2018年01月26日(金曜日)
柄谷行人『意味という病』(講談社文芸文庫、2018年01月10日発行)
柄谷行人『意味という病』の批評がフェスブックに載っていた。全然わからない、というのである。たしかにわからないのだが、同時に私は噴き出してしまった。「わからない」という感想にではなく、柄谷の文章に対してである。
取り上げられていたのは、次の部分である。(括弧と番号は、あとで感想を書くために、私が便宜上つけたもの。本文にはない。)
(1)は、シェークスピア『ハムレット』の第三幕、第二場「城内の広間」の台詞である。この部分では、あたりまえかもしれないが、私は噴き出さなかった。シェークスピアのことばが引用されているだけなのだから。
(2)で、私は、あれっと思った。柄谷は「心を虚しくして自然を視る」と書いているが、「自然」って何? 山や川や空? 「心を虚しくして」というのは、どういう意味だろう。
柄谷が引用している訳と、私の持っている小田島雄志の訳は少し違っているが、「自然」ということばの説明のために必要になので、つづく部分を引用してみる。
「自然」は、山や川や空のことではない。風景のことではない。「自然さ」と訳した方がわかりやすい。あるいは「本性」か。原文は知らないが「ナチュラル」ではないのか。柄谷が引用していることばで言いなおせば、それは「本質」である。
ときどき、それは「度」というようなことばでも語られることがある。
「度を越えて芝居をしすぎると」(演技しすぎると)「素人を喜ばせはしても、玄人を悲しませることになる」という具合だ。
柄谷はシェークスピアの「自然」ということばを取り違えていないか。「自然」を「本質」と言いなおしているのを読み落としてはいないか。また、「鏡」という「比喩」を取り違えていないか。
(3)は「この素朴ないい方」が指しているものが何なのか、よくわからない。ハムレットの台詞そのものを指しているのか、それとも直前の「心を虚しくして自然を視る」を指しているのか。
それにつづく「ドストエフスキーのような作家だけが匹敵しうる」という「比較」をあらわす文章を読む限り、シェークスピアのことばを指しているのだろうと思う。誰のことばかわからない「心を虚しくして自然を視る」はドストエフスキーとは比較できないからである。
で。
シェークスピア(あるいはハムレット)とドストエフスキーを「比較」していると判断して、私は、ここで大笑いしてしまった。
それって、比較対照するもの?
たとえば第一作で芥川賞を受賞した作家とドストエフスキーを比較して、ドストエフスキーに匹敵する」とは言えても、シェークスピアをドストエフスキーの「凄まじい明視力」に匹敵するといわれてもねえ。
シェークスピアはすでに古典。誰もが天才と認めている。方向性は違うかもしれないが、ドストエフスキーと並んで天才の一人である。どちらも「凄まじい明視力」を持っていて当然である。
いったい、柄谷は何を書いている?
わけがわからない。
こういうとき、私は悩まない。笑いだしてしまう。
さて。
(1)にもどろう。シェークスピアは何を言いたかったのか。「鏡」とは何か。「比喩」なのだが、「比喩」というのは「抽象」であり、また「具象」でもある。だから、人は実際にどのように「鏡をつかう」か、というところから読み直してみる必要がある。「鏡」を「名詞」のままにしておくのではなく、「動詞化」する。
「鏡を見る」。それはたいていの場合「自分を見る」、「自分を確かめる」のである。この服は自分に似合っているかな? 「正しく」見えるかな? 「愚か」に見えるかな? そう考える。
ハムレット(シェークスピア)は、「芝居」を「鏡」と呼んでいる。つまり、「芝居」を見るということは、観客が「自分の姿」をそこに見て、それが「正しい」か「愚か」かを確認するものなのだと、「芝居論」を語っている。
柄谷は「芸術論」と幅を広げて書いているが、「芸術論」ではなく「芝居論」。もっと具体的なのだ。
実際、旅芸人たちが演じるのは、ハムレットの母ガートルードの「暗殺」である。その芝居はガートルードの「行動」を映し出しているのである。ガートルードが実際に「暗殺」を実行していたとき、彼女には自分の姿は見えない。けれど、芝居を見ることで、その見えなかった自分の行動、その行動の奥で動いている「こころ(本性=自然)」が見える。ガートルードの「本質」が見える。
