詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外33(情報の読み方)

2016-10-17 16:39:55 | 自民党憲法改正草案を読む
TPPの安倍答弁の嘘
     自民党憲法改正草案を読む/番外33(情報の読み方)

 TPPをめぐる審議が衆院特別委で始まった。2016年10月17日読売新聞夕刊(西部版・4版)一面に、次のくだりがある。


政府がTPPの交渉記録を黒塗りで公開したことを民進党などが批判していることに関し、首相は「合意内容は情報を全て提供している。それを議論せず、開示できない交渉途中の経過が黒塗りだからおかしいというのは、中身をしっかり議論しないための議論としか言えない」と批判した。

もっともらしく聞こえるが、問題点がいくつかある。
(1)合意文書の文言に込められた「意味」を正確に把握するためには、日本語に対応する外国語(英語、フランス語など)の文書とつきあわせる必要がある。「訳文」は、それぞれの国内事情に配慮したものになるのが、外国との「交渉文章」というものである。
 (2)「訳文」の文言にこめた「意味」は、外国語との対比だけでは不十分。交渉経過を知ることで、なぜあることばをそう「翻訳」したのかがわかる。交渉経過は、いわば「注釈」である。その「注釈」を「政府」が独占するのは、「嘘」を信じろというに等しい。
 (3)安倍の「開示できない」は、他国との信義の問題よりも、「注釈」を公開すると、「嘘」がばれるからだろう。
 それが証拠には、読売新聞には次の文章がある。

 外務省が作成したTPP協定文書の日本語訳などに18か所の不備があったことについて、民進党の近藤洋介氏は「非常に見逃せない大きな問題だ。(承認案・関連法案を)出し直すのが本来の姿だ」と追及した。首相は「大変申し訳ない」と謝罪したうえで、「今後とも審議を続けさせていただきたい」と述べ、承認案・関連法案を提出し直すことは拒否した。

すでに「18か所の不備」があったことが明らかになっている。交渉経過と照らし合わせれば、さらに「誤訳」や「不備」が見つかるかもしれない。それを点検するためには「交渉過程」の「記録」が必要だ。
 「合意内容」だけでは、わからない重大な問題が隠されている可能性がある。
政治は「ことば」である。それを忘れてはならない。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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高貝弘也「紙背の子」

2016-10-17 08:28:30 | 詩(雑誌・同人誌)
高貝弘也「紙背の子」(「午前」10、2016年10月15日発行)

 高貝弘也は、私の感覚では「名詞」の多い詩。あるいは「動詞」が省略されている詩、ということになる。「紙背の子」。原文は「ルビ」があるのだが、引用では省略。(行間も複雑に配慮されているのだが、正確に引用できそうにないので、複数行を引用するときは一行空きで引用する。)

--とてもちいさい草の泡だちが、遠い汐のように…

 この書き出しの一行。「遠い汐のように…」と「動詞」は「…」で書かれている。補うならなんだろう。「引いて行く」と、すぐに思い浮かぶ。潮は引くだけではなく満ちるという「動詞」も可能だが、「ちいさい」「泡だち」「遠い」が「満ちる」よりも「引く」に通じると思う。「しお」をサンズイに「朝」ではなく「夕」と書いていることも、そう感じさせる。「朝」なら光が満ちてくる。「夕」なら消えていく。いままでに読んだ「文学/ことばの伝統」が影響して、そう読んでしまうのである。
 高貝のことばは、こういう「無意識」に呼びかけてくる。高貝のことばは「文学の肉体」を持っている、ということができると思う。
 「名詞」と「動詞」の関係だけではない。

肌理こまやかな 腿

熟れすぎた にがい果肉は、

水陽炎 白壁の背ろへ

 「肌理こまやかな」のあとには「脛(すね)」ということばは絶対にこないだろう。
 女の肉体、それもなんとなくセックス(欲情)を誘うことばを呼び寄せる。そして「腿」が呼び寄せられれば、どうしたって「桃」へと連想が広がる。熟れ過ぎて苦くなる果肉は桃とはかぎらないが、前の「肌理こまやかな 腿」は「桃」を、さらには「腿につながる女の肉体/尻」なども呼び寄せる。さらに「肌理こまやかな」は「白壁」の「白」へ、(白壁自体も泥壁に比べるときめがこまかい)、「腿/桃/尻」は「背」へと視点を自然にずらしていく。
 「形容動詞」「名詞」が自然につながっていく。その「自然」のなかに「文学の肉体」がある。
 で、この一連の「名詞」とつながる「動詞」は何か。まだ書かれていない。ここまで読んできて「動詞」をむりやり探せば「熟れすぎた」の「熟れる」と「過ぎる」であるが、それは「果肉」を修飾することばとして働いていて、「述語」としての「動詞」はまだ出てきていない。書かれていない。
 書かれていないけれど、何となく一行目で想像した「引いていく」ということばに近いものを感じる。欲情は満ちてくるものだが、この詩の場合、詩はひそやかに隠れて動いているので、強く前面には出てこない。どこか「抑制されている/引いている」感じである。そこへ「背へ」だから、なおのこと「隠れる」ということばも思い浮かぶ。
 そういう「連想」を次の行が開く。

