詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西川美和監督「永い言い訳」(★★★★★)

2016-10-21 10:38:58 | 映画
監督 西川美和 出演 本木雅弘、竹原ピストル、藤田健心、白鳥玉季

 うーん、本木雅弘にみとれてしまった。と、書くと、あとはもう書くことがないくらいに、みとれてしまった。
 一か所、竹原ピストルの子どもたちと交流して「一家」のようになったところへ女が割り込んでくる。そして、女の子の誕生日のシーン。ここで本木雅弘はふてくされる。一種の「三角関係」。その、ふてくされてひとりで席を立ち冷蔵庫の氷をとる、酒をロックで飲むまでのシーンが、ちょっと「過剰」。ふてくされているんだぞ、ということがあからさますぎるかなあ。
 というあら探しをしてしまうほど、ひきつけられる。映画を見ているというよりも、そこに、そういう男がいるのを見ている感じ。
 長い坂道を女の子を乗せて自転車を漕ぐシーンなど、うーん、危ない、と思わず声を出しそうになるのだけれど。そういう「全身のシーン」も見応えがある。最初は途中までしか上れないのだが、最後の方は上りきる。かといって、楽々でもない。その動きが「演技」ではなく「実際」なのかもしれないが、その「実際」と「演技」の区別がつかないところがおもしろいなあ。
 藤田健心、白鳥玉季のふたりもすばらしい。このふたりがいなかったら、この映画は違っていたかもしれない。ふたりがいることで、この映画のいくつかのシーンは増えたかもしれない。藤田健心が白鳥玉季の聞き分けのなさにいらだち、怒るシーンなど、まるで「現実」。
 不満は、映像が美しすぎることかなあ。竹原ピストルが疲れて、背中を出したままこたつで眠っている後ろ姿さえ「絵」になっている。その「絵」の切り取り方が、「日常」なのに「日常」ではない印象になる。「芸術」になってしまう。冷静すぎて、なんというか、「絵」にときどき「好奇心」がない。見てはいけないものを「見てしまった」という感じがない。
 「見てしまった」という感じがするはずの、最初に書いた誕生パーティーの、本木雅弘の演技では「見てしまった」というよりも、「見せられている」感じだし……。
 うーん、むずかしいなあ。
 これを「怒り」みたいな映像にしてしまうと、また逆の「芸術(リアリズム)」になってしまう。「芸術」にせずに「日常」になるといいなあ。本木雅弘の、今回の演技は、そういうことを感じさせる。見ていて、見ている私を「欲張り」にさせてくれる。
                   (天神東宝スクリーン5、2016年10月20日)


 *

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冨上芳秀「零余子御飯」

2016-10-21 08:51:17 | 詩(雑誌・同人誌)
冨上芳秀「零余子御飯」(「イリプスⅡnd」20、2016年10月10日発行)

 冨上芳秀「零余子御飯」は、こんな具合に始まる。

肉太の羅臼昆布を一晩水につけて出汁を取りました。その出汁に花
かつおを山のように入れてひと煮たしさせて漉しておきます。お米
にきよらかな水をいれてサラサラと五、六回軽くかきまぜ、水を捨
てます。それからお米を二十回ほどかきまぜて砥ぎます。さらに、
濃い白い米汁を捨て、また、きよらかな水をいれてサラサラと五、
六回軽くかきまぜ、水を捨てます。こんなことを三回ほど繰り返し、
釜のなかにお米を入れます。

 なんだか米を研いでいるばかりで、いっこうに「零余子御飯」にたどりつけそうにないのだが、この無意味な描写がなぜか気になった。「きよらかな水」「サラサラ」が繰り返し出てくる。「五、六回」というのも繰り返し出てくる。とても「不経済」な詩である。「米を研ぐ」ですむとこに、こんなにことばをつかうのはなぜだろう。
 よくわからない。よくわからないけれど、こんなに「ていねい」に書かれると、私の「肉体」の動きとの「違い」が見えてくる。私の米の研ぎ方と違うと感じてしまう。その違いの中に冨上が、知らず知らずにあらわれてくる。

