斎藤恵美子『空閑風景』(思潮社、2016年10月15日発行)
斎藤恵美子『空閑風景』を読みながら、困ってしまった。ことばが「肉体」に入ってこない。なぜだろう。「ことばの過去」というものについて考えた。「ことば」にはそれぞれ「過去」がある。どんなふうにつかってきたか、という過去。繰り返し方。それが、たぶん私と斎藤では違いすぎで「ことばの肉体」が重ならないのである。
「肉体」ということばをつかったので、「肉体」を例に、ちょっと違うことを書いてみる。芝居を見る。役者が出てくる。その瞬間に「わかる」ことがある。「おもしろそう」「つまらなさそう」。「おもしろそう」と感じるのは、私の「肉体」を刺戟してくるものがあるからだ。その役者が体験してきたことが「肉体」に出ている。これを「存在感」という。存在感を感じるのは、その役者が無意識にあらわしている「体験」が「肉体」のなかに出ているということである。それを私は無意識に感じる。共通のものがある。と、同時に、その共通を「否定する」何かもある。それは、一瞬にして感じるものである。具体的な説明は、そのときは、できない。見終わったあとで、「屁理屈」で説明を付け加えるだけである。これを「批評」と呼んだりする。
で、斎藤のことばにもどる。斎藤のことばを読みながら、私は「過去」を感じることができなかった。言いなおすと、「斎藤のことばの過去」と「私のことばの過去」が完全に断絶していると感じてしまったのである。
夜の指は
地上の無数のエレメントを数えるために存在する (「不眠と鉄塔」)
モノローグに入り込んで、戻ってこない君の声を、声の背後をゆれる
文字を、どの視線でひもとこう。 (「コンケラー・レイド」)
「エレメント」「モノローグ」というカタカナことばを私は聞かない。本のなかでしか読んだことがない。私は自分の声にしたことがない。だから、「音」が聞こえてこない。これが、私には、何かとてもつらい。そして、耳には届かない何か、私の「肉体」では反芻できない何かが、私とは離れたところで、私を拒絶して、わけのわからないまま、そこにある、という感じ。
うーん、困ったぞ。
抽象的な青のなかに、具体的な青が揺らぎ、気配が
水中で反転し、その波跡に、在ることを許される (「蒸溜癖」)
「抽象的な青」と「具体的な青」の「違い」が、わからない。どちらも「抽象的」。というよりも存在しない。まるで、9999角形と10000角形の違いのよう。ことばでは「違い」としてあらわすことができるが、それを私は紙の上に書くことができない。四角形と五角形、六角形の違いなら、書くことができる。つまり、目でも手でもつかみ取ることができる。そんな「ことばの違い」でしかないものを「気配」と言われても、「頭」がいたくなるだけ。「水中の反転」なら、その「波跡」というのも「水中」だろうけれど、その「反転」や「(波)跡」に「抽象的な青」「具体的な青」が「在る」と言われても「ことば」として「ある」だけ。つまり「ことば」があるだけ、という感じで困ってしまう。
これは、「頭のいい人」向けの詩集なんだなあ、とほとんどあきらめながら読むしかなくなる。
ピスタチオの殻の闇へも粉雪の降る三月の (「蒸溜癖」)
というのは美しい一行だなあ、と思いながらも、それに酔ってしまうことができない。「雪」ではなく「粉雪」と「雪」の音節を増やしたことろが「ピスタチオ」の音の多さと響きあって、とてもいいけれど。
複数の行にわたる部分では、
たったひとつの符牒のために
塗りつぶされた生涯を、記す日記が、部屋のどこかで
まぶしい晩年を生きなおし、二人で記憶に耽っていると
背後の、それぞれの断崖を、ひっそりと
わたしの正午を、追いつめてゆく日付がある (「符牒)
「日記」は「あなた」の日記。それを読んでいるのは「わたし」ひとりなのだが、読むことで「ふたり」になり、その「ふたり」が重なる。重なりながらも、どこかで「違い」を見つけ出す。重なるからこそ、違いがわかるといえばいいのか。
先に書いた役者の例で言えば、あっ、この人はこうなんだと、「肉体」そのものとして目の前にあらわれてくるといえばいいのかな。
文脈が「ごつごつ」しているが、その「ごつごつ」の感じが、それぞれの「肉体」の発見そのもののようで、とてもおもしろいとも思う。
「静かな使者」の前半も、私には、とても気持ちがいい。「漢語」さえ、あっ、このことば知っていると、「耳」も「舌」もはしゃぐ。
みぞれの音階を弾くような、仄暗い土地の名も
痩せ地を割って流れる川の
名前も、水鳥が攫っていった
橋を、吐息から渡りきり
それゆえの裂傷を、疼くゆび
翳せば、暦を捲くったはずの、右手が今朝は、月よりも遠い
捩じれた雨や、枯れ草の色
山側にだけ、こぼれる花
特に「山側にだけ、こぼれる花」がいいなあ、と思う。芭蕉の俳句にでも出てきそうなことばの動き、ことばの「過去」を感じる。この「ことばの過去」を、私も「肉体」で知っているという安心感と、あ、そうか、あれはこういうふうに言えばよかったのか、と「過去」を思い出すよろこび。
「空閑風景」は詩集のタイトルになっている作品。たぶん、いちばん力をかけて書いたのだと思うが、私はこういう世界を「画像と化した」(98ページ)風景でしか知らない。斎藤は「画像」ではなく、斎藤自身の「肉体」で見たのかどうかわからないが、私には斎藤の「肉体」がつかみとってきた「事実」というものが感じられなかった。これは、私にそういう経験がないから、そう見えるだけのことなのかもしれないが。
「世界」を知っている「頭のいい人」の批評にまかせるべき詩集かもしれない。
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