閻連科『硬きこと水のごとし』(谷川毅訳)(河出書房新社、2017年12月30日発行)
閻連科『硬きこと水のごとし』の帯には「エロ・革命・血笑記」と書いてある。「そそりたつ乳房、震える乳首、秘密の三角地帯……革命の歌に乗って二人の欲望が炸裂する。」とも。
その通りだねえ。
まるでポルノ小説、それも「チャタレイ夫人の恋人」のような世界文学ではなく、大衆週刊誌に連載されている小説を初めて読んだ少年が、ことばそのものに勃起し、射精してしまう勢いで、これでもかこれでもかとことばをまき散らす。帯の「そそりたつ乳房、震える乳首、秘密の三角地帯」が象徴的だが、おとなになるとこんなに「欲張り」なセックスはしない。ひとつを味わうので手一杯。でも、目覚めたばかりの欲望は、みっつでもまだ足りない。
で、ここからがポイント。
「革命の歌に乗って」と帯では簡単に書いてある。小説を読むと、「革命の歌」によって主人公の性欲は駆り立てられる。女の方も同じ。「革命」というのは、若い世代のセックスと同じなのだ。本能によって、ひとつひとつ発見し、その発見でさらに新しい何かをつくりだしてしまう。存在しなかったものをつくってしまう。存在しなかったものをつくりだすためには、それまでに存在しているものを徹底的にこわしてしまう。
あ、こんな「意味」を書くつもりはなかったのだった。
この小説の何がおもしろいかというと、「音楽に乗って欲望が燃え上がる」ということ。「革命の」はわきに置いておく。「音」が大事なのだ。「音」によって欲望が呼び覚まされ、それを「音=ことば」にしてしまう。「意味」を破壊して、「音=ことば」のうねりにしてしまう。
延々とつづくセックス描写は「描写」ではない。「そそりたつ」とか「震える」とか「三角地帯」と「視覚的」であっても、それは大切な要素ではない。どれだけ「音=ことば」にできるかが重要なのだ。「意味」が「無意味」になって、ただ「音」としてうねる。「声」が「意味」を捨ててしまって、欲望の喘ぎになる。そうなるまで、ひたすら「ことば」を発し続ける。
中国は「漢字文化」。「漢字」は「表意文字」、つまりひとつひとつの漢字に「意味」がある。私は中国語が読めないし、聞いても理解できないからいいかげんなことしか言えないが、閻連科のことばは「意味」を中心にしては動いていないと思う。「音」を中心にして動いている。日本の漫才に、猛烈なスピードでしゃべりまくる漫才があるが、あれに似ている。もちろん「意味」もあるのだが、私はそういうものを聞いているとき、「意味」ではなくしゃべりつづけるスピード、「声」の力に酔っている。矛盾し、飛躍していても、ことばにスピードがあれば、それを「音楽」のように聞いてしまう。そういう感じで、閻連科を読んでしまう。
思うに閻連科はとても聴覚がすぐれている。耳が鋭いのだ。『年月日』でも感じたが、ふつうの人が聞こえない音を聞いてしまう耳を持っている。
後半のおおげさなことばの洪水は「意味」の乱反射とも言うべきもので、こういうことばの展開は随所に出てくるが、私はその直前の「視線はビシバシ音を立てた」にびっくりする。視線と視線が正面衝突し「ビシバシ」音を立てるのではない。視線が「ビシバシ」と音を立てながら肉体から出て行くのだ。それは目から飛び出す精液のようなものだ。精液が「ビュッビュッ」と音を立てて飛び出すように、「見たい」という欲望が音を立てて視線になって飛び出していく。これは「肉体の内部」で感じる音、「肉体」が体験する音だ。
こういう音もある。
「花びらの開く音」。それは「心の中」、つまり「肉体の内部」で生まれている。そして「心臓」という「肉体の内部」にふたたび帰っていく。「音」は「肉体」から外に噴出し、それは再び「肉体」に帰ってくる。「音」が出たり入ったり、ピストン運動している、と言いなおせば、それはそのまま男がセックスしている姿になる。
