瀬崎祐『片耳の、芒』(思潮社、2016年10月15日発行)
瀬崎祐『片耳の、芒』には奇妙な粘着力がある。そして、それは「詩集」という形になったときに、雑誌で読んだときとは違った姿で迫ってくる。と、書きながら、私はほんとうに「どぅるかまら」「風都市」で、この詩集のなかの詩篇を読んだかどうか思い出せないのだが。何か、ひとかたまりの「量」になることで見えてくるものがある。その「量」が、とても「手応え」がある。
それは詩がある種の「ストーリー」を持っていることと関係しているかもしれない。書かれている人、ものが動き、「事件」が起きる。ただ、その「起き方」がきのう読んだ加藤思何理『奇蹟という名の蜜』とはずいぶん違う。だから「ストーリー」よりも、その「書き方」と関係しているといった方がいいのかもしれないなあ。
「陰花」という作品。
この書き出しからは、「わたし」が「海藻」を運ぶ仕事をしているということがわかる。もう「ストーリー」が動いている。でも、海藻を運ぶというのは、なんだろう。昆布とりとか、わかめとりとか。そういうことを想像する前に、これは「比喩」なのだな、と感じてしまう。そういう書きぶりである。もちろん、こういう印象には、この一篇だけではなく、この詩集に納められている他の作品や、以前に読んだ瀬崎の詩の印象がまぎれ込んでいて、そう思ってしまうのだが。読み進むと……。
と、「現実」にはありえないようなことが書かれる。「幻想」のような方向にことばが動いていく。
このときの「ことば」の動き。それは「事件」を書く、というよりも「時間」を書くという感じだ。
ということばがあるために、そう思うのかもしれないが。
このときの「とき」は「時間/瞬間」というものではないような気がする。「とき」は「比喩」なのだと感じる。「つなげる」という「動詞」がそう感じさせる。
「とき」は人間の動きとは無関係に動いている。「つなげる」必要はない。「とき」はかってにつながって動いていく。
では、何を「つなげる」のか。「つなぐ」のか。「花から叛れた生命」ということばが気になる。「花から叛れた生命」自体は「海藻」を言いなおしたもの、つまり「比喩」だが、そこにある「叛く」という「動詞」と「生命」という「名詞」が強く印象に残る。
「叛く」は「離れる」でもある。「離れる」は「つなぐ/つなげる」とは反対のことばでもある。そうであるならば、「ときをつなげる」は「離れていった生命」を「つなげる」ということにならないだろうか。
「海藻」には「花」のような華やかさがない。「陰花」と言えるかもしれない。それは、しかし強い生命力をもっていて、「触れたものに繁殖する」、「触れたものの」のなかに「生命」をつないでゆく。「海藻」は海から引き離されながら、海から引き離すものの「腰のあたり」に「胞子」をもぐりこませ、「ときをつなげる/生命をつなげる」。
こういうことが「現実」にあるわけではないだろう。瀬崎は、「ときをつなげる/生命をつなげる」という「動き」を書くために、「架空の事件」を書いているのだろう。言い換えると「海藻」とか「従兄弟たち」「腰のあたり」というのは、「動き(動詞)」を明るみに出すための「方便」のようなものだ。「動き」は「動き」だけを取り出して書けない。「名詞」を必要とするから、借りて書いているのだという感じ。
この「ときをつなげる/生命をつなげる」という「動詞」は、次のように言いなおされる。
「からみあう」「蠢く」「まさぐる」という「動詞」が「腰」とともに動くので、何やら色っぽい、セックスを想像させる。「あたたく(あたたかく?)」「ぬめぬめ」ということばも、「肉体」を感じさせる。セックスは、たしかに「生命をつないでゆく」「ときをつないでゆく」。そこに「叛く」ということばが重なれば、何か「不道徳」のようなものを感じさせる。「ゆらいでいる」のは、「道徳」かもしれない。「道徳」に叛き、「生命」ではなく「官能/快楽/本能」というものを「つないでゆく」ことになるかもしれない。
こうなると、もうセックスそのものである。「海藻」は「海藻」ではなく「女」である。それも「快楽のための女」である。「愉悦を求める女」である。とはいっても、「愉悦を求める」のは女だけではないから、それは「わたし」を含める「従兄弟たち」、さらには「男」自身ということにもなるだろう。
「快楽/愉悦をまさぐる」こと、それが「ときをつなげる」こと、「生命をつなげること」。
あ、こんなことは書いていないのかも。全ては私の「誤読」かも。
でも、詩は、気に入った部分に立ち止まり、そこに書かれていることばを自分でつかってみるなら、こういう具合につかってみたいと勝手に思うときに動くもの。正しいとか間違っているとかは関係ないなあ。
「女」ということばは出てこないが、これはきっとセックスのことを書いている。そこに書いてある「動詞」を自分の「肉体」で動かすとセックスのあれこれが思い浮かぶ。スケベなのに、スケベを隠して書いているなんて、瀬崎はむっつりスケベ? と思って読むと、なんとなく瀬崎が近くにいる感じがしてくる。
瀬崎祐『片耳の、芒』には奇妙な粘着力がある。そして、それは「詩集」という形になったときに、雑誌で読んだときとは違った姿で迫ってくる。と、書きながら、私はほんとうに「どぅるかまら」「風都市」で、この詩集のなかの詩篇を読んだかどうか思い出せないのだが。何か、ひとかたまりの「量」になることで見えてくるものがある。その「量」が、とても「手応え」がある。