で、自分の姿がそんなふうに「見えた」とき、ガートルードは、その「姿(本質)」が他人にも見られてしまったと思い、あわてふためく。
そういう「芝居論」をシェークスピアは『ハムレット』のなかで具体的に展開している。
まあ、少し柄谷の「弁護」もしておこうか。柄谷は柄谷で「自然」を言いなおしている。
先の引用につづく第二段落は、こうなっている。
(5)で柄谷は「自然」を「人間の内部の自然」と言い直し、さらに「精神の自然」と言いなおしている。このとき柄谷にとって「人間の内部」とは「精神」のことである。そして「人間」は(6)では「自己」と言い換えられている。「自己の精神(内面)」を「自然」ととらえていることがわかる。
まあ、それでもかまわないとは思うが。
シェークスピアのことばにもどってみると、シェークスピアは「生きた時代の本質」というふうに「自然」を言い換えている。「人間/自己/個人」を越えて「時代」ということばを出してきている。「時代」のなかには「ひとりの個人=自己」だけが動いているわけではない。複数の人間が動いていて、それが絡み合っている。影響し合っている。
「芝居」というのは、この「複数の人間」の「絡み合い(関係)」を再現し、その「関係」を「鏡」にして「個人の姿」をより鮮明に描くものである。「内面(精神)」ではなく、むしろ「外面(関係)」を再現することで、見えない「人間の本質(自然)」を明らかにする。
これは、「これまでとは違ったふうに書く」ことではないね。
こういう書き方はギリシャ悲劇からずーっとつづいている。柄谷の言い分とは逆に、シェークスピア自身、「芝居の目指すところは、昔も今も」と書いている。「昔も今もかわらない」。その「かわらないままに書こう、書きたい」というのがシェークスピアの主張だろう。
芝居とは「昔も今も」、「複数の人間」の「関係」を再現することで、「人間の本質」を明らかにする。「本質」が「自然」に動くとどうなるか、あるいは「本質」の「自然」に動きを明らかにするものである。(一人芝居というものもあるが、まあ、例外だ。)
その「自然」というのは「精神」というような「明確なことば」では指し示すことができない。単純化はできない。
私のおぼろげな記憶では、柄谷は夏目漱石の「自然」ということばを分析したのではなかったか? 漱石の「自然」も「精神」というよりは、人間の「本質」というものだろうなあ、と私は感じている。人間はいろいろなものを「配慮」してしまうので、「本質」は「自然」に動けない。苦悩した挙げ句、「自然」を自覚し、それに身を任せる。そのとき、そこに「新しい人間」が生まれてくる。漱石が小説で描いたものは、そういう姿だと思っているが、柄谷が「自然=人間の内面=精神」と捉えているのなら、ああ、柄谷の漱石論を読まなくてよかったと思うのである。(私は幸い、読んでいない。)
「自然」は「本質」であるが、漱石のそれは「名詞」ではなく、「自然に動く」というときの「副詞」と読み、「動く」といっしょにつかまえないと人間が浮かび上がってこない。漱石が描いたのは「人間の精神」ではなく、「人間の動き(運動)」である。
柄谷のことばをもじって言えば、柄谷は「精神=意味」という「論理」につかまってしまった人間なのかもしれない。柄谷は「意味」という病気にかかっている。
(5)のあと、「マクベス論」が展開するのだが、まあ、読むまい。『マクベス』を読み直した方がはるかに楽しそうだ。
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
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柄谷行人『意味という病』(講談社文芸文庫、2018年01月10日発行)
柄谷行人『意味という病』の批評がフェスブックに載っていた。全然わからない、というのである。たしかにわからないのだが、同時に私は噴き出してしまった。「わからない」という感想にではなく、柄谷の文章に対してである。
取り上げられていたのは、次の部分である。(括弧と番号は、あとで感想を書くために、私が便宜上つけたもの。本文にはない。)
(1)「ハムレット」の中に、「芝居の目指すところは、昔も今も自然に対して、いわば鏡を向けて、正しいものは正しい姿に、愚かなものは愚かな姿のままに映しだして、生きた時代の本質をありのままに示すことだ」という有名な台詞がある。
