詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外32(情報の読み方)

2016-10-15 10:59:55 | 自民党憲法改正草案を読む
民進党への注文
               自民党憲法改正草案を読む/番外32(情報の読み方)

 2016年10月15日読売新聞(西部版・14版)4面に「語る/生前退位」という連載がある。2回目で、民進党の野田幹事長がインタビューに答えている。天皇の「生前退位」問題について、安倍が「有識者会議」で「静かに」議論を進めると言ったことに対しての対応を問われて、こう答えている。

 政府がどういう運びを考えているのかまだ見えない。侃々諤々の議論になるよりは、おのずと方向が定まっていくのが一番望ましい。

 「まだ見えていない」とは、どういうことだろうか。「特別法」で対処する(皇室典範は改正しない/生前退位を制度化しない)という方向は既に何度も新聞で報道されている。野田は新聞も読んでいないのか。
 また「侃々諤々の議論になるよりは、おのずと方向が定まっていくのが一番望ましい。」とは、どういうことだろうか。民主主義とは「侃々諤々の議論」のことである。「静か」とは正反対の「うるさい」ものである。野党が議論を否定して、どうするつもりなのだ。
 野田はまた、党内で「皇位検討委員会」を設置し「静かに」議論し、考えをまとめると言ったあと、こう語る。

与野党で対立する形になるのは望ましくないので、対案を出すやり方は基本的に考えていない。

 なぜ、与野党で対立してはいけないのか。天皇の皇位継承は大問題である。さまざまな意見を出し合い、つまり意見を対立させるだけ対立させて、問題点を徹底的に解消すべきである。そういう議論が行われるようにするのが野党の仕事である。政府(安倍)が「静かに」結論を出し、それに従うというのでは、野党の意味がない。最初から「無条件降伏」しているようなものだ。
 だいたい安倍(自民党)が「案」を出していないのだから、先に民進党が案を出せばいいじゃないか。安倍の案を待っているから「対案」になる。民進党が先に案を出せば、安倍の案の方が「対案」になる。「民進党だけで単独過半数を目指す」という絵空事を語るくせに、政治をリードして「案」を提出するということもできないで、どうして「単独過半数」など獲得できるだろう。「議席の一部をわけてね」とごまをすっているようなものじゃないか。

 「対案を出すやり方は基本的に考えていない」というのは、たとえば「憲法改正」などのときに言うことである。なぜ「代案」を出さないか。現行憲法そのものが自民党の憲法改正草案への「代案」だからである。言い換えると、安倍が現行憲法に対して「代案」を出そうとしているのである。そんな「代案」はいらない。だから、「安倍案」に対して「代案」を出さないのである。「代案」以前に、憲法そのものが存在している。

 時間が前後するが、12日に、安倍と山尾(民進党)のやりとりが衆院予算委であった。山尾は、そこで安倍の「憲法改正草案」に対する姿勢、積極的に語ったり、突然語るのをやめることを問題にした。言行不一致を取り上げた。安倍は「以前は憲法論議を深めるために積極的に語った。しかし、実際に議論が始まろうとしているときに、

総理としての立場にあって述べることは、議論が進んでいくことに支障をきたす。(10月13日朝日新聞西部版・14版・3面)

 と語っている。
 「総理としての立場」というのは「自民・公明連立政権」の問題があるということだ。「自民党改正草案」についてだけ語るわけには行かない、という「事情」を含めてのことである。
 ここに(この答弁に)、野党の「突っ込みどころ」がある。そこを山尾はもっと厳しく追及すべきだった。
 安倍は野党に「対案を出せ」と要求しているが、「対案とは何に対しての対案か」と積極的に迫るべきである。「与党(自民・公明連立)の改正案が出ていない。案がないのに対案を出せというのはどういうことか」と突っぱねればいい。
 安倍が「自民党の改正案がある」と言うのなら、「それに対して公明党は完全同意しているのか。同意しているのであれば、公明党との調整は必要ない。総理として答弁できるはずだ」と迫ることができる。
 繰り返そう。民進党は現在の憲法を守る立場ではないのか。もしそうであるなら、現在の憲法を守る立場にあるものが、その憲法に対して「代案」など出すということはありえない。それでは自己矛盾である。いまの憲法に対して「代案」を出しているのは自民党だけである。連立政権として改正案を出すのなら、まず連立政権内で「案」を一本化すべきである。与党内で一本化していない問題、内閣に不一致の問題について、議論などはじめてもしようがない。

