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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鶴見俊輔『敗北力』(2)

2016-10-23 12:01:31 | 詩集
鶴見俊輔『敗北力』(2)(編集グループSURE、2016年10月19日発行)

 「敗北力」とは鶴見俊輔の造語である。こんなふうに定義している。

敗北力は、どういう条件を満たすときに自分が敗北するかの認識と、その敗北をどのように受けとめるかの気構えからなる。

 私には、鶴見は後半の「敗北をどのように受けとめるかの気構え」の方をより重視しているように感じられた。
 『敗北力』という本の感想を書くのだから、このことばについてもっと書かなければならないのだろうけれど、それは省略する。鶴見が「敗北力」ということばを見つけ出すまでの過程そのものが、私の「肉体」にはなっていない。鶴見の書いていることは「頭」では理解できるが、自分の「肉体」では「わからない」。つまり、私には「敗北力」というものが、まだ、ない。それが大切であるということは鶴見のことばを追いかけながら納得したが、それを実践できるとは思えない。
 私が利口ぶって「敗北力こそが大切である(人間の生きる力にとって必要である)」と言ってもそれは私自身の「実感」ではない。鶴見の「要点」はここに書かれている、といくつかの文章を抜き出すことはできるが、それは「借り物」である。それをやってしまうと、それを言ったのは鶴見なのに、まるで自分で考えたことと勘違いしてしまう。
 あ、こういうことは、どこかに書いてあったなあ。「大学についての私の定義は、「他人、特に欧米人の言ったことを、自分の考えたことと錯覚させる機械」。この機械はそれなりに有効であり、……」=104 ページ。rさに通じる。
 感想を書こうとすると、どうしてもこんな具合になってしまうのだが、なるべく、そういうところから離れて、私がほんとうに「わかる」ことば、このことばは「わかった」と言える部分を取り上げて感想を書きたい。「これならできる(かもしれない)」とほんとうに思う部分を取り上げ、感じたことを書いてみる。

 たとえば「呼び覚まされた記憶--「井上ひさし」という不在」の次の部分。

軍事上必要のない核爆弾を、第五福竜丸をふくめて三度落としたのだから、日米交渉のたびに、まずそのことについてのいやがらせを言って、会をはじめる。

 ここに書かれている「いやがらせ」。あ、これは、わかるなあ。「日本にはもう戦争をつづける力はなかったんですよ。わかっていたでしょ? それなのに広島に核爆弾を落とし、そのうえもう一種類の性能を確かめるために長崎にも。そんなことをして、それでも軍人なんですか?」というような「いやがらせ」。私の「要約」が正確に鶴見を「代弁」しているかどうかはわからないが、その「いやがらせ」ということばといっしょに、私の「肉体」のなかで、何か、ことばにならないものがむずむずと動く。
 いま書いたような「論理的(?)」な「いやがらせ」ではないけれど、私はひとに「いやがらせ」をしたことがあるし、また「これはいやがらせだなあ」と感じながら我慢したこともある。そういうものが思い出され、そうか、「いやがらせ」は身にこたえるぞ、などと思うのである。
 この「肉体感覚」(鶴見は「しぐさ/身振り」ということばで表現している)は、「敗北力」よりも、ぐっと身に迫ってくる。なんといっても、私はそれを「知っている」「覚えている」「やったことがある」。
 こういう「だれでもつかうことば」を「論理」のなかに持ち込んできて、それを「論理」の力にする。ここが、私は、とても好きだ。あ、鶴見俊輔にしか言えないなあ、と思う。

 「受け身の力」には、広島、長崎で二重被爆したひとのことばが引用されている。そして、鶴見の感想が書かれている。

 「もてあそばれたような気がするね」。
 この現実認識から、日本は戦後を始めるとよかった。

 鶴見は「もてあそばれている」ということばを「肉体」で感じ取った。それは被爆者が語ったことば。被爆体験そのものは、鶴見にはわからない。「肉体」で体験していない。だけれど「もてあそぶ」ということは、「わかる」。それを論理的なことばで言いなおすことはむずかしいが、あ、そうか、「もてあそぶ」とはこういうことなのか、と「思い出す」。それを「現実認識」と言っている。このときの「現実」とは日本とアメリカがどういう関係にあるとか、武力の相対的な関係はどうあるとかということではない。自分の「肉体」で受け止める、何か、どうしようもない「感覚」である。「現実認識」というよりも「肉体感覚」、肉体の奥にしみこんでくる何か。
 こうしたことばを見逃さず、それを自分の「論理」の核に持ち込んで、自分自身を作り替えていく力。これは、いいなあ、と思う。
 どこかから(欧米から?)入ってきた「新しいことば」ではなく、いつもだれもがつかっていることば。そのなかにある「論理にならない何か」を組み込みながら、自分を鍛えなおしていく。「読む」べきものは完成された「哲学書」ではない。「思想書」ではない。生きているひとの「声」を「聞く」べきなのだ。