(2)これはシェークスピア自身の芸術論と目されているが、むろん今日のリアリズムという文芸思潮とは何の関係もない。だが、これを心を虚しくして自然を視ることだといって澄ましていていいわけではない。
(3)この素朴ないい方の中には、おそらくドストエフスキーのような作家だけが匹敵しうるような凄まじい明視力がひそんでいるからである。
(「マクベス論」--意味に憑かれた人間)
(1)は、シェークスピア『ハムレット』の第三幕、第二場「城内の広間」の台詞である。この部分では、あたりまえかもしれないが、私は噴き出さなかった。シェークスピアのことばが引用されているだけなのだから。
(2)で、私は、あれっと思った。柄谷は「心を虚しくして自然を視る」と書いているが、「自然」って何? 山や川や空? 「心を虚しくして」というのは、どういう意味だろう。
柄谷が引用している訳と、私の持っている小田島雄志の訳は少し違っているが、「自然」ということばの説明のために必要になので、つづく部分を引用してみる。
だから、自然を越えてやりすぎれば、およばない場合も同じだが、素人を喜ばせはしても、玄人を悲しませることになる。
「自然」は、山や川や空のことではない。風景のことではない。「自然さ」と訳した方がわかりやすい。あるいは「本性」か。原文は知らないが「ナチュラル」ではないのか。柄谷が引用していることばで言いなおせば、それは「本質」である。
ときどき、それは「度」というようなことばでも語られることがある。
「度を越えて芝居をしすぎると」(演技しすぎると)「素人を喜ばせはしても、玄人を悲しませることになる」という具合だ。
柄谷はシェークスピアの「自然」ということばを取り違えていないか。「自然」を「本質」と言いなおしているのを読み落としてはいないか。また、「鏡」という「比喩」を取り違えていないか。
(3)は「この素朴ないい方」が指しているものが何なのか、よくわからない。ハムレットの台詞そのものを指しているのか、それとも直前の「心を虚しくして自然を視る」を指しているのか。
それにつづく「ドストエフスキーのような作家だけが匹敵しうる」という「比較」をあらわす文章を読む限り、シェークスピアのことばを指しているのだろうと思う。誰のことばかわからない「心を虚しくして自然を視る」はドストエフスキーとは比較できないからである。
で。
シェークスピア(あるいはハムレット)とドストエフスキーを「比較」していると判断して、私は、ここで大笑いしてしまった。
それって、比較対照するもの?
たとえば第一作で芥川賞を受賞した作家とドストエフスキーを比較して、ドストエフスキーに匹敵する」とは言えても、シェークスピアをドストエフスキーの「凄まじい明視力」に匹敵するといわれてもねえ。
シェークスピアはすでに古典。誰もが天才と認めている。方向性は違うかもしれないが、ドストエフスキーと並んで天才の一人である。どちらも「凄まじい明視力」を持っていて当然である。
いったい、柄谷は何を書いている?
わけがわからない。
こういうとき、私は悩まない。笑いだしてしまう。
さて。
(1)にもどろう。シェークスピアは何を言いたかったのか。「鏡」とは何か。「比喩」なのだが、「比喩」というのは「抽象」であり、また「具象」でもある。だから、人は実際にどのように「鏡をつかう」か、というところから読み直してみる必要がある。「鏡」を「名詞」のままにしておくのではなく、「動詞化」する。
「鏡を見る」。それはたいていの場合「自分を見る」、「自分を確かめる」のである。この服は自分に似合っているかな? 「正しく」見えるかな? 「愚か」に見えるかな? そう考える。
ハムレット(シェークスピア)は、「芝居」を「鏡」と呼んでいる。つまり、「芝居」を見るということは、観客が「自分の姿」をそこに見て、それが「正しい」か「愚か」かを確認するものなのだと、「芝居論」を語っている。
柄谷は「芸術論」と幅を広げて書いているが、「芸術論」ではなく「芝居論」。もっと具体的なのだ。
実際、旅芸人たちが演じるのは、ハムレットの母ガートルードの「暗殺」である。その芝居はガートルードの「行動」を映し出しているのである。ガートルードが実際に「暗殺」を実行していたとき、彼女には自分の姿は見えない。けれど、芝居を見ることで、その見えなかった自分の行動、その行動の奥で動いている「こころ(本性=自然)」が見える。ガートルードの「本質」が見える。
