」にしている。それで、十分。いまどき、こういうジャーナリストはいないだろうなあ、とは思うが。そういう意味では、これは「現実」を描いているというよりも「理想」を描いた映画なのだが。
 その「理想主義(?)」が、この映画をときどき、とてつもなく変なものにしている。
 ラストのエピソードの寸前の、福山雅治と二階堂ふみのベッドシーン。あれはいったい何なのだ。いまどきブラジャーとパンティーをつけたままのセックスシーンなんてあるんだろうか。二階堂ふみの映画をそんなに見ているわけではないが、「清純派」で売っているわけでもないだろうに、なぜ、あんなシーンなのだろうか。「私の男」では、浅野忠信を狂わせる少女を演じている。「魔性」が売り物なのではないのか。
 「動物柄のパンティー」を履いていないという「証拠」のため? それならそれで、パンティーが動物柄ではなかったというだけでいいだろう。ずっーと下着をつけたままなのがわからない。翌朝、パジャマの上を二階堂ふみが着ていて、下を福山雅治が履いているなんて、馬鹿みたいな「セックス後」の描き方にもびっくりするなあ。
 福山雅治が嫌いだった? あるいは福山雅治の方が二階堂ふみを嫌いだった? どっちでもいいが、役者根性に欠けるなあ、と思ってしまう。「こんなの、いまどき、ありえない」とだれかが言わないのだろうか。
 ほんとうの「ラスト」の、二階堂ふみが新人記者と組んで取材に行くシーンなんか、まるで安物の「青春映画」。吹き出してしまいそう。
 それやこれやで、リリー・フランキーの「絶望」だけが、とてもいい感じ。最後の、いかにもつくりもの、ご都合主義のストーリーはリリー・フランキーの演技力だけで持っているのだが、そんなシーンよりも、福山雅治とのなんでもないシーンがいい。うさんくさい「情報屋」としてスクリーンにあらわれ、だんだん「過去」があるらしいと感じさせる。ドラッグ中毒なのに、ボクシングがめちゃくちゃ強い、なんていうのはかっこよくて、あのシーンなんかは、おっ、真似したいなあと思わせる。「普通」とは違う次元を生きている、ということを「肉体」そのもので表現している。
                   (天神東宝スクリーン3、2016年10月05日)



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