詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部嘉昭『石のくずれ』

2016-10-07 10:24:02 | 詩集
阿部嘉昭『石のくずれ』(ミッドナイト・プレス、2016年07月28日発行)

 阿部嘉昭『石のくずれ』は 200ページを超す詩集。 101ページまで読んだ。音と意味が、引き返すようにして前へ(詩の終わりへ)動いていく。その方法は最近の現代詩の流行のように感じられる。(だれそれの、とはあえて明記はしないが。)その往復は、切断と接続の瞬間に「感性の形(感性の論理)」を見せる。その瞬間的に見える「感性の形」を好きか嫌いか、が詩の批評の基準になっているようにも見える。私は、その「感性の形」が好きか嫌いかというよりも、その感性を論理にしてしまう「方法」が嫌いである。明治・大正、あるいは戦前のある種の小説の「文体/方法」に似ていると感じる。「新しい」というより「古くさい」。スピードと軽さ、明瞭さがない。
 というような「抽象論」は、阿部は感性を論理にするという方法だけで書いているわけでもないし、まあ、書いてもしようがないか……。

 「石のくずれ」という作品。詩集のタイトルにもなっている。自信作なのだろうか。

石がそこにあるさまはみえるが
あることの持続じたいはみえない

 これは対句。
 「あるさま」とは「ありさま/あるときの姿・形」ということだろうが、「ありさま」というときの「透明感(固く結晶している感じ)」はない。「ある」という「動詞」を強く感じさせることばが「動き」を含んでいる。
 これに対して、それを「あること」と言いなおした上で「持続」ということばへ動いていくとき、「持続する」という「動詞」が「名詞」へと変化し「動き」が固定化する。「名詞」の方が強くなる。
 「あるさま」(動詞)と「持続」(名詞)が、「石」ということばを中心にして往復する。「あるさま」は「ありさま」であり、「ありさま」ならば「名詞」。「持続」は「持続する」であり、「持続する」ならば「動詞」。
 そういう「行き来」のなかで、「あるさま」(動詞)は見える(感性/感覚でとらえることができる)、「持続」(名詞)は見えない(感性/感覚でとらえることができない)と「定義する」。そうして、その「定義した」世界(感性/感覚)を、別のことばで言いなおす。「感性/感覚」を主語というか、テーマにして語り直す。
 三行目。

しずかさへのおびえとはそんなもので

 「しずかさ」とは「名詞」、「おびえ」は「おびえる」であり「動詞」。石のありさま(形)という持続性(名詞)に対して、「名詞」なのに「動詞」を含むという激しさを感じ、「おびえる」。「しずけさ」のなかには「はげしい動き」が予感されているといえばいいのだろうか。
 そのあと、詩は、こう展開する。

ひろってなげるうごきをつくりあげ
わずかなとおさを野へ設計すると
くうきが波紋めいたおのれをゆらし

 めんどうくさい書き方(古い書き方)だと私は思う。「現代語」に翻訳してみると、石を拾って放り投げることを空想した。石は遠くまでは投げられなかった。それでも石が空気の中を動くので、空気の中に揺れができる、ということも空想した(感じた)、ということになるだろう。(この「空想/感覚」が、いわゆる「鋭敏な感覚/感性」と呼ばれるとき「批評」になる。「批評」では、そういうふうに呼ぶ。私は「批評」を書いているのではないので、そういうことを「鋭い」とか「繊細」ということばで修飾しない。違うことを書く。)
 「なげるうごきをつくりあげ」の「つくりあげ」が「肉体」の「空想する/想像する」運動(動き/動詞)である。実際に投げるわけではないが。そのあと「空想する/想像する」は「設計する」ということばで言いなおされる。「設計する」とは「完成」を「紙の上で空想する/想像する」ことである。この運動は「肉体」というよりも「頭の運動領域」の方が広い。こういう「肉体」から「頭/精神/理性」への「言い換え」、その「方法」を詩にする、詩と呼ぶことを、私は「古くさい」と感じてしまう。
 その「設計図」のなかで、空気の乱れを「くうきが波紋めいたおのれをゆらし」と「波紋」という目に見えるもので言い直し、さらにそこに「おのれ」ということばを重ねることで、自己(阿部)をもぐりこませていく。「くうきの波紋」を「おのれ」の「比喩」にする。もちろんそのときの「おのれ」というのは、石を放り投げた「おのれ」とは完全に分離できるものではない。そこには「往復」がある。作用と反作用の往復といってもいい。
 ここから、詩は、最後に向けて、こう展開する。

