池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」(「something 」26、2017年12月30日発行)
池田瑛子「坂」は書き出しがおもしろい。
「時が立ちどまり」の「時」をどう読むか。
「時間が止まったように感じられる」という表現がある。過ぎてゆくものが過ぎてゆかずに、異様にくっきりと見える。過ぎて行ってほしいものが過ぎていかずに、圧迫感を感じる。そのときの「主語」は「私」であり、「私は」「感じる」という動詞に結びついている。
それに似ているが、何か違う。
「立ちどまり」ということばには「立つ」という動詞が含まれている。この「立つ」は「とまる」を強調しているのだろうけれど、「強調」に私は「意思」を感じてしまう。「主体性」と言ってもいいかもしれない。「人間性」と言った方がいいのかもしれない。
「時」という「概念(?)」が「立ちどまった」というよりも、「人」が「時」そのものになって、「立ちどまった」。「時」を「私(池田)」であると、私は「誤読」するのである。「立ちどまる」ことで、「時(間)」そのものになっていく。
「時間」になるとは、どういうことか。
「時間」は一般的に「過去-現在-未来」へと動いていく。その「動き」そのものが意識される、意識と重なるということが「時間になる」ということだ。
「縄文広場」というのは、それがほんとうにあるのかどうか知らないが、遠い「過去」を意識させる。「硬い芽」はやがて開くという「未来」を感じさせる。その「過去」と「未来」のあいだにあって、「今(現在)」は「青い月の光に洗われている」。これは、見方によっては文学の「定型」だなあと思う。あまりおもしろくはないのだが。
この一行が、不思議だ。
「誰」が「手を振る」のか。
私はここでも「誤読」するのである。「裸木に手を振る」とあるけれど、「裸木が手を振る」と読む。
「時が(立ち)どまる」というとき、「時」を客観的に見ている「私」がいる。「時」と「私」は別個の存在。しかし、「時」となって「立ちどまる」ときは「時」は「主観」になる。他者であるべきものと「私」が「同一」のことを「主観的」というのかもしれない。「主観」によって「対象」が「対象」として認識されない。「主観」によって「対象」をゆがめてしまうことを「主観的」という。
それと同じように、「裸木に手を振る」というとき、「裸木」と手を振る「誰か」は別個の存在だが、「主観」が木に乗り移り、木となって「自己描写」する。木は手を振るように枝を振り、その手(枝)を丘の斜面に広げてゆく。「客観的」には「広がってゆく」だが「主観的」には「広げてゆく」。
「主観」と「客観」が、ときどき微妙に重なり、動いている。あるいは「客観」を装いながら「主観」の動きそのものを描いている。
「時(間)」は「物理(科学)」の世界では「客観的」な単位だが、人間にとっては自在に伸び縮みする「主観」を映し出すものかもしれない。
これも「客観的描写」と読んだのでは、「文学定型」に終わってしまうが、ここに書かれている「もの」のすべてが、その瞬間瞬間の池田なのだと「誤読」すると、違った世界があらわれる。
「蓮池」は埋められているが、埋めたのは池田であり、その埋められた「蓮池」は池田でもある。「蓮池」は「池」だが「蓮」そのものでもある。妖しい風を「生む」のは「(蓮)池」か「蓮」か、わからない。どちらでもなく、そのことばを動かしている池田自身である。池を埋めたはずの池田が、「池」になり「蓮」になり、風を「生み出す」。
「撓む竹(林)」も「撓む」は竹を描写することばなのか、「竹」が「撓む」という「動詞」を呼び寄せているか、言い換えると「撓む」という「動詞」となってそこに存在しているか、「二重」に読む必要がある。
「蓮池」「風」「竹林」を結びつける「抱かれる」という動詞も「抱く/抱かれる」の両方として読む必要がある。「抱く」というときの「主語」は「抱かれる対象」よりも大きいが、それは「見方」にすぎない。
そういう「世界」が「見方」にすぎないというのは、
という動詞で、強く描かれている。
それは「顕れ方」にすぎない。言い換えると「描写」の「手順」にすぎない。「客観」を基準にした「表現の形」にすぎない。
それは「手順」であるにしても、あるいは「手順」だからこそ、その「手順」を生み出している「主体」へと視線を向ける必要がある。「顕れてくる」のは「客観的世界」ではなく、池田の「主観的世界」である。「顕れてくる」のではなく、「顕れるようにしている」、「顕す」、生み出しているのである。
このあと、詩は、かなりつまらなくなるのだが、「時が立ちどまり」から「顕れてくる」までの「主観(主体)」と「客観(対象)」の交錯は、とても刺戟的だ。
*
田島安江「ミミへの旅」。池田の作品と通じる部分がある。私は目が悪くて40分限定でパソコンに向かっているので、端折って書くしかないのだが。
「客観」ではなく「主観=気持ち」が動く。「主観」が動きながら「世界」を生み出していく。「主観」が「世界」になっていく。その「主観の世界」では「時間」や「空間(距離)」さえ「客観」ではない。
「残る」は、「主観」が「残る」のである。「客観」ではない。「客観」があるとしたら、その「ない」ということが「客観」だろう。
*
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
池田瑛子「坂」は書き出しがおもしろい。
ふと 時が立ちどまり
夜を抜けて
曲がりくねった
坂道を登っていく
「時が立ちどまり」の「時」をどう読むか。
「時間が止まったように感じられる」という表現がある。過ぎてゆくものが過ぎてゆかずに、異様にくっきりと見える。過ぎて行ってほしいものが過ぎていかずに、圧迫感を感じる。そのときの「主語」は「私」であり、「私は」「感じる」という動詞に結びついている。
それに似ているが、何か違う。
「立ちどまり」ということばには「立つ」という動詞が含まれている。この「立つ」は「とまる」を強調しているのだろうけれど、「強調」に私は「意思」を感じてしまう。「主体性」と言ってもいいかもしれない。「人間性」と言った方がいいのかもしれない。