 (話は少しずれるが……。この「不一致問題」を解消するために、自民党の憲法改正草案は、とても巧妙なことをやっている。
第十章改正
第百条
この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で、国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。
現行憲法は、
第九章改正
第九十六条
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。
 改正案では「衆議院又は参議院の議員の発議により」とある。ひとりでも「発議」できるのである。ひとりが「発議し」、国会で「議決」する。「三分の二」から「過半数」への改正以上に重大な問題だと私は思っている。)

 憲法改正問題については、自民党と公明党が完全に一致しているわけではない。その「ずれ」をもっと「現実問題」として追及すべきである。その追及は安倍自民党だけではなく、公明党への追及にもなる。
 公明党の母体である創価学会は、国民の目を騙すために、一部の創価学会員が「戦争法に反対している」というのようことを宣伝したが、結局、選挙では公明党に投票している。議席を減らしていない。議席を守るためならどんな嘘でもつくというのは、安倍とかわらない。そういう点を追及してもらいたい。
 「過去の発言」と「今の発言」の矛盾を指摘するだけではなく、「今の発言」の先に生まれてくる矛盾を先取りする形で指摘する工夫(能力)が欠け過ぎている。

 野田は読売新聞のインタビューの最後に、こう言っている。

 民進党は、象徴天皇制の中で皇位継承がいかにうまくいくかという一点だけを曇りのない目で見つめながら、党利党略を排して正しく静かに議論をしていく。

 「党利党略」は、あろうとなかろうと関係ない。まず、「騒がしく」議論することが必要だ。「静か」では、何が起きているかわからない。「静か」では「権力者」の思うがままなのだ。「曇りのない目」などという美辞麗句に酔うな。
 参院選の敗北から民進党は何も学んでいない。籾井NHK参院選の報道をしなかった。つまり「静か」を守り通した。その結果、国民の多くは(若者の多くは)、いったい「何党」が立候補しているかさえ知らないという状況になった。知っている党は「自民党」「公明党」「共産党」だけになってしまった。「民進党」は名前がかわったばかりで、「経歴隠し」のように受け止められてしまった。そして、どんな「議論」もないまま、「自民党か共産党か(民進党にはもれなく共産党がついてくる)」という選挙になったのだ。
 どこまでも「議論」し、「騒がしく」議論し、少数意見を掘り起こさない限り、民主主義は死ぬ。民主主義とは多様性のことであり、多様性とは「静か」とは正反対のものである。そのことを忘れている民進党は、自民党に加担しているとさえ言える。
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大橋政人『まどさんへの質問』

2016-10-15 09:31:24 | 詩集
大橋政人『まどさんへの質問』(思潮社、2016年10月15日発行)

 大橋政人『まどさんへの質問』には「花」が登場する詩が何篇かある。そのうちの一篇の「ハイライト」の部分は「帯び」になっている。
 で、「帯び」にならなかった方の「花の温度」を読んでみる。

熱くて
さわれないような
花はない

部屋の温度を
強くしても
花は
熱くならない

花弁に
指でさわると
いつも
花瓶の温度と
同じくらい

花瓶の
水ばかり
飲んでいる
せいだろうか

(一日中
(澄ました顔で
(水の中

 一連目、二連目。ふーん、変なことを考える人だなあ、という印象。私は、花が熱いかどうかなんて考えたことがない。だから、ここでは、そうか、そんなふうに見る視点があるのか、という感じ。よく言えば、何も知らないこどもの発想。悪く言えば、こどもっぽさを狙った作為も感じられる。
 しかし、三連目で、びっくりした。
 えっ、触って確かめたの? 
 ふいに、花に触ったときの感じが「肉体」の奥から蘇ってくる。確かに「熱い」ということはない。あえて言えば「ぬるい」。人間の「肌」よりは「ひんやり」しているかもしれないが、どれくらい違いがあるか、わからない。人肌は「熱い」ときもあれば「ひんやり」しているときもある。その「温度」といっしょに、花びらの「つるつる」「しっとり」という感じも思い出すなあ。でも、この私の「感触」は「思い出したもの」であって、実際に、いま、花に触って確かめたものではない。
 触ったあと、大橋は、こう言いなおしている。

