西日本新聞2016年10月01日朝刊(18版)2面に衆院予算委(09月30日)のやりとりが書かれている。見出しは「改憲論議 野党に呼び水/首相、持論封じ柔軟姿勢/衆院予算委」。そのなかに、こう書いてある。
具体的には、どういうことか。
この安倍の発言は、先日指摘した問題に通じる。議論をしないということで「民主主義」を否定している。
憲法審査会で審議するというが、それは「公開」され、新聞やテレビで詳報されるのか。国会でさえ、討論の全部が報道されるわけではない。きょう取り上げた西日本新聞でも「繰り返し」ということばがあるが、何回繰り返したか、これではわからない。「事実」というものは、見方によって、かわる。様々な視点から点検しないとわからないのに、その「様々な視点」が、現実にはすでに排除されている。
「憲法審で議論を深めるべきだ」は、ことばを変えて言えば、密室で審議すること。議論を深めるのは「審議会のメンバー」であって、「国民」ではない、ということである。「国民」は審議会での「結論」だけを知らされる。専門家が審議したのだから、その「結論」を受け入れろ、ということになる。
細野が安倍にどう食い下がったか(どう質問したのか)、具体的なやりとりは新聞ではわからないが、
という安倍の発言は大問題である。
法律は「いちいちの条文」どころか、「いちいちの文言」が問題になる。なぜ、そのことばをつかうのか。なぜ、そのことばを変更するのかということを、「いちいち」見ていかないといけない。
いろいろな交渉でも、たとえば外国との交渉(条約締結)などでは、訳文の単語ひとつひとつについて「議論」するだろう。どのことばが「有利」か、常にせめぎ合いがあるだろう。
憲法ならば、細部にこだわらないといけない。「ことば」ひとつで「解釈」がまったく違ってくる。
「いちいち条文について解説する立場にない」というは、無責任である。
「いちいちの条文(文言)」について発言しても意味がないというならば、たとえば、安倍が以前「前文」の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」に対して「みっともない/いじましい」という発言は、無意味になる。安倍は現在の憲法の「文言」に対して、具体的にその箇所を指摘して発言している。何かに対して文句を言うときは、そうするのがあたりまえである。安倍自身は、憲法に対して具体的に苦情を言うことはできるが、細野が自民党草案の条文に対して具体的に指摘し、発言することができないとしたら、対話など成り立たない。「議論」など成り立たない。安倍は「おれの言うことを聞け。おまえの言うことは聞く必要はない」と言っているのである。
「いちいち条文について解説する立場にない」という答えに納得するのではなく、それはどういうことかと、細野は質問しなければならない。そんなことをするのは民主主義の否定だと批判しないといけない。
同じ内容を毎日新聞(西部版・14版)と比較してみる。1面の記事によれば、
とある。
もし、ほんとうに自民党草案をベースに議論をすると主張するなら、その草案をもとに、細野が具体的に質問しているのだから、それに答えないことには議論にはならない。議論を誘いながら、議論はしないというのは矛盾である。細野が安倍に、疑問点をぶつけるというのは、議論の出発点としてあたりまえのことである。
また「憲法改正案」を各党が出さないと議論ができないというのは、議論というものの性質を無視している。ある案があり、それに反対ということで、十分議論はできる。「反対」ということ自体が「対案」なのである。そこにある「案」の問題点を、ひとつひとつ指摘することが「対案」の提出であり、その「反対」について審議することが重要である。「反対」があるなら、どうやって「反対」の部分を解消していくか、それを吸収できる案をつくりだしていくか、ということが審議になるはずである。対話のポイントになるはずである。
もし各党が案を出し、それを説明する。つまり、その「いちいちの条文、いちいちの文言」を審議するということになると、時間は膨大になる。どうしたって「審議」は省略される。
各党の案が出揃った。では、どの案がいいか「多数決」で決めようということになる。「対案の提案」が、そのまま「各党での審議を踏まえたもの」ということになり、審議は省略されるのだ。
「対案」の要求は、そのまま「多数決」の要求である。
安倍の狙いはそこにある。
だから「対案」など、野党は出してはならないのだ。「対案」を出さずに、自民党の「改正草案に反対」と言い続けること、条文のひとつひとつに「いちいち」反対を言うこと、反対の理由を国民に説明することが「対案の提出」になるのだ。そうやって国民の間に議論を深めていくことが「民主主義」なのだ。「国民」のなかで「対話/議論」がおこなわれない限り、それは民主主義ではないのだ。