それは詩がある種の「ストーリー」を持っていることと関係しているかもしれない。書かれている人、ものが動き、「事件」が起きる。ただ、その「起き方」がきのう読んだ加藤思何理『奇蹟という名の蜜』とはずいぶん違う。だから「ストーリー」よりも、その「書き方」と関係しているといった方がいいのかもしれないなあ。
「陰花」という作品。
わたしが扉をあけると 三人のよく似た顔の従兄弟たち
がふりむいた 病にたおれたわたしを庇って 従兄弟た
ちは海藻を運びつづけてくれた
この書き出しからは、「わたし」が「海藻」を運ぶ仕事をしているということがわかる。もう「ストーリー」が動いている。でも、海藻を運ぶというのは、なんだろう。昆布とりとか、わかめとりとか。そういうことを想像する前に、これは「比喩」なのだな、と感じてしまう。そういう書きぶりである。もちろん、こういう印象には、この一篇だけではなく、この詩集に納められている他の作品や、以前に読んだ瀬崎の詩の印象がまぎれ込んでいて、そう思ってしまうのだが。読み進むと……。
そんな従兄弟たちの腰のあたりには 運びつづけてきた
ものと同じ海藻が生えてきている 花から叛かれた生命
は触れたものに繁殖するのだ ときをつなげるために
触れた皮膚をめくり 暗いところに胞子をもぐりこませ
るのだ
と、「現実」にはありえないようなことが書かれる。「幻想」のような方向にことばが動いていく。
このときの「ことば」の動き。それは「事件」を書く、というよりも「時間」を書くという感じだ。
ときをつなげる
ということばがあるために、そう思うのかもしれないが。
このときの「とき」は「時間/瞬間」というものではないような気がする。「とき」は「比喩」なのだと感じる。「つなげる」という「動詞」がそう感じさせる。
「とき」は人間の動きとは無関係に動いている。「つなげる」必要はない。「とき」はかってにつながって動いていく。
では、何を「つなげる」のか。「つなぐ」のか。「花から叛れた生命」ということばが気になる。「花から叛れた生命」自体は「海藻」を言いなおしたもの、つまり「比喩」だが、そこにある「叛く」という「動詞」と「生命」という「名詞」が強く印象に残る。
「叛く」は「離れる」でもある。「離れる」は「つなぐ/つなげる」とは反対のことばでもある。そうであるならば、「ときをつなげる」は「離れていった生命」を「つなげる」ということにならないだろうか。
「海藻」には「花」のような華やかさがない。「陰花」と言えるかもしれない。それは、しかし強い生命力をもっていて、「触れたものに繁殖する」、「触れたものの」のなかに「生命」をつないでゆく。「海藻」は海から引き離されながら、海から引き離すものの「腰のあたり」に「胞子」をもぐりこませ、「ときをつなげる/生命をつなげる」。
こういうことが「現実」にあるわけではないだろう。瀬崎は、「ときをつなげる/生命をつなげる」という「動き」を書くために、「架空の事件」を書いているのだろう。言い換えると「海藻」とか「従兄弟たち」「腰のあたり」というのは、「動き(動詞)」を明るみに出すための「方便」のようなものだ。「動き」は「動き」だけを取り出して書けない。「名詞」を必要とするから、借りて書いているのだという感じ。
この「ときをつなげる/生命をつなげる」という「動詞」は、次のように言いなおされる。
海藻のからみあった部分はゆっくりと蠢いていて まさ
ぐる人さし指があたたくとらえられる 指はぬめぬめと
口でくわえられているようで まるで自分たち自身も海
の底でゆらいでいる海藻になったようだと 従兄弟たち
はいう
「からみあう」「蠢く」「まさぐる」という「動詞」が「腰」とともに動くので、何やら色っぽい、セックスを想像させる。「あたたく(あたたかく?)」「ぬめぬめ」ということばも、「肉体」を感じさせる。セックスは、たしかに「生命をつないでゆく」「ときをつないでゆく」。そこに「叛く」ということばが重なれば、何か「不道徳」のようなものを感じさせる。「ゆらいでいる」のは、「道徳」かもしれない。「道徳」に叛き、「生命」ではなく「官能/快楽/本能」というものを「つないでゆく」ことになるかもしれない。
彼らがうっとりとしてあおむけに身体をよこたえようと
すると もうひとときは漂っていたいから我慢してほし
いなあと声がきこえてくるという そこで身体を横に向
けると やがて寝息のようなものが静かにきこえはじめ
るという
こうなると、もうセックスそのものである。「海藻」は「海藻」ではなく「女」である。それも「快楽のための女」である。「愉悦を求める女」である。とはいっても、「愉悦を求める」のは女だけではないから、それは「わたし」を含める「従兄弟たち」、さらには「男」自身ということにもなるだろう。
「快楽/愉悦をまさぐる」こと、それが「ときをつなげる」こと、「生命をつなげること」。
あ、こんなことは書いていないのかも。全ては私の「誤読」かも。
でも、詩は、気に入った部分に立ち止まり、そこに書かれていることばを自分でつかってみるなら、こういう具合につかってみたいと勝手に思うときに動くもの。正しいとか間違っているとかは関係ないなあ。
「女」ということばは出てこないが、これはきっとセックスのことを書いている。そこに書いてある「動詞」を自分の「肉体」で動かすとセックスのあれこれが思い浮かぶ。スケベなのに、スケベを隠して書いているなんて、瀬崎はむっつりスケベ? と思って読むと、なんとなく瀬崎が近くにいる感じがしてくる。
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