 鶴見が、そういうふつうの人の「声」を聞く人だったからこそ、同じようにふつうの人の「声」を聞き、それを自分の思想の核にした人に共感を寄せている。「兵役拒否と日本人」の中で、憲法の起草に関わった幣原喜重郎のことを書いている。幣原は八月十五日に満員電車の中にいる。そして、こんな乗客の声を聞く。

「いったい、君はこうまで日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっともわからない。戦争は勝った勝ったで敵をひどくたたきつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らぬ間に戦争に引き込まれて、知らぬ間に降参する。自分は目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされたのである。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした当局の連中だ」
 初めはどなっていたのが、最後にはオイオイ泣きだした。そうすると、乗っていた群衆がそれに呼応して「そうだ! そうだ!」とわいわい騒ぐ。(略)
 (略)この人が、戦後組閣したとき考えたこと、また憲法草案について相談を受けたときに考えたことは、バンヤンでも、ミルトンでもなく、カント、ルソーでもなく、電車の中で聞いたこの男の声だという。
 そして、あの光景を思い出して「これは何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく、努めなくてはならぬ、と堅く決心したのだった。それで憲法のなかに未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならぬということは、ほかの人は知らぬが、私だけに関するかぎり前に述べた信念からであった」といっている。

 幣原を突き動かした男の「声」。
 私が特に強く反応してしまうのは「だまし討ちにする」という「動詞」である。「だまし討ちにする」ということばの「定義」はむずかしい。負けている戦争を勝っていると偽ることは「だまし討ちにする」というのとは違うかもしれないが、嘘をつかれた方は「だまし討ち」と感じる。「実感」が「だまし討ち」なのである。「知らぬ間に」が「だまし討ち」なのである。それは「目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされる」ようなものである。男は「だまし討ち」を、そういう具合に自分の知っている「現実感覚」で「定義」している。それは、人間は生きているのだからときには牛に目隠しをして場につれていかなければならないようなこともある、と知っているからこそ出てくることばである。自分は牛にされたという怒りでもある。「だまし討ち」ということばには、男の「思想」そのものがある。
 幣原は、それを違うことばでととのえなおして「戦争の放棄」という「思想/理念」に高めた。「だまし討ちにされた」という怒りと「戦争の放棄」を結びつけて説明することはむずかしいが、そのむずかしさのなかにこそ「思想」というものがある。生きている「肉体」がある。「肉体(いのち)」そのものが引き継がれている。
 鶴見は、幣原の「体験」を引用することで、鶴見自身を、幣原の見た男、幣原の聞いた声につなげようとしている。その声を引き継ごうとしている。ひとりの男の「体験」を自分の「肉体」で引き受けようとしている。
 こういうところから、出発しないといけないのだ。
 いま、国会でTPP問題が審議されている。自民党は「TPP絶対反対」と言っていた。それがいまは「賛成/条約批准」という動きをしている。これなども「だまし討ち」である。どんな「理屈」をこねても「だまし討ち」である。「だまし討ちは許せない」というところから、「反対」の思想をつくりあげなければならない。それがTPPか、日本の経済発展に不可欠であるかということとは関係ないのだ。論理にならない「しぐさ/身振り/ばくぜんとした気持ち」を組み入れながら、それを「行動できる」ものとして「ことば」にしないといけないのだ。
 これは、とてもむずかしい。誰もが幣原のように日常の声を「思想のことば」にまで高めることはできるわけではない。鶴見は、懸命に、そうしたことをしようとした人間に思える。さまざまな人間の生き方を取り上げ、何を教えられたか(何を学んだか)を、丁寧に描いている。そのことに感動し、私は本のあちこちに傍線を引き、書き込みを、付箋をつけた。とても、整理しきれない。特に「兵役拒否と日本人」は傍線だらけになってしまった。
 だから、感想を整理するかわりに、こう書いておく。この本で私は「いやがらせ(いやがらせで自己主張する)」と「だまし討ちにする(だまし討ちは許せない)」ということばと出会いなおした。こういう自分の知っていることば、意味を正確に言おうとするとむずかしいけれど「肉体」が覚えていることば、「感情」が覚えていることばこそを「思想の根拠」にしないといけないのだと思った。



 この本は一般書店では購入できない。編集グループSUREからの直接購入しか方法がない。http://www.groupsure.net/ に詳細が書かれているので、アクセスしてみてください。定価2200円+税+送料=2591円かかります。郵便で振込後の発送なので、手元に届くまでに1週間から10日ほどかかります。


日本人は何を捨ててきたのか: 思想家・鶴見俊輔の肉声 (ちくま学芸文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房
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