さらに毎日新聞では、西日本新聞で報道している部分について、こう書いている。
これは西日本新聞が報じていることと、かなり違うというか、もし安倍がそう答えたのだとしたら、激しく矛盾している。
「削除は条文の整理だ」は、ひとつの「答」である。つまり、ほんとうに「条文」のひとつひとつについて審議することを完全に憲法審議会に委ねるというのが安倍の考え方なら、ここで「削除は条文の整理だ」と答えているのはおかしい。安倍は、第97条の削除については憲法審議会に議論を委ねていない。安倍主導で「結論」を出していることになる。
こんなばかげた議論の委ね方はない。最初から憲法審議会で出す「結論」を決めていて、それにしたがって発言している。
つまり安倍は、答えたい答え(模範解答)がある時は答え、模範解答がないときは答えないのである。自分の言いたいことしか言わないのである。これでは「議論(対話)」にならない。議論をしたという「証拠づくり」のために審議会を開くだけなのだ。
翻って。
もし安倍が「条文の整理」と主張したのなら、そのことばを「言質」にとって、細野は「基本的人権の価値」は改正草案のどの条文に書かれているのか、基本的人権をどの条文でどのように定義しているのか、その「答え」を引き出さないといけない。
こういう「言質」になることばを発したとき、それは安倍を議論に引っぱりだすチャンスである。こういうチャンスを逃してはいけない。自分が用意してきた質問をするだけではなく、そこで出てきたことばに対してさらに質問をかぶせ、「議論」を自分の土俵に引き込むという工夫を民進党は全くしていない。
議論を無視する、議論を「審議会」とか「有識者会議」とか、「静かな」環境での議論に任せるというのは、「民主主義」の否定である。それにのっかってしまう民進党の質問の仕方もまた、民主主義を否定するものである。
何がなんでも、安倍に国会で憲法について語らせるという工夫を野党はすべきである。「しっかり説明」させる工夫をすべきである。
戦争法もTPPも、安倍は「しっかり説明する」と言ったが、説明などまったくされていない。野党は、安倍に「しっかり説明させる」責任がある。
安倍を批判した、戦争法に反対した、TPPに反対したから、それで責任を果たしたと思ってはいけない。安倍から「ことば」を引き出さない限り、野党は「民主主義」に対して責任を果たしたとは言えない。
*
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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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民進党は安倍晋三首相に憲法改正について見解をただしたが、首相は「憲法審査会での議論にお任せしたい」と繰り返し、論戦を避けた。
具体的には、どういうことか。
「自民草案がベースになるに値するか議論を深めたい」。民進党の細野豪志代表代行はこう呼びかけ、自民草案が基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」と規定した97条の削除している理由を繰り返し質問。首相は「いちいち条文について解説する立場にない」「憲法審で議論を深めるべきだ」と説明を避け、議論は深まらなかった。
この安倍の発言は、先日指摘した問題に通じる。議論をしないということで「民主主義」を否定している。
憲法審査会で審議するというが、それは「公開」され、新聞やテレビで詳報されるのか。国会でさえ、討論の全部が報道されるわけではない。きょう取り上げた西日本新聞でも「繰り返し」ということばがあるが、何回繰り返したか、これではわからない。「事実」というものは、見方によって、かわる。様々な視点から点検しないとわからないのに、その「様々な視点」が、現実にはすでに排除されている。
「憲法審で議論を深めるべきだ」は、ことばを変えて言えば、密室で審議すること。議論を深めるのは「審議会のメンバー」であって、「国民」ではない、ということである。「国民」は審議会での「結論」だけを知らされる。専門家が審議したのだから、その「結論」を受け入れろ、ということになる。
細野が安倍にどう食い下がったか(どう質問したのか)、具体的なやりとりは新聞ではわからないが、
「いちいち条文について解説する立場にない」
という安倍の発言は大問題である。
法律は「いちいちの条文」どころか、「いちいちの文言」が問題になる。なぜ、そのことばをつかうのか。なぜ、そのことばを変更するのかということを、「いちいち」見ていかないといけない。
