詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

語らない安倍(巧妙になる沈黙作戦)

2018-01-05 12:01:32 | 自民党憲法改正草案を読む
語らない安倍(巧妙になる沈黙作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外162(情報の読み方)

 2018年01月05日読売新聞(西部版・14版)1面の見出し。

首相「改憲論議深める」年頭改憲

 本文には、こう書いてある。

 安倍首相は4日、三重県伊勢市で年頭の記者会見を行い、憲法改正について「今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかりと提示し、国民的な議論を一層深めていく」と表明した。自民党総裁として改憲案を国会に提出し、議論を加速させることに意欲を示したものだ。

 これでは何のことか、さっぱりわからない。「憲法のあるべき姿を国民にしっかりと提示し」とあるが、安倍は「改正案」を国民に示したか。「自衛隊を書き加える」「教育を無償化する」というようなことを言ってはいるが「明文化(成文化)」した形では一度も提示していない。これでは「議論」にならない。「議論」をするなら、「議論」の出発点である「ことば」を提示しないといけない。「議論」は「ことば」を中心におこなうものである。
 2面には

「対北」「働き方改革」重点

 という見出しで、こういう文章がある。

 ミサイル警戒に当たる自衛隊員へのねぎらいで記者会見を切り出した首相は、「従来の延長線上ではなく、国民を守るために真に必要な防衛力強化に取り組む」と表明した。今年末には「防衛計画の大綱」(防衛大綱)の見直しを目指しており、敵基地攻撃能力の保有の是非について議論を本格化させる意向を示唆したものとみられる。

 これを「憲法改正」と関係づけて読み直してみる。
 安倍は年内の「改憲」を目指している。「防衛大綱」は「改憲」後のもの、「改憲」を反映させたものとなる。
 「自衛隊」ということばは、国を「自衛する」という意味で受け止められている。「敵国」の攻撃にあったら防戦する。自衛する。その「自衛活動」の行動範囲は、私の感覚では「領空、領海、領土」である。特に実際に国民が暮らしている「領土」が「防衛(自衛)」のいちばんの対象であると思う。これが「従来の」考え方であると思う。
 安倍は、それを乗り越えようとしている。「従来」を否定している。「従来」の考え方を否定するのが、「国民を守るために真に必要な防衛力強化」という部分である。読売新聞はそれを「敵基地攻撃能力の保有」と言い換えている。(説明しなおしている。)
 当然、「改憲案」は「従来」のものとは違うということが想定できる。「自衛隊を憲法に加える」だけではなく、「敵国の基地を攻撃できる」という要素を盛り込んだものにしないと、「防衛大綱」は改憲された新憲法を逸脱することになる。
 たとえば「自衛隊の活動範囲は領海、領空、領土内に限定される。その範囲を越えての武力の使用は侵略行為であり、これを侵してはらない」と憲法に明文化すると、「新防衛大綱」は「違憲」ということになる。だから、安倍が狙っている「改憲」では、そういうことばは絶対に「明文化」されない。
 「新防衛大綱」(敵国の基地を攻撃できる)にそなえて、では、憲法をどう改正するのか。それを安倍は明確に言っていない。
 いまここで、自衛隊が、攻撃されたら日本を守るというだけではなく、攻撃されるおそれを感じたら敵国の基地を攻撃できるように憲法で規定するという「案」を表明したら、きっと大騒ぎになる。それは侵略戦争とどう違うのか。第二次大戦のときのアジア諸国侵攻とどう違うのか。だから、言わないのだ。
 こんな「詐欺」みたいな手口を許していいはずがない。

 1面の記事のつづきにもどる。

 首相は、「時代の変化に応じ、国のかたち、あり方を議論するのは当然だ」とも強調した。現在、改憲に前向きな勢力は衆参両院で国会発議に必要な3分の2を超えているが、「(各党が)具体的な案を持ち寄りながら議論が進んでいく中で、国民的な理解も深まっていく」と述べた。

 「(各党が)具体的な案を持ち寄りながら議論が進んでいく中で」というが、肝心の安倍自身(自民党そのもの)が「具体的な案」を提示していない。
 安倍が2017年5月に読売新聞で「改憲」を語り、それを受けて開かれ6月の「自民党憲法改正推進本部」では「たたき台」をまとめた。(「憲法 9条改正、これでいいのか」を参照してください。)ところが12月の推進本部での会合では「たたき台」が消えて、2案併記になった。
①9条1、2項を維持した上で自衛隊を憲法に明記する(安倍の提案)
②9条2項を削除し、自衛隊の目的・性格をより明確化する(2012年の改正草案)
 「議論」の「幅」が広がったというか、「拡散」されてしまった。どちらの案も問題があるが、それぞれ具体的に議論しないといけない。2案あっては、議論の時間が足りないだろう。
 各党(野党)に「具体的な案」を要求するなら、まず安倍自身が「具体的な案」(成文化、明文化されたもの)を示さないといけない。野党に「成文化(具体的な案)」を要求し、「議論対象」を増やし、十分な議論をせずに「〇時間議論した」と逃げるつもりなのだ。
 「成文化した案」は、国会で「議論」するだけではなく、各議員がそれぞれの支持者の前で説明し、質問を受け、討論するという時間も必要だろう。単に議員が一方的説明し、「国民の理解を得られた」というのではなく、必ず「賛成派」「反対派」の意見が同時にわかるるようにし、公開討論、公開質問という形で国民全体で議論をする必要がある。

