加藤思何理『奇蹟という名の蜜』(土曜美術社出版販売、2016年09月30日発行)
加藤思何理『奇蹟という名の蜜』を、こんなふうに読んでみるのはどうだろう。それぞれの詩の書き出しを引用する。
最初に気づくのは「金いろ」「銀いろ」というような、明るい色である。まぶしい色である。「緑と赤と青」は光の三原色。全部合わさると「透明(白)」になる。「金いろ」「銀いろ」は「透明」になる寸前の「いろ」なのかもしれない。この「いろ」は「耀く」「照らす」「閃く」というような「光」の「動詞」となる。そしてそこには「烈しく」という「副詞」が付き添う。「広やかな」という「形容動詞」もついてくる。それらは、どれも「強い/強さ」という印象を呼び起こす。
一方、その「光」という輝きを象徴する「主語」とは別なものが、同時に語られる。「屍体」「不可解な暗い割れ目」「葉裏」という何かしら「暗いイメージ」をもったものが「主語」として向き合っている。その「闇」につながる「主語」には明確な「動詞」はつきしたがわない。「ゆきづまる」という「動詞」が印象にのこるくらいだ。かわりに「切なく苦しく」とか「柔らかく可塑的」とか、何かしら「弱い」印象をもたらす「副詞」や「形容句」がつきまとう。
相反するものが、詩の冒頭で出合っている。
相反するものが出合うと、どうなるか。端折って書いてしまうと「弁証法的運動」がおきる。衝突、止揚、昇華という運動がおきる。いわゆる「ストーリー」が、そこから生まれてくる。
うーん。
それはそれでおもしろいのだが、このことばの運動に、私は少し疑問を感じる。
「闇」を輝かしいもの、「光」に変えてしまうような激しい「動詞」、書かれなかった「動詞」を探すストーリーならいいのだけれど、どうも違う。
途中から、ことばが衝突を繰り返すというよりも、何か「結論」を求めて動き始めるという印象にかわる。「結論」をめざしすぎる。「衝突」したあと、どこへ行くかわからない、という感じではなく、どうしても「結論」をつけたくて「衝突」そのものをととのえ始めている感じがする。
「裏庭に豹」を読み返す。
ここには、先に書いた「光」と「闇」の衝突が、克明に書かれている。同時に、その「衝突」を「意識」できるのは「ぼく」と「父」だけであって、「母も姉」や「隣人や友人」(二連目)には見えない。意識されない。「気づかない」と言いなおされる。
この「衝突」を、「ストーリー」ではなく「存在」そのものとして「維持し続ける」ととてもおもしろい「思想/肉体」が生まれてくると思うのだが。つまり、加藤の「肉体」が変化しないではいられない状態になってくると思うのだが、加藤はそういうことはしない。
「衝突」のままでは動きようがないので、三連目に突然「セールスマン」を登場させる。
ここから「詩」は「短編小説」へと変化していく。
一連目では「豹」そのものが動いていた。「屍体」という動けない存在にもかかわらず、「腐敗する」という動詞になって動き、さらにそこから「白い虫」が生まれ、「蠕動する」という、「生まれ変わり」のような「昇華」があった。「白い虫/蛆虫」なのに、それは「豹」そのものの「動き」、言い換えると「いのち」に見える。「生まれ変わり」と書いたのは「いのち」のつながりがそこにあるからだ。「豹」という「主語」を食い破って生まれてくる新しいいのちの輝きがそこにある。それが美しい。
ことろが三連目以降は「豹」が動かずに、「人間」がかわりに動き始める。「豹」は置き去りにされる。
父は、こんなふうに動く。
つられて「ぼく」も動いてしまう。「ぼく」は隠れて、秘密警察に電話しようとする。「父」を密告しようとする。しかし指が滑って電話がかけられない。気づくと、
加藤は「父」を「豹」に「豹変」させるのだが、これでは「短編小説」とも言えないかもしれない。「ぼく」が「豹」になって生まれ変わる、あるいはこの作品に従えば「死に変わる」と、詩(思想/肉体)が生まれてくる瞬間の「暴力」にならないと思う。
「父」に殺され死体になり、それから「豹」にかわると読めばいいのかもしれないが、それでは一連目の「豹の屍→蛆虫」という強烈な「いのちの再生」という「動詞」を裏切ってしまう。
「ストーリー」になりたがることばを、どうやって「ストーリー」にさせないか、ということが必要なのかもしれない。「ストーリー」になってしまうことばを押しとどめたら、とてもおもしろくなると思う。
あるいは詩を捨てて、「短編小説」へ突き進むという方法もあるかもしれないが。
加藤思何理『奇蹟という名の蜜』を、こんなふうに読んでみるのはどうだろう。それぞれの詩の書き出しを引用する。
ある朝のこと、ぼくは裏庭で金いろに耀く豹の屍体を発見する。 (「裏庭に豹」)
金いろに烈しく泡立ち脈搏つ樹液で
その尖端の先のさきまで夥しく膨らんだ樹、
かなり切なく苦しくゆきづまるほどに。
その幹にひとつの不可解な暗い割れ目があって (「たとえばそれは毒を吐く樹、」)
ぼくの眼前には月明かりに照らされた広やかな草原が横たわっている。
夥しい草草の一本一本が銀いろの葉裏を閃かせながら夜の風にそよぐ。
だが風の音さえ聞こえるわけではない。 (「重力に祝福されて」)
教室のなかでは地球儀を用いた授業が行われている。
地球儀は緑と赤と青と透明なものの四種類で、まとめて二百個くらいはあるだろう。
どんな素材でできているのか、それらはきわめて柔らかく可塑的で、たとえば少女の初初しい乳房のような感触だ。 (「赤いスパナの謎」)