いつも
花瓶の温度と
同じくらい

 そうだなあ。「花瓶と同じくらいだろうなあ」と想像できる。納得できる。その「納得」が「空想の肉体/肉体の空想」を刺戟して、それでおしまい、かというと、そうではない。

いつも

 うーん。「いつも」か。もちろん、大橋は毎日触ってたしかめているわけではなく、たまたまその日、花に触り、花瓶に触り、また花に触るという「繰り返し」をしてみて、「繰り返し」のなかで起きる感じが変わらないので「いつも」と言っているのかもしれないが。
 で、この「いつも」は単に「過去」(繰り返された時間)だけのことではなく、これからつづく時間を含めて「いつも」なのだと、私は直感的に感じる。
 触って確かめたのは、ついさっきのことなのだけれど、その確かめたことは、これからも「いつも」、つまり「永遠」にかわらない「事実」なのだ。
 ここに「永遠」がある。
 一連目に書いていることは「思いつき」。いわば、頭でも書けるかもしれない世界。それが三連目で「永遠」に変わっている。そして、そのとき「指でさわる」という具合に、実際に「肉体」が動いている。「肉体」が「永遠」に参加している。「花」だけが「永遠」になるのではなく、「肉体」そのものが「永遠」になっている。「花/肉体(指)」がひとつになって、そこに存在している。
 いいなあ、この三連目はいいなあ、と思わず「いつも」の三文字を丸く囲みながら(傍線では何かを逃がしてしまいそうと感じながら)、また読み直すのである。
 四連目以降は、つかみ取った「永遠」を「別の角度」からととのえなおしている。「頭」でととのえなおしている。でも、そんなに「頭」「頭」という感じ、うるさい感じがしないのは「指で触る」という具合に実際に「肉体」が動いたことを知っているからだ。「肉体」が共鳴するからだ。
 さらに

水ばかり
飲んでいる

 と、ここにも「飲む」という動詞があって、それが「肉体」を刺戟してくるからだ。「水を飲む」ということを、私は知っている。「飲む」という「動詞」に誘われて、私は水を飲むときのことを思い出す。「花」が「主語」なのに、その「花」と私の肉体が重なる。あるいは、入れ代わる。
 「触る(セックスをする)」とは「肉体」が入れ代わること。自分と相手の区別がなくなること、とは、瀬崎祐『片耳の、芒』で書いたことだが、この作品でも、それに通じることを感じる。
 四連目で大橋は、「花」になって水を「飲んでいる」のである。
 だから、

(一日中
(澄ました顔で
(水の中

 これは「花」の描写ではなく、「自画像」でもある。「水の中」に花が咲いているわけではないから、「現実」ではない。空想。この「空想」というのは「肉体」という「現実」に対しての便宜上のことば。一般的なことばで言えば「心象風景」ということになるかもしれない。「こころの中の風景」、あるいは「こころの風景」。
 私は「こころ」というものの存在を信じていないのだけれど、こういう行(こういう具合に進んできて動くことば)に触れると、「肉体」のなかに「こころ」がある、「こころ」は「こころの風景」を生きていると考えるのもいいなあ、と思ったりする。
 おっ、美しい、と思わず声が洩れてしまうのである。

 私は、この作品は、ここで終わってもいいのじゃないかなあ、と思う。
 ところが、このあともう一連ある。

熱いのか
寒いのか
気もしれないから
着物も
着せられない

 最後の語呂合わせ(私は苦手だ)がうるさい感じがする。せっかく「こころ」で終わったものを、「頭」へ引き戻す感じがする。
 この詩集は『まどさんへの質問』。まど・みちおを意識している。私はまど・みちおを読んだことがない。「ぞうさん」の歌くらいしか知らない。でも、まど・みちおなら、きっと最終連は書かないだろうなあと思う。知らないまど・みちおと大橋を比較してもしようがないのだが(単なる想像になってしまうのだが)、最後に「頭」で「けり」をつけるかどうか、という部分が大橋とまど・みちおの大きな違いかもしれないとも思うのだった。

まどさんへの質問
大橋政人
思潮社
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