閻連科の繰り広げるセックス描写は、思わず声に出して笑ってしまうくらい強烈だが、そしてその強烈さに笑ってしまうためにどこが特徴的なのか指摘するのはむずかしい。(いや、簡単すぎて、説明しなくても笑ってしまうので、そういう部分の引用は避ける。また、それを読みたいひとのためにも残しておくことにする。)だから、なるべくセックスしていない部分(小説のはじまりの部分)から引用したのだが、その特徴は、
(1)描写がはじまると、世界が一気に拡大する。花嫁の描写が花嫁で終わらず、宇宙をつらぬく光線にまで拡大する。
(2)描写の対象が、花嫁と宇宙でもそうだが、瞬時に入れ替わるだけではなく、逆方向から見つめなおされる。「心の中で開いた」花を描写していて、その「心(心臓)」が車に轢かれるという具合に、書かれる。別の角度から書かれるのだが、それは「心/心臓」という一点に集中する。拡散と集中が同時に起きている。
この2点に要約できると思う。
小説の背景には「文化大革命」があり、この小説は「文化大革命批判」としても読めるのだが、「文化大革命」のエネルギーを二人の主人公の生きる力として解放して見せてくれているとも言える。「文化大革命」の直接の被害者ではない私は、「文化大革命」という負の動きがあったからこそ、それを突き破る形でこういう小説が生まれてきたのだと思った。「文化大革命」はすごいものを生み出した、と感じた。「文化大革命」がなければ、こういうエネルギーの暴発は生まれなかったかもしれない。根源的な野生に、中国人が目覚めることがなかったかもしれないとさえ感じた。でたらめというかドタバタ劇なのに、「真理」がそこにある、と感じ、そこに引き込まれていく。
非常に強い力でことばを統一して動かしているということが「わかる」(実感できる)作品だ。
閻連科『硬きこと水のごとし』の帯には「エロ・革命・血笑記」と書いてある。「そそりたつ乳房、震える乳首、秘密の三角地帯……革命の歌に乗って二人の欲望が炸裂する。」とも。
その通りだねえ。
まるでポルノ小説、それも「チャタレイ夫人の恋人」のような世界文学ではなく、大衆週刊誌に連載されている小説を初めて読んだ少年が、ことばそのものに勃起し、射精してしまう勢いで、これでもかこれでもかとことばをまき散らす。帯の「そそりたつ乳房、震える乳首、秘密の三角地帯」が象徴的だが、おとなになるとこんなに「欲張り」なセックスはしない。ひとつを味わうので手一杯。でも、目覚めたばかりの欲望は、みっつでもまだ足りない。
で、ここからがポイント。
「革命の歌に乗って」と帯では簡単に書いてある。小説を読むと、「革命の歌」によって主人公の性欲は駆り立てられる。女の方も同じ。「革命」というのは、若い世代のセックスと同じなのだ。本能によって、ひとつひとつ発見し、その発見でさらに新しい何かをつくりだしてしまう。存在しなかったものをつくってしまう。存在しなかったものをつくりだすためには、それまでに存在しているものを徹底的にこわしてしまう。
あ、こんな「意味」を書くつもりはなかったのだった。
この小説の何がおもしろいかというと、「音楽に乗って欲望が燃え上がる」ということ。「革命の」はわきに置いておく。「音」が大事なのだ。「音」によって欲望が呼び覚まされ、それを「音=ことば」にしてしまう。「意味」を破壊して、「音=ことば」のうねりにしてしまう。
延々とつづくセックス描写は「描写」ではない。「そそりたつ」とか「震える」とか「三角地帯」と「視覚的」であっても、それは大切な要素ではない。どれだけ「音=ことば」にできるかが重要なのだ。「意味」が「無意味」になって、ただ「音」としてうねる。「声」が「意味」を捨ててしまって、欲望の喘ぎになる。そうなるまで、ひたすら「ことば」を発し続ける。