「時」という「概念(?)」が「立ちどまった」というよりも、「人」が「時」そのものになって、「立ちどまった」。「時」を「私(池田)」であると、私は「誤読」するのである。「立ちどまる」ことで、「時(間)」そのものになっていく。
「時間」になるとは、どういうことか。
縄文広場に低い囁きがたちこめ
硬い芽が息をひそめる
木蓮の大きな裸木に手を振り
丘の斜辺に広がってゆく
墓地は雪が降り積もって
青い月の光に洗われている
「時間」は一般的に「過去-現在-未来」へと動いていく。その「動き」そのものが意識される、意識と重なるということが「時間になる」ということだ。
「縄文広場」というのは、それがほんとうにあるのかどうか知らないが、遠い「過去」を意識させる。「硬い芽」はやがて開くという「未来」を感じさせる。その「過去」と「未来」のあいだにあって、「今(現在)」は「青い月の光に洗われている」。これは、見方によっては文学の「定型」だなあと思う。あまりおもしろくはないのだが。
木蓮の大きな裸木に手を振り
この一行が、不思議だ。
「誰」が「手を振る」のか。
私はここでも「誤読」するのである。「裸木に手を振る」とあるけれど、「裸木が手を振る」と読む。
「時が(立ち)どまる」というとき、「時」を客観的に見ている「私」がいる。「時」と「私」は別個の存在。しかし、「時」となって「立ちどまる」ときは「時」は「主観」になる。他者であるべきものと「私」が「同一」のことを「主観的」というのかもしれない。「主観」によって「対象」が「対象」として認識されない。「主観」によって「対象」をゆがめてしまうことを「主観的」という。
それと同じように、「裸木に手を振る」というとき、「裸木」と手を振る「誰か」は別個の存在だが、「主観」が木に乗り移り、木となって「自己描写」する。木は手を振るように枝を振り、その手(枝)を丘の斜面に広げてゆく。「客観的」には「広がってゆく」だが「主観的」には「広げてゆく」。
「主観」と「客観」が、ときどき微妙に重なり、動いている。あるいは「客観」を装いながら「主観」の動きそのものを描いている。
「時(間)」は「物理(科学)」の世界では「客観的」な単位だが、人間にとっては自在に伸び縮みする「主観」を映し出すものかもしれない。
地中深く埋められた蓮池が
妖しい風を生みながら
撓む竹林に抱かれて
顕れてくる
これも「客観的描写」と読んだのでは、「文学定型」に終わってしまうが、ここに書かれている「もの」のすべてが、その瞬間瞬間の池田なのだと「誤読」すると、違った世界があらわれる。
「蓮池」は埋められているが、埋めたのは池田であり、その埋められた「蓮池」は池田でもある。「蓮池」は「池」だが「蓮」そのものでもある。妖しい風を「生む」のは「(蓮)池」か「蓮」か、わからない。どちらでもなく、そのことばを動かしている池田自身である。池を埋めたはずの池田が、「池」になり「蓮」になり、風を「生み出す」。
「撓む竹(林)」も「撓む」は竹を描写することばなのか、「竹」が「撓む」という「動詞」を呼び寄せているか、言い換えると「撓む」という「動詞」となってそこに存在しているか、「二重」に読む必要がある。
「蓮池」「風」「竹林」を結びつける「抱かれる」という動詞も「抱く/抱かれる」の両方として読む必要がある。「抱く」というときの「主語」は「抱かれる対象」よりも大きいが、それは「見方」にすぎない。
そういう「世界」が「見方」にすぎないというのは、
顕れてくる
という動詞で、強く描かれている。
それは「顕れ方」にすぎない。言い換えると「描写」の「手順」にすぎない。「客観」を基準にした「表現の形」にすぎない。
それは「手順」であるにしても、あるいは「手順」だからこそ、その「手順」を生み出している「主体」へと視線を向ける必要がある。「顕れてくる」のは「客観的世界」ではなく、池田の「主観的世界」である。「顕れてくる」のではなく、「顕れるようにしている」、「顕す」、生み出しているのである。
このあと、詩は、かなりつまらなくなるのだが、「時が立ちどまり」から「顕れてくる」までの「主観(主体)」と「客観(対象)」の交錯は、とても刺戟的だ。
*
田島安江「ミミへの旅」。池田の作品と通じる部分がある。私は目が悪くて40分限定でパソコンに向かっているので、端折って書くしかないのだが。
だんだん何かが壊れていく気がする。ねえ、ここって、
駅からこんなに近かったかしら。ハシモトさんはけら
けらと笑う。そうか、知らないんだ。町はずっと少し
ずつ西に移動しているんだよ。駅からは遠すぎたから。
こんなに近づいたんだ。え、どうして。なぜって、気
持ちだよ。駅へと近づくなんて、気持ちが動くだろう。
いいんだ。このことは一部の人しか知らないんだ。
「客観」ではなく「主観=気持ち」が動く。「主観」が動きながら「世界」を生み出していく。「主観」が「世界」になっていく。その「主観の世界」では「時間」や「空間(距離)」さえ「客観」ではない。
わたしは壁に貼られたメモをみる。途切れたレールの
先の止まらない列車。鉄橋を渡る列車は、行く先なん
て知らない。崩れていく感覚だけは残る。
「残る」は、「主観」が「残る」のである。「客観」ではない。「客観」があるとしたら、その「ない」ということが「客観」だろう。
岸辺に | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
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「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか12月号注文
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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