詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外31(情報の読み方)

2016-10-10 22:04:46 | 自民党憲法改正草案を読む
「共同通信」47(2016/10/10 03:01配信)(http://this.kiji.is/157911021960381949?c=39546741839462401)が次のような記事を配信している。

退位後の新たな「身位」明記へ 時期定める案も浮上、政府

 政府は、天皇陛下の生前退位を巡る法整備で、退位後の陛下の呼称を法案に明記する方向で検討に入った。政府関係者が9 日、明らかにした。退位後も皇族として新たな「身位(身分・地位)」を位置付ける。政府は今の陛下一代に限った特別法を軸に調整する構え。対象が限定されることを明確にするため、退位時期を条文に盛り込む案も浮上している。
 退位後の具体的な呼称は、17日に初会合を予定する有識者会議の今後の議論を踏まえ検討する。

 2016年10月08日読売新聞夕刊(西部版・4版)の「KODOMOサタデー」の記事、

 生前退位をめぐっては、「天皇の考えで自由に退位できると、混乱が起きるのでは」といった意見もあります。国民の意見を聴きながら、しっかりと議論をつくすことが大切です。

 という部分、「天皇の自由」ということばから、「天皇を自由にはさせない」という意思を読み取り、私は、

 「退位」は「譲位」という形をとらず、「天皇」を残したまま「摂政」という形になるかもしれない。天皇が生きている限り、「天皇」という「皇位」をそのままにして、つまり「天皇」をお飾りにして、「天皇の代理である摂政」を置き、その「摂政」を支配する。そういう一連の「動き」を「自由」に操作、支配したいのだろう。

 と「妄想(推測)」したのだが、なるほど、新しい「身位」(こんなことばがあるとは知らなかった)をつくり天皇を封じ込める。そうして「新しい天皇」への「進言」を強化するということか。
 それが狙いか。
 天皇の「生前退位意向」が籾井NHKによってスクープされたとき、私はとても奇異に感じた。その後、これは天皇の安倍への抵抗、憲法改正への抵抗だという説が流れたときも信じることができなかった。もし、憲法改正への歯止めというのなら、実際に憲法改正の議論が正式に始まってからの方が効果的だろう。衝撃が大きいだろう。そうではなくて、逆に憲法改正の議論が始まった、いや終盤に差しかかったというときに「生前退位の意向」を表明した方が「阻止する力」として大きいだろう。まず天皇の問題を解決しなくてはならないという具合に世論が反応すると、憲法論議などしていられない。そうならないように、先に天皇をどう封じ込めるか、それを考えているのだと思う。
 「摂政」の設置を内閣が働きかけていたということは、すでに見てきた。それを天皇が拒んだということも報道されている。「摂政」が無理なら、天皇を別な「身位」に封じ込める。もちろん「特別法」で「政治的発言を禁じる」という項目はつける。そのうえで「新しい天皇」に対して「影響力を強める」ということだろう。「進言」にしたがわないなら、また「特別法」をつくって別な「身位」に追いやるぞ、ということだろう。
 安倍が皇室典範の改正ではなく「特別法」にこだわるのは、「特別法」なら何度でも制定できるからである。安倍のつごうにあわせて、そのときそのときつくればいい。ところが皇室典範を改正してしまうと、「皇位継承」が、その法律にしばられてしまう。それを避けたいのである。「影響力」を行使できるような「制度」にしたいのである。
 なぜ、安倍は、天皇を封じ込めたいのか。
 天皇が戦争の体験者だからである。天皇自身が戦場に行ったわけではないが、皇太子時代に戦争を体験している。戦争が国民にどのような影響を与えるかを実感している。戦争を体験した人間は、戦争をしたくない。その「実感」を語られては困るのだ。戦争を体験してきた世代が憲法、特に第九条にこだわり、それを守る力になってきたといえる。(戦争の体験者が政治家からも次々に姿を消し、それにしたがって経験勢力が増えている。)戦争を体験していない人間は、戦争を体験してきた人に対して、その体験は間違っているとは言えない。言う資格がない。そういう状況に追い込まれないようにするために、天皇を封じようとしているである。