 西部版の1面には掲載されていなかったが、

 首相は、衆参両院の憲法審査会などでの論議を通じ、与野党の幅広い合意形成が進むことへの期待感も示したが、「スケジュールありきではない」とも語った。

 という。
 「幅広い合意形成」を言うなら、最低限、安倍案を「成文化」し、国民に提示しないといけない。それをしないのは「スケジュールありき」だからである。十分な議論をさせないように、案の提出を遅らせる。そのくせ「〇時間かけたから十分に審議した」というのである。
 「共謀罪法」の強行採決をみれば、そのことがよくわかる。
 野党議員にも、国民にも「議論させない」、「沈黙作戦」で安倍の「独裁」を強行に推し進める。

 具体的なことばを語らないのは、国民からことばを奪い、「思想」を支配するためである。国民に考えさせないためである。「沈黙作戦」は巧妙な「洗脳作戦」でもある。洗脳されないために、私たちは、自分のことばで語り続けなければならない。

 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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江代充「想起」

2018-01-05 10:57:43 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「想起」(「現代詩手帖」1月号)

 江代充「想起」は「夜」というタイトルであつめられた作品のうちの一篇。

ひと気のない土の空き地の
ずっと西の隅の方へわたしはきていた
そこで一つずつ種蒔く母とふたり
またはふたりのうちのひとりとして
数えられる所に いるためである

 いつものように「ぎくしゃく」した文体である。一行一行が「写真」のように完結し、接続に飛躍があるためだ。「映画」のように移動していかない。移動していくのだが、移動の瞬間に飛躍する。
 「ひと気のない土の空き地」は「種蒔く」という「動詞」によって「畑」にかわる。その「畑」は「数えられる所」と言いなおされる。どうやら、どこか「町外れ」とでもいうべき畑で「わたし」と「母」がいる。「母」は「種をまいている」。それを「わたし」は見ているのだろうか。いっしょに種をまくというよりも、母に連れられて畑に来ている。そういう「風景(情景)」がなんとなく目に浮かぶが、どうもすっきりと「映像」にならない。
 なぜだろう。
 いくつかの「動詞」が気になる。
 「数えられる」(数える)という「動詞」がある。「母とふたり」、「母とわたし」の「ふたり」と数えるのか、「ふたり」を意識するとき「わたし」という「ひとり」が意識されるがゆえに「ふたり」になるのか。「ふたりのうちのひとりとして」の「として」ということばが複雑なのだと思う。「して」はさっと読んでしまうことばだが、もとは「する」という「動詞」だろう。「ふたりのうちのひとり」に「する」ことによって「数える」。「ひとり」を強く認識「する」ことで、あそこには「ふたり」がいると「数える」。「ひとり(わたし)」を認識しない限り「ふたり」はそこには存在しない。
 「風景(情景)」を描写しているようであって、実は「認識」を描写している。
 だが、この「ふたりにする」「ふたりのうちのひとりにする」というときの「する」の認識主体(主語)はだれだろう。「わたし」か。「わたし」かもしれない。しかし、なぜそういうときに、わざわざ「ふたりにする」「ふたりのうちのひとりにする」という具合に「数える」のか。私もときどき母の野良仕事を手伝ったことがあるが、そういうとき「ふたり」「ひとり」は意識しない。
 なぜ、意識するのか。つづくことばを読むと、少し想像が膨らむ。

ここへ来るまでに
道でふたりの友を見たが
わたしはそこに留まり
ひざを屈したかれらに合わせ脇のほうへ退くと

 「友」に出合ったのだ。「ふたり」の「友」とあるから、ふたりはきっと「遊び仲間」なのだろう。遊びにゆく途中なのだろう。彼らとは違い(彼らについていくことはできず)、「わたし」はそこで「脇」へ「退く」。「ひざを屈した」は「遊ぼう」「だめだよ。畑へ行かないと」「残念だなあ」の残念をあらわしているかもしれない。がっくりとひざを落として残念がる姿を「ひざを屈する」と書いているのかもしれない。
 そのとき、「友(ふたり)」に「わたし」はどう見えたか。認識されたか。「わたし(江代)」は母と畑仕事をする。「わたし」ひとりが認識されたのか、母とふたりが認識されたのか、母とふたりの「そのうちのひとり」として認識されたのか。
 「認識する」の主語は「友(ふたり)」であると同時に、どう「認識されたか」を意識する「わたし」というものを浮かび上がらせる。
 「認識する」か「意識する」か。
 ここに微妙で、同時に絶対的な「切断」がある。「切断」と同時に「接続」がある。「友(ふたり)」の「認識」を「意識する」とき、「友の認識」はほんとうに「友の認識」なのか、「わたし」の思い込み(意識)にすぎないのか。これを区別することは、できない。たとえば、「友(ふたり)」が「江代(わたし)が母と畑仕事をしていた」ことについては「何も思わなかった」と否定すると、「友の認識」は存在したといえるのか。それは「わたし(江代)」の意識の中だけで存在したのではないのか。
 ことばは、こういう問題を、はっきりとは「断定」できない。ことばと同時に何かがいっしょに動くだけである。「考える」が動くのである。ことばは「考える」ためにある。ことばなしには「考えられない」から、こういう問題が起きる。江代は「考える」ということばはつかわず「想起(する)」と言っているが。
 で。
 ちょっと飛躍するが、ここから詩はさらに展開する。
 いや、飛躍するといった方がいいか。
 前の一行を重複させて引用する。