             その釜の表面がおおわれるほどの零余
子をいれます。零余子というのは、ヤマイモのツルの濃い緑の葉っ
ぱの付け根にできる茶色い種のようなもので、これを土に埋めてお
くと芽を出すので、珠芽ともいいます。

 零余子の説明も、長い。そして、その「長さ」のなかに、私の知っている零余子とは違うものがあらわれてくる。いや、零余子自体は同じなのだが、「ヤマイモのツルの濃い緑の葉っぱの付け根にできる茶色い種」というような言い方の中に、私の知っていることとは「違う」ものが入ってきている。冨上が入ってきている。
 冨上は、実際に零余子がなっている「ヤマイモ」のツルを見たことがあるのかな? 本で調べたのかな? 私の家(こども時代の、私の古里での体験)では「ナガイモ」をつくっていたから、零余子をこんな「ていねい」にだれかにわかるように説明する気持ちになれない。
 米の研ぎ方もそうだが、そういうことは「肉体」が覚えていることなので、ことばにしないのである。私は。だから、冨上の「レシピ」に驚いてしまうのである。あ、ここに冨上がいるなあ、と思うのである。
 まあ、こんなことは、どうでもいいかあ、とは思うのだが、そう思ったとき、描写が突然変わる。

                      今日は翡翠のよう
な薄緑色の瓜の漬け物、緑鮮やかな胡瓜の浅漬け、濃い紫色の鮮や
かな茄子の漬け物、赤紫色の茗荷の漬け物、ポリポリ、カリカリ、
しなしな、サリサリと噛み音と歯触りを楽しみながら食べています。
醤油が好きなので紫の濃い漆黒の闇のようにねっとりと香りのよい
湯浅の醤油をかけています。毎日かきまぜているからヌカの状態は
よいようです。微妙な塩加減ですが、塩梅も今のところ申し分ない
のが、私の生活だと言っておきましょう。

 零余子御飯が消えてしまうのである。
 突然、漬け物があふれだす。それぞれに色と音がつかいわけられている。「漬け物」とひとまとめにせずに、はっきりと識別されている。まるで、零余子御飯は「漬け物」を食べるための添え物ではないか。省略した部分に零余子御飯の描写もあるのだが、その描写を忘れさせてしまうくらい、情熱を込めて「漬け物」が語られている。省略した零余子御飯の部分は「起承転結」の「転」になっており、この部分を中心に書けばまた違った感想になるのだが、私は「漬け物」の方にびっくりしてしまった。
 まるで「主食」が「漬け物」、零余子御飯は「副菜」。
 こういう「激変」することばのなかで……。

 漬け物に醤油をかけるなんて、私は、ぞっとしてしまうが、これが冨上の嗜好(肉体)なのだと感じる。

 で、
 この作品が、詩として、いいかどうかは、私にはよくわからないのだが、こんなふうに「テーマ」を忘れて、「私の(日常)生活」の、括弧にいれてしまっている「日常」が突然噴出してくるのは、不思議な「正直」かもしれないなあ、とも思う。
 この「正直」をさらけだすために、「きよらかな水」というらゔなことばを繰り返す必要があったのかもしれない。何か、冨上の「肉体」のなかにある「きよらかなもの/正直」へ少しずつ近づいていこうとする感じがあるのかもしれない。無意識に、「大事なもの」にふれる手つきがあらわれているのかもしれない。
 米の研ぎ方を読むと、それが冨上の「日常」とは思えない。だから「ぬか漬け」なんかも自分で手入れはしないのだろうけれど、(そういう日常を支えてくれている人に守られながら、安心して)、そうか「漬け物に醤油をかけるのか」という感想を誘うような「無防備」があって、そういうものが「日常」かなあ、なんていうことも思うのである。
 「日常」は「無防備」で「正直」。そういうものを「無意識」ではなく、意識的に書くとおもしろくなるかもしれないなあ、とも思うのである。
祝福の城―冨上芳秀詩集 (詩遊叢書)
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