 気になっていたニュースがある。時間がなくて書けなかったのだが、2016年10月01日の毎日新聞夕刊(西部版・ 4版)一面に、「有識者会議 17日/生前退位/初会合、首相も出席へ」という見出しがある。内容は見出しの通り。有識者会議が17日に開かれる。その初会合には安倍も出席する。有識者会議に首相が出席することは通常のことなのかどうか知らないが、わざわざ見出しで取っているのだから、普通ではなく特別なことなのかもしれない。出席すれば、どうしても首相の「意向」を忖度した議論になる。そういうことがあるから首相は出席せず、「有識者会議」の「中立」を守るというのが慣例なのかもしれない。けれど、今回は、そうはしない。安倍が出席する。
 これはどうしたって、安倍が有識者会議の議論の方向を「指示する」ということだろう。退位後、天皇に新たな「身位」を与えるということろまで、すでに安倍の方では決めている。それに合わせて(アリバイづくりのため)、「有識者会議」が開かれるということだろう。
 毎日新聞によると、「会議では今後、憲法、歴史、皇室典範などの有識者を呼びヒアリングを行う」とある。まだ開かれていないはずの会議で「今後」というのは奇妙な表現だが、水面下ではすでにいろいろな議論がされているということだろう。その議論(結論)にあわせて、憲法、歴史、皇室典範などの有識者を呼び、ヒアリングをした(広く意見を聞いた)というアリバイ工作をするということだろう。
 17日以降、どういう報道がされるか注目しなければならない。



*

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ドゥルス・グリューンバイン『詩と記憶』(思潮社、2016年08月25日発行)

2016-10-10 12:00:11 | 詩集
ドゥルス・グリューンバイン『詩と記憶』(縄田雄二編訳、磯崎康太郎・安川晴基訳)(思潮社、2016年08月25日発行)

 ドゥルス・グリューンバイン『詩と記憶』は「詩文集」。エッセイ(評論?)と詩がある。
 「原体験--ポンペイ」(『最初の年--ベルリンの手記』より)は詩のように美しい。その美しい部分は、ちょっと目をつぶって、私が傍線を引いたのは次のことば。

ポンペイの没落と復活から何を学べるのか。少なくとも以下のことだ。お前たちの望むようにせよ。悲しみ、騙し合い、貪り、売春し、研究し、ギャンブルし、商売し、祈り、陰謀を企てよ。だが、どうか残すのだ。語られるに値するだけの歴史は。

 ここに書かれている「歴史」は、いわゆる英雄が何年にどこで何をしたかではない。「悲しみ、騙し合い、貪り、売春し、研究し、ギャンブルし、商売し、祈り、陰謀を企て」ることの全てが「歴史」である。それが「記録」されたときに「歴史」になる。言い換えると、

語られるに値するだけの「記録」

 を残せ、と言っているのである。「記録」は「絵」であったり「ことば」だったり、あるいは「売春宿」だったりする。それを、ひとがもう一度見つめなおすとき、そこから「詩」が動き出すのだ。
 詩とは、ようするに、「記録/記憶」の掘り起こしのことである。

 このことを、「記憶の詩学」(わがバベルの脳)で、次のように言いなおしている。

 抒情詩のテキストは、内なるまなざしの記録である。
 その記録の方法を規定するのは、身体である。(略)詩は、生理的に生じた短絡的発送が継起するなかで、思考というものを実演するからである。つねに(自らの身体の、人類の身体、すなわち歴史の)時代をめぐる旅の途上にありつつ、思考は詩のなかで停留を、軽薄な語り、浅ましい見解のなかでの宿りを、人生が目指すところの記号と形象の舞台を、見いだすのだ。