いろいろな交渉でも、たとえば外国との交渉(条約締結)などでは、訳文の単語ひとつひとつについて「議論」するだろう。どのことばが「有利」か、常にせめぎ合いがあるだろう。
憲法ならば、細部にこだわらないといけない。「ことば」ひとつで「解釈」がまったく違ってくる。
「いちいち条文について解説する立場にない」というは、無責任である。
「いちいちの条文(文言)」について発言しても意味がないというならば、たとえば、安倍が以前「前文」の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」に対して「みっともない/いじましい」という発言は、無意味になる。安倍は現在の憲法の「文言」に対して、具体的にその箇所を指摘して発言している。何かに対して文句を言うときは、そうするのがあたりまえである。安倍自身は、憲法に対して具体的に苦情を言うことはできるが、細野が自民党草案の条文に対して具体的に指摘し、発言することができないとしたら、対話など成り立たない。「議論」など成り立たない。安倍は「おれの言うことを聞け。おまえの言うことは聞く必要はない」と言っているのである。
「いちいち条文について解説する立場にない」という答えに納得するのではなく、それはどういうことかと、細野は質問しなければならない。そんなことをするのは民主主義の否定だと批判しないといけない。
同じ内容を毎日新聞(西部版・14版)と比較してみる。1面の記事によれば、
首相は与野党の多くが憲法改正の案を出していない現状を踏まえ、野党が要求する草案の撤回は「意味がわからない。まずは(草案を)ベースに議論をお願いする」と述べた。
とある。
もし、ほんとうに自民党草案をベースに議論をすると主張するなら、その草案をもとに、細野が具体的に質問しているのだから、それに答えないことには議論にはならない。議論を誘いながら、議論はしないというのは矛盾である。細野が安倍に、疑問点をぶつけるというのは、議論の出発点としてあたりまえのことである。
また「憲法改正案」を各党が出さないと議論ができないというのは、議論というものの性質を無視している。ある案があり、それに反対ということで、十分議論はできる。「反対」ということ自体が「対案」なのである。そこにある「案」の問題点を、ひとつひとつ指摘することが「対案」の提出であり、その「反対」について審議することが重要である。「反対」があるなら、どうやって「反対」の部分を解消していくか、それを吸収できる案をつくりだしていくか、ということが審議になるはずである。対話のポイントになるはずである。
もし各党が案を出し、それを説明する。つまり、その「いちいちの条文、いちいちの文言」を審議するということになると、時間は膨大になる。どうしたって「審議」は省略される。
各党の案が出揃った。では、どの案がいいか「多数決」で決めようということになる。「対案の提案」が、そのまま「各党での審議を踏まえたもの」ということになり、審議は省略されるのだ。
「対案」の要求は、そのまま「多数決」の要求である。
安倍の狙いはそこにある。
だから「対案」など、野党は出してはならないのだ。「対案」を出さずに、自民党の「改正草案に反対」と言い続けること、条文のひとつひとつに「いちいち」反対を言うこと、反対の理由を国民に説明することが「対案の提出」になるのだ。そうやって国民の間に議論を深めていくことが「民主主義」なのだ。「国民」のなかで「対話/議論」がおこなわれない限り、それは民主主義ではないのだ。
さらに毎日新聞では、西日本新聞で報道している部分について、こう書いている。
民進党の細野豪志氏は「草案は(基本的人権の価値をうたった)憲法97条を削除している」などとして白紙撤回するよう迫ったが、首相は「削除は条文の整理だ」と応じない考えを示した。
これは西日本新聞が報じていることと、かなり違うというか、もし安倍がそう答えたのだとしたら、激しく矛盾している。
「削除は条文の整理だ」は、ひとつの「答」である。つまり、ほんとうに「条文」のひとつひとつについて審議することを完全に憲法審議会に委ねるというのが安倍の考え方なら、ここで「削除は条文の整理だ」と答えているのはおかしい。安倍は、第97条の削除については憲法審議会に議論を委ねていない。安倍主導で「結論」を出していることになる。
こんなばかげた議論の委ね方はない。最初から憲法審議会で出す「結論」を決めていて、それにしたがって発言している。
つまり安倍は、答えたい答え(模範解答)がある時は答え、模範解答がないときは答えないのである。自分の言いたいことしか言わないのである。これでは「議論(対話)」にならない。議論をしたという「証拠づくり」のために審議会を開くだけなのだ。