(逃げていく、緯糸としての)

 この一行は「緯糸として逃げていく」という文の「倒置法的」一行として読むことができる。括弧のなかに入っているのだから、それまでのことばとは関係がないもののようにも思える。しかし「逃げていく」という「動詞」が「白壁の背ろへ」と強い力で結びついている。
 そうか、「隠れる」ではなく「逃げていく」か。そして「逃げていく」なら「汐」の「引いていく」も「逃げていく」と言いなおすことができるなあと感じる。
 このとき、私は、自分の中の「文学のことば/文学の肉体/ことばの呼吸」がととのえられていくのを感じる。「汐が引いていく」ではなく「汐が逃げていく」とつなげると、「叙述」が突然「詩的」にかわる。普通の口語ではつかわない「言い回し」が、ふっと出てきて、しかも落ち着く。
 この感じは、きのう読んだカニエ・ナハの「馬引く男」にはなかったものだ。
 高貝のことばには「具体的」な「動詞」、「名詞」としっかり結びついた「述語」としての「動詞」がないにもかかわらず、「動詞」が「肉体」に迫ってくる。「文学の肉体」なのだが、どこかで「生身の肉体」にも重なるものがある。たぶん汐が引くのを見たことがある、だれかが壁の背後に逃げて隠れるのをみたことがある、あるいは自分自身が隠れたことがある、ということが影響しているのだと思う。「いま/ここ」から違う場へ動いていく。その運動を描写する「動詞」として「逃げる」ということばがある、ということを「文学の肉体」としてだけではなく「自分自身の肉体」としても確認する。そういう「言い方」で「肉体」をとらえ直すことができると気づく。
 この「気づき」のなかに「詩」があるのだろう。発見があるのだろう。あ、これを知っていると思い出すときの、静かな感動がある。

ふいに 一滴の、かげ

--ああ 三角座りの、あの子よ

 この「ふい」の転調。しかし、転調といいながらも、「一滴」のなかには「水陽炎」の「水」があり、呼応している。「かげ」のなかには「逃げていく/逃げていった」ものの「おもかげ」がある。消えることによって、逆に、ふっとそこに存在していたものとして「かげ(実像ではない)」ものが見える印象。
 「三角座りの、あの子」からは「腿」がのぞいてみる。「あの子」、たぶん幼い少女。幼いから「熟れすぎた」肉体ではないのだが、それを見ている詩人は「熟れすぎた」おんなを知っているから、幼い少女のまぶしい肌からも、逆の幻として「熟れてゆく」ものを見るのである。
 時間が、一瞬にして、交錯する。その「目眩」のような、瞬間。その「瞬間」を「逃げていく」ものがある。実際の「時間」の流れを「縦糸」とすれば、それは「緯糸」か。
 詩はつづいている。

節ぶしに ほそい微光が、

(そのそばで、しろい苞がほぐれて)

悲しげな口もとの ピロピロ笛はもう…

 「ほそい微光」「ほそい」と「微」の二重形容。少女の腿(桃/尻)の幻の輝きが一瞬だったことを強調する「二重形容」といえるだろう。
 「逃げていく」は「ほぐれる」ということばのなかにつながっていく。「集まっていたもの」が「散るように逃げていく」。「集まり」が「ほぐれる」。それは集まり(充実していたもの/たとえばしっかり実っていた桃の果肉)が「ほぐれ」うしなわれてしまうことでもある。
 「ピロピロ笛はもう…」と、最後の「動詞」はやはり省略されている。しかし、ここには「失われた」という「動詞」が自然に入るような気がする。「消えた」かもしれない。「失う」と「消える」は同じ。「遠く去る(遠く逃げる/遠く引いていく」汐ということばにもつながる。

 高貝の詩を、私はいつも、こんなふうに「文学の肉体/ことばの肉体」をととのえなおしてくれるものとして読んでいる。






露光 (Le livre de luciole)
高貝弘也
書肆山田
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