池井昌樹「未知」(読売新聞夕刊、2016年10月28日)
池井昌樹「未知」は、少し変わっている。「主役(主語)」がガリレオである。
ただガリレオが主役といっても、中世のガリレオをそのまま書いているわけではない。評伝ではない。「いまはないいつもの街」の「いま」は現在の池井の生きている街。そこには「中世」はない。3行目を中心に考えると、池井がガリレオを追体験している。「いま」、「ここにはない」中世の街をガリレオになって歩いている、という具合に読むことができる。
でも、ほんとうかな?
ガリレオが中世の街を歩くとき、やはり「中世(いま)」にはしばられない「いつもの(永遠の)」街を歩くということがあるのではないか。
池井が「いまはないいつもの(永遠の)街」を歩くことと、ガリレオが「いま(中世)はないいつもの(永遠の)街」を歩くことは、「いつもの(永遠の)」ということばのなかで溶け合い、ひとつになる。
だから「主役」がガリレオか、池井か、と区別することは、意味がない。「いつもの」こそが、この詩の「主語」なのだ。
その証拠(?)に、大切な「いつもの」は繰り返される。
「いつものようにガリレオは」は文字通り「いつも」。ほかにも「まいどなじみ」「いまもむかしもかわらない」も「いつも」を言い換えたもの。そして、その「いつも」を「永遠/普遍」と読み替えるならば「あしたのことなどだれもしらない」の「だれもしらない」も「いつも」なのである。だからこそ「いまもむかしもだれもしらない」とも言いなおされる。「いまもむかしも」区別なく、「いつも」「だれもしらない」。それが「永遠」。それが「普遍」。あるいはガリレオに敬意をあらわして「真理」といってもいいかもしれない。
「いつも/永遠/普遍/真理」は「へんてつもない」とも言い換えられている。かわったことではない。かわったことではないからこそ、人を支える。全ての人を支える。ガリレオを支え、池井を支え、ガリレオに挨拶し、冷やかす人をも支える。
その「いつも/永遠/普遍/真理」を池井は、さらに「未知」と言い換える。「未知」、いまだ知らない。「だれもしらない」。知っているけれど、「未知/しらない」としか呼べないもの。
禅問答みたいだけれど。
で、何も知らないのだけれど、知らないといいながら知っていること。
この4行がすべて。
空の雲を見つめ、頬に風を感じ、「ああいい/いいなあ」と思わず声が出る。そのときの「声」ってだれの声? もちろん、それを発した人の声だけれど、その人だけにとどまらない。どこか「肉体(いのち)」が引き継いでいるDNAの声という感じがするなあ。
「いま」なのだけれど「いま」ではない「いつもの」声。だれの遺伝子が肉体のなかを動いて「ああいい/いいなあ」という声になっているのか、だれも知らない。けれど、だれもが「わかっている」。
こう読むと、「いつも」の池井があらわれてくるね。
池井昌樹「未知」は、少し変わっている。「主役(主語)」がガリレオである。
ガリレオは街に出た
へんてつもない中世の街
いまはないいつもの街
ただガリレオが主役といっても、中世のガリレオをそのまま書いているわけではない。評伝ではない。「いまはないいつもの街」の「いま」は現在の池井の生きている街。そこには「中世」はない。3行目を中心に考えると、池井がガリレオを追体験している。「いま」、「ここにはない」中世の街をガリレオになって歩いている、という具合に読むことができる。
でも、ほんとうかな?
ガリレオが中世の街を歩くとき、やはり「中世(いま)」にはしばられない「いつもの(永遠の)」街を歩くということがあるのではないか。
池井が「いまはないいつもの(永遠の)街」を歩くことと、ガリレオが「いま(中世)はないいつもの(永遠の)街」を歩くことは、「いつもの(永遠の)」ということばのなかで溶け合い、ひとつになる。
だから「主役」がガリレオか、池井か、と区別することは、意味がない。「いつもの」こそが、この詩の「主語」なのだ。
その証拠(?)に、大切な「いつもの」は繰り返される。
天動説の空が展(ひら)け
眉間に深い皺(しわ)を寄せ
だからといって不機嫌でもなく
漆黒帽子に漆黒外套
おやガリレオさんごきげんよう
あいもかわらず錬金術かね
まいどおなじみのひやかしだって
なにくわぬ顔のガリレオは
タバコと燧(ひうち)を切らしましてな
いまもむかしもかわらない
空には雲が
頬には風が
あしたのことなどだれもしらない
あさって獄死することだって
ガリレオはまた空を見上げる
ああいい
いいなあ
それでも地球はまわっているか
へんていもないあとかたもない
いまもむかしもだれもしらない
未知なる未知なる未知なる未知へ
ガリレオは
眉間に深い皺を寄せ
空ゆく雲の下をゆく
「いつものようにガリレオは」は文字通り「いつも」。ほかにも「まいどなじみ」「いまもむかしもかわらない」も「いつも」を言い換えたもの。そして、その「いつも」を「永遠/普遍」と読み替えるならば「あしたのことなどだれもしらない」の「だれもしらない」も「いつも」なのである。だからこそ「いまもむかしもだれもしらない」とも言いなおされる。「いまもむかしも」区別なく、「いつも」「だれもしらない」。それが「永遠」。それが「普遍」。あるいはガリレオに敬意をあらわして「真理」といってもいいかもしれない。
「いつも/永遠/普遍/真理」は「へんてつもない」とも言い換えられている。かわったことではない。かわったことではないからこそ、人を支える。全ての人を支える。ガリレオを支え、池井を支え、ガリレオに挨拶し、冷やかす人をも支える。
その「いつも/永遠/普遍/真理」を池井は、さらに「未知」と言い換える。「未知」、いまだ知らない。「だれもしらない」。知っているけれど、「未知/しらない」としか呼べないもの。
禅問答みたいだけれど。
で、何も知らないのだけれど、知らないといいながら知っていること。
空には雲が
頬には風が
ああいい
いいなあ
この4行がすべて。
空の雲を見つめ、頬に風を感じ、「ああいい/いいなあ」と思わず声が出る。そのときの「声」ってだれの声? もちろん、それを発した人の声だけれど、その人だけにとどまらない。どこか「肉体(いのち)」が引き継いでいるDNAの声という感じがするなあ。
「いま」なのだけれど「いま」ではない「いつもの」声。だれの遺伝子が肉体のなかを動いて「ああいい/いいなあ」という声になっているのか、だれも知らない。けれど、だれもが「わかっている」。
こう読むと、「いつも」の池井があらわれてくるね。
池井昌樹詩集 (ハルキ文庫 い 22-1) | |
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