翻って。
もし安倍が「条文の整理」と主張したのなら、そのことばを「言質」にとって、細野は「基本的人権の価値」は改正草案のどの条文に書かれているのか、基本的人権をどの条文でどのように定義しているのか、その「答え」を引き出さないといけない。
こういう「言質」になることばを発したとき、それは安倍を議論に引っぱりだすチャンスである。こういうチャンスを逃してはいけない。自分が用意してきた質問をするだけではなく、そこで出てきたことばに対してさらに質問をかぶせ、「議論」を自分の土俵に引き込むという工夫を民進党は全くしていない。
議論を無視する、議論を「審議会」とか「有識者会議」とか、「静かな」環境での議論に任せるというのは、「民主主義」の否定である。それにのっかってしまう民進党の質問の仕方もまた、民主主義を否定するものである。
何がなんでも、安倍に国会で憲法について語らせるという工夫を野党はすべきである。「しっかり説明」させる工夫をすべきである。
戦争法もTPPも、安倍は「しっかり説明する」と言ったが、説明などまったくされていない。野党は、安倍に「しっかり説明させる」責任がある。
安倍を批判した、戦争法に反対した、TPPに反対したから、それで責任を果たしたと思ってはいけない。安倍から「ことば」を引き出さない限り、野党は「民主主義」に対して責任を果たしたとは言えない。
*
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広田修「雨」(「妃」18、2016年09月22日発行)
広田修「雨」は、こんな「雨」。
「過去」と「内容」の関係がおもしろい。「過去」とは「体験」のことである。「体験」とは、たいていの場合「内容」のことである。
「過去/体験」から「内容」を「抜き取る」と何になるか。
ここでは、しかし、「意味」を考えてもしようがない。
こういう「論理」を動いていくことばには「意味」などない。「意味」を「結論」と言い換えてもいい。「論理」は「結論」をめざすように動いていくものであり、「論理」であることにのみ「意味」を見いだし続ける運動なのだ。
この詩で言えば「抜き取る」という「動詞」と「ない」という関係が「運動」の「数学的結論」である。詩は「ない」が先に書かれ、それを「抜き取る」という「動詞」で証明する形で動いているのだが。
つまり、
この「ない」とは何かというと、「内容」を「抜き取った」結果のことである。
私は、ちょっと興奮した。
「論理」というのは「自己循環」というか、「完結」してしまうものだが、それが「ない」へ向かうならば、一種の「自己否定/論理であることの否定」にもなる。
それを期待した。
ところが、詩はこうつづく。
「内容」は「量」とも言い換えられていると読むことができる。「量」を「抜き取る/取り除く」と「ない」になる、というのも「論理」として、私には納得できる。
しかし、「通過する」という「動詞」は「過去」と結びつくと「体験/体験する」と同じことになる。それでは「抜き取る」ということにはならない。むしろ、この「通過する」は「再認識する」である。あるいは「追認する」であり、そこからは「ない」ではなく、「ある」が必然的生まれてしまう。そこには「過去」か「ある」が明確になるだけだ。
そして、その「結果」として「過去の先端にいる」ということばがやってくるのだが、これは言いなおすと、「過去には過去の奥底と過去の先端があり、私は先端にいる、私という存在が先端にある」ということ。
「ない」が「ある」に変質してしまう。そして、最初の「詩」が消える。
「論理」が破綻する。
「論理」が破綻すると、どうなるか。「抒情」が生まれる。抒情という「論理」とは別な形の詩への欲望が動き出す。
「過去をもう一度生きた人間として」には「動詞」が省略されている。何が省略されているか。私なら「生まれる」を補うが、「生まれる」とは「いる/ある」ということ。完全に「ない」はなくなってしまった。
かわりに「もう一度」という「反復」だけが「ある」。(ここから、この数行は、先に引用した二行の言い直しであることがわかる。)こうした「過去」の「いま」への「反復」のなかで、「遠い歌」を「感情」として「反復」される。「感情」の「反復」こそが「抒情」である。それは、「いま/ここ」に「ない」感情を取り戻すことができたと勘違いすることであり、「抜き取る」ということとはまったく逆のもの。
これでは、興ざめしてしまう。
で、こんな「苦情」を書くくらいなら、感想を書かなくてもいのかもしれないのだが。次の部分は、「ない」と「抜き取る」の関係と同じように、気に入ったのである。それを書きたい。
