監督 ミック・ジャクソン 出演 レイチェル・ワイズ、トム・ウィルキンソン、ティモシー・スポール
ホロコーストはあったのかなかったのか、法廷で争う。ホロコースト否定論者を批判したことが「名誉棄損」にあたるという。なんだか、「論理」がよくわからない。それをさらに複雑にしているのがイギリスの裁判制度。イギリスでは、訴えられた方が「無罪の立証責任」を追う。ホロコーストがあったということ(歴史的に誰もが知っていること)を立証しなければならない。
なんだ、これは。
この過程で、まあ、イギリスらしいというか、さすがに「ことば、ことば、ことば」(ハムレット)の国だけあって、ほんとうに「ことば、ことば、ことば」(論理、論理、論理)の展開なのである。
イギリス人はめんどうくさい、と思う半面、何がなんでも「ことば」で決着をつけようとするところが、うーん、すごい、とも思う。
実は。
この映画を見る前に、松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」という映画の撮影があり(我が家で、私が松井監督からインタビューされた)、私の思っていることを語ったのだが、「語る」のはとても難しい。
書くときは、書くスピードがことばを抑制する。文字をみながらことばを反芻する。でも、語るときは反芻できない。書きながら考えることができる。私は早口のせいもあるが、話しながら考えることができない。
「ことば」が「論理」にならない。
「声(ことば)」に考えを託し、「論理」でひとを説得するのは、かなり訓練がいるぞと思ったばかりなので、法廷の「攻防」に、何とも言えないものを感じた。
感情のままに語るのではなく、時には感情を否定して、「論理」にする。「論理」になったものだけが「事実」としてひとに共有される。こういうことをイギリス人は日常的ではないかもしれないが、常に訓練しているのだと思い、びっくりした。
「ことば」として「共有」されないものは存在しない。それがイギリス人の「肉体」になっている。「思想」になってしみついている。イギリス人のひとりひとりがシェークスピアなのだ。
イギリスの法廷に引っ張りだされるレイチェル・ワイズが「感情型」のアメリカ人(ユダヤ人)なので、「ことば」と「論理」と「事実」のつかみ方が違っていて、それがさらにイギリス特有の「ことば」感覚を浮き彫りにしていて、ストーリーの展開よりも、はるかにスリリングなのである。
それにしても。
今回の映画に限らず、最近はヒトラーに関係する映画が多い。ネオナチなど、「極右」の動きがヨーロッパで活発になっていることが影響しているのかもしれない。このままではヒトラーが生まれてくる。そういう不安が、ヒトラーがどういう人間だったのか、ヒトラーと人々はどう闘ってきたのか、その目的はなんだったのかということを問い直そうとしているのかもしれない。
日本には「戦争映画」が皆無というわけではないが、戦争への「反省」を踏まえての映画、日本人は戦争とどう向き合ってきたか、「抵抗」を描いたものが少ないと思う。「権力」とどう闘ってきたか、という「歴史」を継承する作品が少ないと思う。
こういう「反省」のなさも、安倍の「独裁」を暴走させているかもしれない。日本人は権力に「抵抗する」という訓練ができていないのかもしれない。「権力」の思いを「忖度」する訓練ばかりしているのかもしれない。
話はごちゃごちゃになるが。
「不思議のクニの憲法2018」は2月3日から上映される。機会があれば、ぜひ、映画を見て憲法について考えてみてください。
安倍の狙いとおりに改憲されると、国民は戦場に駆り立てられ、そこで死に、「御霊」と呼ばれることになる。
(KBCシネマ1、2018年01月07日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ホロコーストはあったのかなかったのか、法廷で争う。ホロコースト否定論者を批判したことが「名誉棄損」にあたるという。なんだか、「論理」がよくわからない。それをさらに複雑にしているのがイギリスの裁判制度。イギリスでは、訴えられた方が「無罪の立証責任」を追う。ホロコーストがあったということ(歴史的に誰もが知っていること)を立証しなければならない。
なんだ、これは。
この過程で、まあ、イギリスらしいというか、さすがに「ことば、ことば、ことば」(ハムレット)の国だけあって、ほんとうに「ことば、ことば、ことば」(論理、論理、論理)の展開なのである。
イギリス人はめんどうくさい、と思う半面、何がなんでも「ことば」で決着をつけようとするところが、うーん、すごい、とも思う。
実は。
この映画を見る前に、松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」という映画の撮影があり(我が家で、私が松井監督からインタビューされた)、私の思っていることを語ったのだが、「語る」のはとても難しい。
書くときは、書くスピードがことばを抑制する。文字をみながらことばを反芻する。でも、語るときは反芻できない。書きながら考えることができる。私は早口のせいもあるが、話しながら考えることができない。
「ことば」が「論理」にならない。
「声(ことば)」に考えを託し、「論理」でひとを説得するのは、かなり訓練がいるぞと思ったばかりなので、法廷の「攻防」に、何とも言えないものを感じた。
感情のままに語るのではなく、時には感情を否定して、「論理」にする。「論理」になったものだけが「事実」としてひとに共有される。こういうことをイギリス人は日常的ではないかもしれないが、常に訓練しているのだと思い、びっくりした。
「ことば」として「共有」されないものは存在しない。それがイギリス人の「肉体」になっている。「思想」になってしみついている。イギリス人のひとりひとりがシェークスピアなのだ。
イギリスの法廷に引っ張りだされるレイチェル・ワイズが「感情型」のアメリカ人(ユダヤ人)なので、「ことば」と「論理」と「事実」のつかみ方が違っていて、それがさらにイギリス特有の「ことば」感覚を浮き彫りにしていて、ストーリーの展開よりも、はるかにスリリングなのである。
それにしても。
今回の映画に限らず、最近はヒトラーに関係する映画が多い。ネオナチなど、「極右」の動きがヨーロッパで活発になっていることが影響しているのかもしれない。このままではヒトラーが生まれてくる。そういう不安が、ヒトラーがどういう人間だったのか、ヒトラーと人々はどう闘ってきたのか、その目的はなんだったのかということを問い直そうとしているのかもしれない。
日本には「戦争映画」が皆無というわけではないが、戦争への「反省」を踏まえての映画、日本人は戦争とどう向き合ってきたか、「抵抗」を描いたものが少ないと思う。「権力」とどう闘ってきたか、という「歴史」を継承する作品が少ないと思う。
こういう「反省」のなさも、安倍の「独裁」を暴走させているかもしれない。日本人は権力に「抵抗する」という訓練ができていないのかもしれない。「権力」の思いを「忖度」する訓練ばかりしているのかもしれない。
話はごちゃごちゃになるが。
「不思議のクニの憲法2018」は2月3日から上映される。機会があれば、ぜひ、映画を見て憲法について考えてみてください。
安倍の狙いとおりに改憲されると、国民は戦場に駆り立てられ、そこで死に、「御霊」と呼ばれることになる。
(KBCシネマ1、2018年01月07日)
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「映画館に行こう」にご参加下さい。
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