ずれたがるこの世がたしかにずれ
音のさそいであるしずかな石も
うるわしくうちがわがくずれだす

 「波紋」は「ずれ」と言いなおされる。そこには、繰り返しになるが作用・反作用としての「おのれ」が含まれる。つまり「おのれ」の「ずれ」でもある。だからこそ「おのれ」が生きている「この世」というものも登場するのだが、そのあとの展開の仕方が「うごきをつくりあげる」「設計する」というほどの緊密感を持たない。
 「音」と「しずか(無音)」が「対」になって動くのだが、「さそい」が「さそう」という「動詞」になりきれていない。「くずれだす」の「くずれる」と対にしているのかもしれないが、それが私にはわからない。ずーっと「みえる」という「視覚」の世界だったのが、突然「音/しずか」という「聴覚」の世界に変化している。もちろん「波紋/波動/空気の揺れ」は「音」に通じるが、その「音」を受け止める「肉体」が「動詞」として存在しないので、「あ、頭で書いている」と感じてしまう「頭」は融合するが、「感覚」と一緒にある「肉体の器官」は融合しない。結合しない。。
 「しずかな」に焦点を当てて言いなおすと、この「しずかな」は三行目の「しずかさ」と通じているはずである。三行目の「しずかさ」のなかには「あるさま」「持続」という名詞とも動詞とも断定できない緊密感の「つながり/内在」とういものがあるのに対し、終わりから二行目の「しずかな」は単に「石」を形容する「外観」になっている。「外観」になってしまっているからこそ、それを「うちがわ」と強引に言いなおさざるを得なくなる。この言い直しに「頭」が露骨に動いている、と私は感じるのである。「うちがわ」と書くとき、その「うちがわ」への通路としての「肉体/動詞」が書かれないまま「くずれる」と言われても、わっ、嘘っぽい、「抒情」を狙っているという「作為」の方を感じてしまうのである。「うるわしく」という美辞麗句で詩を飾るのを見ると、古くさいとしか言えなくなる。

 私がおもしろいと思うのは、たとえば「階段」の前半、

階段のかたちをきれいだとおもうのは
おどりばをまがってゆくひとらの規則が
そのままかたちをなしていて

 ここには「石のくずれ」の前半と同じように、「動詞/名詞」の行き来がある。そして、そこに「ひと」の「動き」が実際に想定されている。「かたち」と「規則」を阿部は見ているのだが、見ているだけではなく「ひと」が動くとき、その「ひと」に誘われるようにして見ている阿部の「肉体」も動いている。つまり、阿部の「肉体」が「規則」を「肉体」の外にあるものではなく、自分の「肉体」としてつかみとっている。「規則」は抽象ではなく、「肉体」として生まれてきている。その「肉体」のつかみとったものが、「そののままかたちをなしていて」、そのことばの、かたちをなす動きが詩なのだと、私は感じる。

 「倚らない」の書き出し。

どこまでがかたちで
どこからがゆれか
わからなくみえていた

 この三行も魅力的だ。「かたち」(名詞)と「ゆれる」(動詞)。詩は「ゆれ」と「名詞」として書いているだが、「ゆれる」という「動詞」から派生した名詞なので、「ゆれ」ということばから見えるのは「動き」である。「名詞/動詞」が、そんなふうに「わからなく」そこにある。融合している。その融合した世界を、「わからない」ということばで、ここではつかみとっている。相対化/固定化、つまりくべつしないという「こと/事件」としてつかみとっている。ここは、とてもおもしろい。
 この「わからない」は流行りのことばで言えば「分節できない」である。私は「無分節」ではなく「未分節」ということばを好むのだが、そういう「未分節」の世界へ「動詞」を頼りに踏み込んでいくというのは、とても興奮する。
 で、興奮するから書くのだが、この書き出しと似た三行が後半にも登場する。

どこまでがみずで
どこからが川なのか
わからなくみえていた

 しかし、この三行は、私は感心しない。魅了されない。「動詞」が、つまり「肉体」が動いていない。

どこまでがみずで
どこからが「流れ」なのか
わからなくみえていた

 「川」(名詞)ではなく、「流れ」という「動詞派生」のことばでないと、書き出しの三行と対応しない。「動詞」というのは「肉体」で追認できる。自分の「肉体」を「ゆらす」ことができる。自分の「肉体」を「流れに任せる/流れる」ということができる。「肉体」を実際に組み入れることで世界は新しく「分節」されていく。つまり、生み出されていく。「川」という「名詞」では、世界はすでに「川」として「分節」されている。
 しかし、どこかで、阿部はこのことに気づいているかもしれない。

ただの前方へむけ
おもうことはいまもって
ながれにすら倚らない

 「ながれ」ということばが出てくる。しかし、気づきながらも、それを「倚らない」という形で拒否している。
 ここが、私にはいちばん問題だと思う。
 以前阿部の詩を批判したことに通じるのだが「倚らない」では、自分自身の「肉体の安全」が守られている。それでは詩にならないのだと思う。どうなってもかまわない覚悟をして、そこにあらわれてきた「動詞」そのものを生きる。そして、生まれ変わる。新しい自分を「生み出す」(分節する)。そのとき「動詞」としての「肉体/詩人」が「詩/絶対的なことば」になる。