「数える」という「動詞」がおもしろい。「数える」は「測る」ということであり、「測る」とは「比較する」ということでもあるだろう。その「比較」の部分がおもしろいのである。
「僕が数えられるよりももっと速く」には「速さ」の比較がある。
この「速さ」ということばに、私は驚いた。
雨(粒)の「量」ゆえに「数えられない」というのが一般的だと思うが、その「量」の前に「速さ/速度」があらわれてくるところが、なんといえばいいのか、見落としていた「ものの測り方(論理の作り方)」と「肉体」をゆさぶるのである。
「速さ」を比較する「機能」というか、何で「速い」と判断するのだろうか。数えている対象は「音」なので「耳」で、自分が数えるときの「音/声」と雨の「音」の間合い(間隔/時間的距離)を比較していることになる。
で、その耳が「速さ」から、
と、「遠く」へといきなり「転換」する。「空間的距離」が出てくる。「耳」が「耳」いがいのものを動かしている。「耳」にも「空間的距離」は把握できるが、「空間的距離」を測るときはもっと別な「肉体」をつかったときの方が「適切/合理的」なときがある。「耳」が無意識のうちに他の「肉体(器官)」を刺戟する。この「肉体」への刺戟と一緒に「世界」がふいに拡大する。
ここに「論理」を超える無意識の「何か」を感じ、私は、どきっとしたのである。
詩を書かずにいられない広田の「肉体」を感じたのである。
この「肉体」のことを広田は「感性」と呼び変えている、言いなおしているように思える。
で、その「感性」ということばが出てきた瞬間に、「数える/比較する」が
「探している」にかわる。「一番響く」の「一番」は露骨に「比較」をあらわしているが、その「一番」の「一」は「数える」ものではなく、「数えない」ことである。「数える」かわりに、それと「同化する」が「一」である。「探している」とは、実は、その雨音に「なる」(同化する)ことである。
この「探す/同化する」(ひとつになる)は、次のように言いなおされる。
「一つになる」が「一つ」を「聴き分ける」、合体と分離という矛盾した動きが「肉体」のなかで結びつく。その「矛盾」を先取りする形で「正と負」という「論理的」なことばが動いている。
広田のことばには、「論理」と「論理ではないもの」が衝突しているのだが、私は、この衝突がおもしろいと感じている。ただし、それが「論理」から「抒情」へと変化してしまうときは、私の好みではなくなる。
いま引用した部分でも「正と負」はいいけれど、それに先立つ「この世の」が、どうも気持ちが悪い。
まあ、これは私の好みであって、そういう部分が好きという人もいるだろう。
広田修「雨」は、こんな「雨」。
こんな快晴の日だが
ひたすら過去の雨が私を打つ
水ですらなく重さもない
透明な過去の雨が激しく降ってくる
これまで辿ってきた体験が
内容を抜き取られてひたすら雨滴となる
「過去」と「内容」の関係がおもしろい。「過去」とは「体験」のことである。「体験」とは、たいていの場合「内容」のことである。
「過去/体験」から「内容」を「抜き取る」と何になるか。
ここでは、しかし、「意味」を考えてもしようがない。
こういう「論理」を動いていくことばには「意味」などない。「意味」を「結論」と言い換えてもいい。「論理」は「結論」をめざすように動いていくものであり、「論理」であることにのみ「意味」を見いだし続ける運動なのだ。
この詩で言えば「抜き取る」という「動詞」と「ない」という関係が「運動」の「数学的結論」である。詩は「ない」が先に書かれ、それを「抜き取る」という「動詞」で証明する形で動いているのだが。
つまり、
水ですらなく重さもない
この「ない」とは何かというと、「内容」を「抜き取った」結果のことである。
私は、ちょっと興奮した。
「論理」というのは「自己循環」というか、「完結」してしまうものだが、それが「ない」へ向かうならば、一種の「自己否定/論理であることの否定」にもなる。
それを期待した。
ところが、詩はこうつづく。
私はこれだけの量の過去を通過し
そしていまこれらの過去の先端にいる
「内容」は「量」とも言い換えられていると読むことができる。「量」を「抜き取る/取り除く」と「ない」になる、というのも「論理」として、私には納得できる。
しかし、「通過する」という「動詞」は「過去」と結びつくと「体験/体験する」と同じことになる。それでは「抜き取る」ということにはならない。むしろ、この「通過する」は「再認識する」である。あるいは「追認する」であり、そこからは「ない」ではなく、「ある」が必然的生まれてしまう。そこには「過去」か「ある」が明確になるだけだ。
そして、その「結果」として「過去の先端にいる」ということばがやってくるのだが、これは言いなおすと、「過去には過去の奥底と過去の先端があり、私は先端にいる、私という存在が先端にある」ということ。