最初に気づくのは「金いろ」「銀いろ」というような、明るい色である。まぶしい色である。「緑と赤と青」は光の三原色。全部合わさると「透明(白)」になる。「金いろ」「銀いろ」は「透明」になる寸前の「いろ」なのかもしれない。この「いろ」は「耀く」「照らす」「閃く」というような「光」の「動詞」となる。そしてそこには「烈しく」という「副詞」が付き添う。「広やかな」という「形容動詞」もついてくる。それらは、どれも「強い/強さ」という印象を呼び起こす。
一方、その「光」という輝きを象徴する「主語」とは別なものが、同時に語られる。「屍体」「不可解な暗い割れ目」「葉裏」という何かしら「暗いイメージ」をもったものが「主語」として向き合っている。その「闇」につながる「主語」には明確な「動詞」はつきしたがわない。「ゆきづまる」という「動詞」が印象にのこるくらいだ。かわりに「切なく苦しく」とか「柔らかく可塑的」とか、何かしら「弱い」印象をもたらす「副詞」や「形容句」がつきまとう。
相反するものが、詩の冒頭で出合っている。
相反するものが出合うと、どうなるか。端折って書いてしまうと「弁証法的運動」がおきる。衝突、止揚、昇華という運動がおきる。いわゆる「ストーリー」が、そこから生まれてくる。
うーん。
それはそれでおもしろいのだが、このことばの運動に、私は少し疑問を感じる。
「闇」を輝かしいもの、「光」に変えてしまうような激しい「動詞」、書かれなかった「動詞」を探すストーリーならいいのだけれど、どうも違う。
途中から、ことばが衝突を繰り返すというよりも、何か「結論」を求めて動き始めるという印象にかわる。「結論」をめざしすぎる。「衝突」したあと、どこへ行くかわからない、という感じではなく、どうしても「結論」をつけたくて「衝突」そのものをととのえ始めている感じがする。
「裏庭に豹」を読み返す。
ある朝のこと、ぼくは裏庭で金いろに耀く豹の屍体を発見する。
どこから迷いこんできたのだろう。
あるいはまさかとは思うが誰かがこっそり捨てていったのか。
屍体はなかば腐敗し、腹のあたりの柔らかい皮膚が破れて、ルビーの色の爛れた肉の上を夥しい数の白い虫が蠕動している。
ひどい悪臭だ。
だが不思議なことに母も姉もその屍体に気づかない。
ただぼくと父だけが豹の屍体の存在を強く意識している。
ここには、先に書いた「光」と「闇」の衝突が、克明に書かれている。同時に、その「衝突」を「意識」できるのは「ぼく」と「父」だけであって、「母も姉」や「隣人や友人」(二連目)には見えない。意識されない。「気づかない」と言いなおされる。
この「衝突」を、「ストーリー」ではなく「存在」そのものとして「維持し続ける」ととてもおもしろい「思想/肉体」が生まれてくると思うのだが。つまり、加藤の「肉体」が変化しないではいられない状態になってくると思うのだが、加藤はそういうことはしない。
「衝突」のままでは動きようがないので、三連目に突然「セールスマン」を登場させる。
さて、アメシストいろの淡い雲がひろがるある蒸し暑い夕暮れに、尖った靴を履いた見知らぬセールスマンがやってきて、いきなり裏庭から漂う悪臭を指摘する。
ここから「詩」は「短編小説」へと変化していく。
一連目では「豹」そのものが動いていた。「屍体」という動けない存在にもかかわらず、「腐敗する」という動詞になって動き、さらにそこから「白い虫」が生まれ、「蠕動する」という、「生まれ変わり」のような「昇華」があった。「白い虫/蛆虫」なのに、それは「豹」そのものの「動き」、言い換えると「いのち」に見える。「生まれ変わり」と書いたのは「いのち」のつながりがそこにあるからだ。「豹」という「主語」を食い破って生まれてくる新しいいのちの輝きがそこにある。それが美しい。
ことろが三連目以降は「豹」が動かずに、「人間」がかわりに動き始める。「豹」は置き去りにされる。
父は、こんなふうに動く。
--今夜、あの豹をふたりで処分しよう。
--でも誰かに見つかると逮捕されるよ。
--心配するな。あれはわたしとおまえ以外には決して見えないのだ。
つられて「ぼく」も動いてしまう。「ぼく」は隠れて、秘密警察に電話しようとする。「父」を密告しようとする。しかし指が滑って電話がかけられない。気づくと、
ふと気配を感じて振り返る、するといつのまにかすぐ背後に立っていた父が、ぞっとするほど黄いろい刃物のような眼でぼくを睨みつけていた。
加藤は「父」を「豹」に「豹変」させるのだが、これでは「短編小説」とも言えないかもしれない。「ぼく」が「豹」になって生まれ変わる、あるいはこの作品に従えば「死に変わる」と、詩(思想/肉体)が生まれてくる瞬間の「暴力」にならないと思う。
「父」に殺され死体になり、それから「豹」にかわると読めばいいのかもしれないが、それでは一連目の「豹の屍→蛆虫」という強烈な「いのちの再生」という「動詞」を裏切ってしまう。
「ストーリー」になりたがることばを、どうやって「ストーリー」にさせないか、ということが必要なのかもしれない。「ストーリー」になってしまうことばを押しとどめたら、とてもおもしろくなると思う。
あるいは詩を捨てて、「短編小説」へ突き進むという方法もあるかもしれないが。
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