中国は「漢字文化」。「漢字」は「表意文字」、つまりひとつひとつの漢字に「意味」がある。私は中国語が読めないし、聞いても理解できないからいいかげんなことしか言えないが、閻連科のことばは「意味」を中心にしては動いていないと思う。「音」を中心にして動いている。日本の漫才に、猛烈なスピードでしゃべりまくる漫才があるが、あれに似ている。もちろん「意味」もあるのだが、私はそういうものを聞いているとき、「意味」ではなくしゃべりつづけるスピード、「声」の力に酔っている。矛盾し、飛躍していても、ことばにスピードがあれば、それを「音楽」のように聞いてしまう。そういう感じで、閻連科を読んでしまう。
思うに閻連科はとても聴覚がすぐれている。耳が鋭いのだ。『年月日』でも感じたが、ふつうの人が聞こえない音を聞いてしまう耳を持っている。
たまたま結婚式の行列が目の前を通り過ぎ、全中隊一斉にピタッと立ち止まり、兵士たちの視線はビシバシ音を立てた。花嫁の美しい万丈の光芒が千里を照らし、雲間から射し込む一万本の光は宇宙に映えた。(12ページ)
後半のおおげさなことばの洪水は「意味」の乱反射とも言うべきもので、こういうことばの展開は随所に出てくるが、私はその直前の「視線はビシバシ音を立てた」にびっくりする。視線と視線が正面衝突し「ビシバシ」音を立てるのではない。視線が「ビシバシ」と音を立てながら肉体から出て行くのだ。それは目から飛び出す精液のようなものだ。精液が「ビュッビュッ」と音を立てて飛び出すように、「見たい」という欲望が音を立てて視線になって飛び出していく。これは「肉体の内部」で感じる音、「肉体」が体験する音だ。
こういう音もある。
あのときは言葉にできなかった色形をしたみずみずしい花が俺の心の中で一輪また一輪と咲いて、その花びらが開く音が響いてきて、それは車に轢きつぶされそうな心臓の音だった。(21ページ)
「花びらの開く音」。それは「心の中」、つまり「肉体の内部」で生まれている。そして「心臓」という「肉体の内部」にふたたび帰っていく。「音」は「肉体」から外に噴出し、それは再び「肉体」に帰ってくる。「音」が出たり入ったり、ピストン運動している、と言いなおせば、それはそのまま男がセックスしている姿になる。
閻連科の繰り広げるセックス描写は、思わず声に出して笑ってしまうくらい強烈だが、そしてその強烈さに笑ってしまうためにどこが特徴的なのか指摘するのはむずかしい。(いや、簡単すぎて、説明しなくても笑ってしまうので、そういう部分の引用は避ける。また、それを読みたいひとのためにも残しておくことにする。)だから、なるべくセックスしていない部分(小説のはじまりの部分)から引用したのだが、その特徴は、
(1)描写がはじまると、世界が一気に拡大する。花嫁の描写が花嫁で終わらず、宇宙をつらぬく光線にまで拡大する。
(2)描写の対象が、花嫁と宇宙でもそうだが、瞬時に入れ替わるだけではなく、逆方向から見つめなおされる。「心の中で開いた」花を描写していて、その「心(心臓)」が車に轢かれるという具合に、書かれる。別の角度から書かれるのだが、それは「心/心臓」という一点に集中する。拡散と集中が同時に起きている。
この2点に要約できると思う。
小説の背景には「文化大革命」があり、この小説は「文化大革命批判」としても読めるのだが、「文化大革命」のエネルギーを二人の主人公の生きる力として解放して見せてくれているとも言える。「文化大革命」の直接の被害者ではない私は、「文化大革命」という負の動きがあったからこそ、それを突き破る形でこういう小説が生まれてきたのだと思った。「文化大革命」はすごいものを生み出した、と感じた。「文化大革命」がなければ、こういうエネルギーの暴発は生まれなかったかもしれない。根源的な野生に、中国人が目覚めることがなかったかもしれないとさえ感じた。でたらめというかドタバタ劇なのに、「真理」がそこにある、と感じ、そこに引き込まれていく。
非常に強い力でことばを統一して動かしているということが「わかる」(実感できる)作品だ。
![]() | 硬きこと水のごとし |
クリエーター情報なし | |
河出書房新社 |