「ない」が「ある」に変質してしまう。そして、最初の「詩」が消える。
「論理」が破綻する。
「論理」が破綻すると、どうなるか。「抒情」が生まれる。抒情という「論理」とは別な形の詩への欲望が動き出す。
私の人生が強く降り注いでいる
人生の深遠が雨を振り絞っている
そして私は再び快晴の夏へ
光と熱でいっぱいの明るい夏の日へ
過去をもう一度生きた人間として
遠い歌に耳を傾けながら
「過去をもう一度生きた人間として」には「動詞」が省略されている。何が省略されているか。私なら「生まれる」を補うが、「生まれる」とは「いる/ある」ということ。完全に「ない」はなくなってしまった。
かわりに「もう一度」という「反復」だけが「ある」。(ここから、この数行は、先に引用した二行の言い直しであることがわかる。)こうした「過去」の「いま」への「反復」のなかで、「遠い歌」を「感情」として「反復」される。「感情」の「反復」こそが「抒情」である。それは、「いま/ここ」に「ない」感情を取り戻すことができたと勘違いすることであり、「抜き取る」ということとはまったく逆のもの。
これでは、興ざめしてしまう。
で、こんな「苦情」を書くくらいなら、感想を書かなくてもいのかもしれないのだが。次の部分は、「ない」と「抜き取る」の関係と同じように、気に入ったのである。それを書きたい。
雨の日に、僕は雨粒の音を数えている。僕が数えられるよりももっと速く雨粒は
降ってくるし、遠くの雨粒の音はよく聞こえない。それでも僕は雨粒の音を数え
ている。自分の感性の平原、その静寂に一番響く雨粒の音を探している。
「数える」という「動詞」がおもしろい。「数える」は「測る」ということであり、「測る」とは「比較する」ということでもあるだろう。その「比較」の部分がおもしろいのである。
「僕が数えられるよりももっと速く」には「速さ」の比較がある。
この「速さ」ということばに、私は驚いた。
雨(粒)の「量」ゆえに「数えられない」というのが一般的だと思うが、その「量」の前に「速さ/速度」があらわれてくるところが、なんといえばいいのか、見落としていた「ものの測り方(論理の作り方)」と「肉体」をゆさぶるのである。
「速さ」を比較する「機能」というか、何で「速い」と判断するのだろうか。数えている対象は「音」なので「耳」で、自分が数えるときの「音/声」と雨の「音」の間合い(間隔/時間的距離)を比較していることになる。
で、その耳が「速さ」から、
遠くの雨粒の音はよく聞こえない。
と、「遠く」へといきなり「転換」する。「空間的距離」が出てくる。「耳」が「耳」いがいのものを動かしている。「耳」にも「空間的距離」は把握できるが、「空間的距離」を測るときはもっと別な「肉体」をつかったときの方が「適切/合理的」なときがある。「耳」が無意識のうちに他の「肉体(器官)」を刺戟する。この「肉体」への刺戟と一緒に「世界」がふいに拡大する。
ここに「論理」を超える無意識の「何か」を感じ、私は、どきっとしたのである。
詩を書かずにいられない広田の「肉体」を感じたのである。
この「肉体」のことを広田は「感性」と呼び変えている、言いなおしているように思える。
で、その「感性」ということばが出てきた瞬間に、「数える/比較する」が
その静寂に一番響く雨粒の音を探している。
「探している」にかわる。「一番響く」の「一番」は露骨に「比較」をあらわしているが、その「一番」の「一」は「数える」ものではなく、「数えない」ことである。「数える」かわりに、それと「同化する」が「一」である。「探している」とは、実は、その雨音に「なる」(同化する)ことである。
この「探す/同化する」(ひとつになる)は、次のように言いなおされる。
全てが
ほとんど同じであろう雨粒の音のなかで、この世の正と負との境界を厳密に突くよ
うな雨粒の音を、たった一つでも聴き分けることができればいい。
「一つになる」が「一つ」を「聴き分ける」、合体と分離という矛盾した動きが「肉体」のなかで結びつく。その「矛盾」を先取りする形で「正と負」という「論理的」なことばが動いている。
広田のことばには、「論理」と「論理ではないもの」が衝突しているのだが、私は、この衝突がおもしろいと感じている。ただし、それが「論理」から「抒情」へと変化してしまうときは、私の好みではなくなる。
いま引用した部分でも「正と負」はいいけれど、それに先立つ「この世の」が、どうも気持ちが悪い。
まあ、これは私の好みであって、そういう部分が好きという人もいるだろう。
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広田 修 | |
思潮社 |