 私は「身体」ということばをつかわないので、「肉体」と思って読み直すのだが。
 ここに書かれていることを私なりに言いなおせば、こういうことになる。つまり、あることば(記録)に触れる。そうすると、「肉体」が反応する。売春宿の「記録」を読めば、男なら勃起したり、むらむらしたりする。手淫をしてしまうかもしれない。それは、それを「記録」したものの「思想(あらゆる行動は思想である)」を自分で「実演」しなおすことである。それはそして単にその「記録」を残した人の「思想/肉体」を「実演」しなおすことではなく、「人類」、つまり「歴史」を「実演」しなおすことである。
 「内なるまなざし」とは「肉体」のなかに引き継がれている人間の、本能/欲望の遺伝子のことである。
 このとき、真に「実演」するに値するものは、いま、日常的に「世間」に流通しているものではなく、忘れられたものの方である。あ、そういうものがあった、と思い出させてくれる。そういう「肉体」の動かし方があった、そのとき考えはこんなふうに動く、感情はこう動くのかということが「実演」するのと同時に起きる。自分の「肉体」のなかに生き続けている人間の「本能/欲望」のようなものが、もう一度生まれてくる。言い換えると、「歴史」が「いま/ここ」に「肉体」を突き破って生まれてくる。人間は、そのとき「生まれ変わる」。「本能/欲望」として。
 「売春宿」を例にとると、それは「浅ましい欲望/浅ましい見解」ということになるかもしれないが、こういう言い方は「客観的」すぎて「真実」からは遠い。「肉体」にとって、いま、生きていることが重要であって、生きているとき「浅ましい」というような批評はばかげた「ひがみ」にしかすぎない。
 ひとはただ予測不能を生きるだけなのだ。予測不能だけれど、それは「歴史」(記憶/記録)と通じており、その「記憶(歴史)」を自分自身の「肉体」で突き破る(実演する)とき、時間が動き出し、人間は新しく「生まれる」ということだろう。

 これは、まったくその通りだと思う。私も、いつもそう感じている。というか、私がいつも感じていることへと、ドゥルス・グリューンバインのことばを引っぱってきて、「誤読」しているだけなのだが。

 さて。

 「エッセイ」に共感したが、詩はどうか。
 ちょっと困った。ドゥルス・グリューンバインが「身体」と呼んでいたものになかなか出合えない。「歴史」がなかなか「身体(肉体)」と結びつかない。
 たとえば「セネカに宛てて--P.S.」。

あんなにも雄弁であったお前の魂のうちに遺ったのは上々のラテン語のみ。
お前の肉は魔法をかけたかのように消えた。しかし文字は明かす。
そうとお前は初めから分かっていた。文章こそはお前の墓表。

 「肉」が出てくる。「消える」が出てくる。これは「実演」できない。他人の「実演」を見るばかりである。つまり「頭」で「実演」するのである。「分かっていた」ということばもあるが、これも「肉体」で「実演」するのではなく「頭」で「実演/演習?」するもの。妙に「頭」が前に出てきてしまっている。
 これはエッセイに書いていることと違うんじゃないだろうか。

人神の間のおぞましきことどもを戯曲に仕立てて
並ぶ者の無かったお前よ。われらあわれな罪びとに告げよ。
静穏であれば滅びずに済むかを。
静かでいれば静かに朽ちるのみではあるまいか。

 ここでも「肉体」があいまいである。直前に「胃も痛まず」というようなことばがあるが、そんなふうに「肉体」を刺戟してこない。これでは「セネカの記録/記憶」を「実演」できない。

人の心臓を見たことがあるか。
血をはらみ拍動する塊--底なしの樽を。
これぞ皮下で闘い合う神経。
脈打つ所では思考は美しき夢に過ぎぬ。

 そうか、「思考」か、と思うのである。ドゥルス・グリューンバインは「肉体」ではなく「身体」ということばをつかっていたが(訳文だが)、「身体」というとき、そこには「思考」が常に対峙しているのか。「身体」は「血をはらみ拍動する」。「思考」は血とは無縁の形で「夢」をみる。いいかえると「身体」から離れる。「身体」から離れて生きる。そして、生き延びる。「ことば」となって。
 でも、こういう考え方だと「身体」というのは「思考/ことば」を引き立てるためのバックグラウンドになってしまう。それでいいのかな?
 ちょっとよくわからない。
 わからないけれど、つぎの三行はとても好きだ。

早すぎた瀉血。爾来お前の著作にはネロの名が粘着している。
焼け焦げのように、アスファルトの如くに。
憾むべし、思想より伝説の方がはるかにねばるのだ。

 「粘着している」「ねばる」。その動詞が「血」だけではなく、「焼け焦げ」た「アスファルト」というもので「実演」されている。それは「もの(アスファルト)」が単に「実演」しているのではなく、固まっていないアスファルトに触れたことのあるドゥルス・グリューンバインの「肉体」が「ねばる/粘着する」を「実演」し、「実感」している。「ねばる/粘着する」が「思考」ではなく、「肉体」そのものになって動いている。
 こういう行をもっと読みたいなあ、と思った。

詩と記憶 ドゥルス・グリューンバイン詩文集
ドゥルス・グリューンバイン
思潮社
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