 「樹」には、こんな二行もある。

うれいをかりたてる異教ではなく
その夜その夜の異数にすぎない

 「異教」「異数」の「対」というのは、自分自身の宗教を明確にして語らない限り、「肉体」とは無関係、つまり「他人のことば」(借り物のことば)に終わってしまう。
 私は誰が何を知っているかということには興味がない。


石のくずれ
クリエーター情報なし
ミッドナイト・プレス
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自民党憲法改正草案を読む/番外29(情報の読み方)

2016-10-07 08:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外29(情報の読み方)

 私は目が悪いのでテレビを見ない。衆院予算委/参院予算委の論戦の全体を知らない。新聞には「詳報」と言いながら、「抄報」というか「抜粋」しか掲載されていない。それを引用し、書くしかないのだが。
 稲田のパーティー券白紙領収書問題を小池晃(共産党)が取り上げた。小池が白紙の領収書を利用し、同一人物が書いたものだと指摘して、「金額も稲田事務所で書いたもので間違いないか」と問いただしている。(引用は2016年10月07日読売新聞朝刊/西部版・14版)

稲田防衛相 主催者の了解のもとで稲田側で未記載の日付、宛名、金額を記載したものだ。パーティーの円滑な運営に支障が生じることから、面識のある間では、いわば委託を受けて参加者側が記載することがしばしばおこなわれている。

 これに関連して、菅官房長官と高市総務相も答えている。

菅官房長官 主催者の了解のもとで(菅事務所で)記載している。政治資金規制法上、問題ないと思っている。

高市総務相 領収書の発行側の作成方法についての規定は法律上ない。主催団体が了解しているものであれば、法律上問題はないと考える。

 こういう発言に「社会常識」をぶつけても、何の役にも立たない。
 だから、私は違うことを指摘したい。
 高市の「領収書の発行側の作成方法についての規定は法律上ない」、だから「法律上問題はないと考える」という考え方。
 これを憲法にあてはめるとどうなるか。

(現行憲法)
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(自民党改正草案)
第十九条
思想及び良心の自由は、保障する。
第十九条の二
何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。

 現行憲法には「侵してはならない」という「禁止」がある。これは「国は(権力は)、侵してはならない」という意味。一方、改正草案には、その「禁止」がない。ここに高市の発言をあてはめるとどうなるか。「侵してはならない」と書いていないから、「侵しても、それは憲法上問題はない」ということになる。つまり、自民党改正草案は、国民の思想及び良心の自由をいつでも侵害すると言っているのに等しい。
 さらに現行憲法にはない「第十九条の二」。ここには「不当に取得し、保有し、又は利用してはならない」とあるが、その禁止の対象者は「国」ではなく、「何人も」である。「国民」に対して「禁止」を定めている。「国」というのは「人」ではないから、「国は個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してもいい」と言っているのである。個人情報を取得し、それをもとに、国民の「思想及び良心の自由は、これを侵してもいい」と言っているのだ。
 そんなことは書いていない、というかもしれない。
 しかし、国民が「個人情報を勝手に取得し、それをもとに自由を侵害するのは間違っている」と国を批判したら、どうなるのか。国は「国が国民の自由を侵害してはならないという規定は、憲法上ない。だから国が国民の自由を侵害しても、憲法上の問題は生じないと考える」という答えが返ってくるだろう。
 法律(憲法)に、どこまで「ことば」を盛り込むか。これはむずかしい判断になるが、自民党は「国への禁止事項」を削除し、国民への「禁止」を増やしている。そこには

(改正草案)
第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

 という、現行憲法にはなかった「規定」があったりする。「家族は、互いに助け合わなければならない」はことばとしては美しいが、家族であってもわかれなければならない事態があるだろう。また助け合うことが困難なことがあるだろう。離婚するな、介護は「家族」で処理しろ、それが国民の義務だと言っていることになる。
 国は社会福祉を切り捨てたいのである。

 憲法問題については何度か野党が質問しているが、これに対して安倍は一貫して、

行政府の長として答弁に立っているので草案を解説するのは適切ではない
              (2016年10月07日読売新聞朝刊/西部版・14版、4面)

 と主張している。安倍は「憲法審査会で討議すべきだ」というのだが、その憲法審査会は開かれていない。つまり、討議のしようがない。だれにも、答えを求めることができない。
 こんな質疑応答があっていいはずがない。
 選挙のたびに「アベノミクス、アベノミクス」と言い続け、野党の経済対策では景気はよくならないと主張してきて、議席が改憲に必要な三部の二に達すると、「憲法改正は公約に書いてある。国民の信任を得ている」と言うのは「詐欺」である。国民に議論させない、国民に知らせないまま、結果だけを押しつける、というのが安倍のやり方である。





*

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