で、自分の姿がそんなふうに「見えた」とき、ガートルードは、その「姿(本質)」が他人にも見られてしまったと思い、あわてふためく。
そういう「芝居論」をシェークスピアは『ハムレット』のなかで具体的に展開している。
まあ、少し柄谷の「弁護」もしておこうか。柄谷は柄谷で「自然」を言いなおしている。
先の引用につづく第二段落は、こうなっている。
(4)右のように書くとき、シェークスピアは何らかの覚悟を語ったのだといってよい。つまり、彼はこれまでとは違ったふうに書くのだといっているようにみえるのである。
(5)自然ということばにおいて彼がアクセントを置いているのは、明らかに人間の内部という自然である。すなわち彼は精神というものを自然としてみようとしたのである。
(6)当然ここには既成の「道徳劇」の枠組への反撥がふくまれているが、それ以上に彼自身が回避することのできなかった何らかの経験がふくまれている。おそらくそれは「自己」というのもがどんな分析をも超越してしまうばかりではなく、ほかならぬ自己自身をも拘束し破壊するという事態、存在しないはずのものが存在するばかりではなく、それほどに現実的なものもないという奇怪な事態の経験である。
(5)で柄谷は「自然」を「人間の内部の自然」と言い直し、さらに「精神の自然」と言いなおしている。このとき柄谷にとって「人間の内部」とは「精神」のことである。そして「人間」は(6)では「自己」と言い換えられている。「自己の精神(内面)」を「自然」ととらえていることがわかる。
まあ、それでもかまわないとは思うが。
シェークスピアのことばにもどってみると、シェークスピアは「生きた時代の本質」というふうに「自然」を言い換えている。「人間/自己/個人」を越えて「時代」ということばを出してきている。「時代」のなかには「ひとりの個人=自己」だけが動いているわけではない。複数の人間が動いていて、それが絡み合っている。影響し合っている。
「芝居」というのは、この「複数の人間」の「絡み合い(関係)」を再現し、その「関係」を「鏡」にして「個人の姿」をより鮮明に描くものである。「内面(精神)」ではなく、むしろ「外面(関係)」を再現することで、見えない「人間の本質(自然)」を明らかにする。
これは、「これまでとは違ったふうに書く」ことではないね。
こういう書き方はギリシャ悲劇からずーっとつづいている。柄谷の言い分とは逆に、シェークスピア自身、「芝居の目指すところは、昔も今も」と書いている。「昔も今もかわらない」。その「かわらないままに書こう、書きたい」というのがシェークスピアの主張だろう。
芝居とは「昔も今も」、「複数の人間」の「関係」を再現することで、「人間の本質」を明らかにする。「本質」が「自然」に動くとどうなるか、あるいは「本質」の「自然」に動きを明らかにするものである。(一人芝居というものもあるが、まあ、例外だ。)
その「自然」というのは「精神」というような「明確なことば」では指し示すことができない。単純化はできない。
私のおぼろげな記憶では、柄谷は夏目漱石の「自然」ということばを分析したのではなかったか? 漱石の「自然」も「精神」というよりは、人間の「本質」というものだろうなあ、と私は感じている。人間はいろいろなものを「配慮」してしまうので、「本質」は「自然」に動けない。苦悩した挙げ句、「自然」を自覚し、それに身を任せる。そのとき、そこに「新しい人間」が生まれてくる。漱石が小説で描いたものは、そういう姿だと思っているが、柄谷が「自然=人間の内面=精神」と捉えているのなら、ああ、柄谷の漱石論を読まなくてよかったと思うのである。(私は幸い、読んでいない。)
「自然」は「本質」であるが、漱石のそれは「名詞」ではなく、「自然に動く」というときの「副詞」と読み、「動く」といっしょにつかまえないと人間が浮かび上がってこない。漱石が描いたのは「人間の精神」ではなく、「人間の動き(運動)」である。
柄谷のことばをもじって言えば、柄谷は「精神=意味」という「論理」につかまってしまった人間なのかもしれない。柄谷は「意味」という病気にかかっている。
(5)のあと、「マクベス論」が展開するのだが、まあ、読むまい。『マクベス』を読み直した方がはるかに楽しそうだ。
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
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