詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宇佐美孝二「雨の時代まで」

2016-10-08 10:30:09 | 詩(雑誌・同人誌)
宇佐美孝二「雨の時代まで」(「ココア共和国」2016年10月01日発行)

 宇佐美孝二「雨の時代まで」は、小詩集「ヴィンテージ・プリント」のうちの一篇。

広重(ひろしげ)の雨に
駆けだす人々
鈴鹿・庄野の雨は
蓑笠をかぶり 背をまるめさせ
巴水(はすい)描く品川の水は
しとどに音を身のうちに滲ませる

 ことばが、きれいだ。無駄がない。「広重の雨」は「広重の描く雨」。「描く」という「動詞」を「の」で言い切っている。そして、その「描く」を「巴水描く品川の水」という具合に復活させている。このとき「巴水描く品川の水」は「巴水の品川の雨」になる。つまり、「水」も「雨」におのずとかわっていく。
 なぜ、「広重描く」としなかったか。「広重描く」では視線が直接対象に向かわず「描く」という「動詞」とその主語「広重」に引っぱられる。「雨」の見え方が弱くなる。「雨」が「事件」ではなくなる。「描く」という「動詞」を省くことで、視線を「雨」に集中させ、さらに次の行の「駆けだす」という「動詞」を強調する。「懸けだす」は、この詩に登場する初めてのの「動詞」。その「動詞」にあわせて、思わず読んでいる私の「肉体」が動く。「懸けだす」が生き生きしてくる。まるで広重の絵では、ひとは濡れていないようだ。濡れるのを避けて駆けだしているという「動き」が浮かび上がる。
 これに対して巴水の水はどうか。もう、雨を通り越している。広重の雨に濡れて、濡れるということを体験して、さらにその先へ言っている。「身のうちに滲ませる」は「身のうちまで滲んでいる」である。いわゆる4ずぶ濡れ」だ。広重の場合は、表面は濡れているが、「身のうち」はまだ濡れていない。
 どの「動詞」を強調するか、どの「動詞」を隠すかということだけで、こんなにも変化が出る。ここが、この詩のいちばんおもしろいところ。
 そのつづき。

雨は水魂(みずたま)

後世、そのようにぼくらも濡れた
(やや、こんなにずぶ濡れになつてをる。畜生め、くつさめ!)
よくもよくも
屋久島の
永田岳の
宮の浦岳の
水魂(みずたま)に撃たれ
ぼくたち
身体の線を二重(ふたえ)ほど
屋久島の杉に懸けてきた

 「雨」は単なる「水」ではない。宇佐美は「水魂」と呼ぶ。私は「魂」というものを知らないので、このことばをどう「誤読」していいのかわからないのだが、「水」というだけでは足りない何かなのだろう。わからないことは、わからないままにしておいて……。

後世、そのようにぼくらも濡れた

 この「そのように」はなんだろう。「広重」か「巴水」か。たぶん、区別はない。どちらと「固定」できない。
 広重の、雨のなかを駆けだす人も、結局は雨にずぶ濡れになる。「蓑笠をかぶり 背をまるめさせ」ていても、背中の反対側、腹まで濡れる。濡れるだけではなく、まるで雨の「音」までも「身のうちに滲む」(しみ通る)くらいである。
 この「滲む」が「身体の線を二重に」の「二重」になる。線が滲む。ぼやける。幅が広がり、線が二重になったかのよう。そんな「ずぶ濡れ」の思い出を、屋久杉の枝に懸けてきたということだろう。
 ここには「懸けだす」と「懸ける」の、音の接近と意味の離反がある。それがまた「二重」を印象づける。
 前後するが「水魂(みずたま)に撃たれる」は「水玉に撃たれる」であり、「水弾に撃たれる」でもある。そこにも「ことば」の音と意味の出会いがある。
 ことばは、その直前・直後のことばとだけ通い合うのではなく、離れたことばとも響きあう。そこに鍛えられた「音楽」があり、それが宇佐美のことばを「きれい」にしている。
 途中に、(やや、こんなにずぶ濡れになつてをる。畜生め、くつさめ!)ということばがある。注釈があって、「狂言・法螺侍」から……高橋康成作」。他人のことばが「引用」されているのだが、これは宇佐美が他人のことばを利用している(借用している)というのではなく、他人のことばと向き合いながら、宇佐美自身のことばをととのえているということをあらわしている。多くの「他人のことば」に触れることで、宇佐美のことばの動き方は、「ことばの肉体」をつかむのである。この「ことばの肉体」、そこに「ことばの肉体」があるという感じが、ことばを「きれい」にしている、とも思う。

透きとほった身体は
ふりしぼってもまだもとに戻らない
きくらげのように震え すぐに忘れられる
世間から
ことばも歩き方も 生き方も許されかたも

 だんだん書いていることがわかりにくくなる。一連目のように、単純にはつかみきれないのだが、「ずぶ濡れる」は「表面が濡れる」を通り越して、からだの内部まで水浸しになる感じ。その「内部の水」が「透きとおる」ということばを誘い出す。「水魂」の「魂」に向き合う形で「身体」ということばが動いているのだと思う。
 そんなに「ずぶ濡れ/水浸し」になってしまっては、水を絞りきれない。「内部」から出し切ってしまうことはむずかしい。
 そして、「身体」の内部に侵入してくるのは「水/雨」だけとは限らない。「世間」に動いているものが「身体の内部」まで侵入してくる、その侵入してきたものに「内部」からしばられる。そういうものによって「身体の線(描写)」が「二重」になる。「ぼやける」ということか。

いま蓑笠があるなら貸してほしい
それをかぶったら化けられるかもしれない
今の時代でも

歩こうかもう少し
まだその先の
雨にけぶり始めたうその時代まで

 広重の時代は「正直」だった。いま、あるいは未来は「正直」を失って「うそ」の時代。そうかもしれない。けれど、その中を歩いていかないといけない。という「思い」が書かれているのかもしれない。蓑が差があったなら、広重の時代のひとのように雨の中を懸けだすことができるかもしれない(正直になれるかもしれない)という思いを抑えている。
 こういう書き方がいいかどうかわからないが、こういう詩の終わり方に触れると、「きれいなことば」の、何か「限界」のようなものも、同時に感じてしまう。
 詩が美しさの中に完結することで、ことばを守っている。その「保守性」が、なんとなく、心配になる。

森が棲む男
宇佐美 孝二
書肆山田
コメント
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