ひざを屈したかれらに合わせ脇のほうへ退くと
一軒の白い家の なじんだ外壁に添いつづけ
こちらにもかかわるような枝の葉が
くらく淡い影をおとした道の半ばへも伸びひろがり
それが改めて
あたりの手本になったように思えてくる

 「意識(認識)」と「情景(存在)」の関係が複雑になる。「融合」してしまう。とけあって、混沌としてくる。混沌の中から「意識」が瞬間瞬間に飛び出し、それが「ことば」になる。その「ことば」が存在を生み出し、同時に「意識/認識/精神」を生み出すという感じだ。
 「動詞」を手がかりに「ひと/わたし(江代)」と「存在(もの/風景)」のつながりを追ってみる。
 「退く」の主語は「わたし」。そうすると「添いつづける」の主語も「わたし」だろうか。「わたし」は白い家の壁(白壁?)に添いながら(沿いながら)歩くかたちで、「かれら(友ふたり)」から離れる。退く。友から離れて畑で待つ母の所へゆく「わたし」の姿が思い浮かぶ。
 だが「添いつづける」の主語は「枝の葉」のようにも思われる。「外壁」は「塀の壁」かもしれない。白い家の庭から伸びてきた枝。それが「外壁(塀の壁)」に添って、伸びている。
 なぜ、ここで「添いつづける」(添う)という動詞が動くのか。「添う」という動詞をつかうとき、「わたし(江代)」の意識の中では何が動き、何を生み出そうとしているのか。
 「くらく淡い影をおとした道の半ばへも伸びひろがり」は単なる「風景」ではない。「くらく淡いかげ」は、「道」に落ちているだけではない。「わたし(江代)」の意識にこそ落ちている。「道」は「歩く」ところ、「歩いている」のは「わたし」。「道」は「歩く」という「動詞」を中心にして「わたし」と結びつき、「わたし」そのものになる。友ふたりから離れ、母の仕事を手伝いにゆく「わたし」に「寄り添う」ように、その「枝の葉」「枝の葉」のつくりだす「影」が広がってくる。「こちらにもかかわってくる」という表現が、「添う」ではなく「寄り添う」と思わずことばをおぎなってしまわざるをえない形で影響してくる。響いてくる。「かげ」につながる「動詞」は最初は「おとした(落とす/落ちる)」という否定的なニュアンスをもったものから「伸びひろがる」という肯定的なものを含んだものにかわっている。これも「こちら=わたし/江代」に「かかわる」の「かかわる」という動詞が押し広げるニュアンスだ。これは、「枝の葉のかげ」の認識の仕方と同時に、「わたし(江代)」の「こころ」そのものが変化していることをあらわしている。
 友と遊ぶことができない。母の畑仕事の手伝いをしないといけない。これは幼い子どもにとってはつらく悲しい記憶だ。「貧乏」の恥ずかしい思い出でもある。(私は貧農の子どもなので、どうしても、そう考えてしまう。遊んでいる、遊びにゆく友を見ながら、見られないよう避けながら、退くように、畑へゆく、というのはつらいだけでなく、なんとなく恥ずかしい。)
 でも、枝の葉が「外壁」に添うように枝を伸ばしてくるとき、それは同時に「わたし(江代)」に向けて、気持ちを支えるように伸ばされた「手」のようにも感じられる。
 最終行の「手本」は、「わたし(江代)」に向かって「伸びひろがり」つづける枝のことか、母の仕事を手伝いにゆく「わたし(江代)」のことか。「江代くんはえらいね、遊んでばかりいるんじゃなくて、おかあさんの仕事を手伝いにゆく」と、どこかで誰かが語っているのかもしれない。「誰か」ではなく「枝の葉」かもしれないけれど。いや、そうではなくて、この詩を読んだ「読者(私)」かもしれない。「わたし(江代)」が読者になって、遠い過去を思い出しているのかもしれない。「想起」しているのかもしれない。
 こんなふうに、私は「あれやこれや」を考えた。私のことばに「結論」はない。いつものことだが。

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北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
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