井坂洋子「キューピー」(「現代詩手帖」1月号)
井坂洋子「キューピー」は三歳のときの記憶。海辺の岩場を走って、足を切ったときのことだろう。
後半の、二字下げの「満たされて」という一行がとてもおもしろい。とても複雑だ。ここに「何」が省略されているのか。「何が」満たされたのか。
どう思います? どう「妄想」します?
私は、
この二行の部分に注目して、「妄想」する。「誤読」する。
「母は」という主語は「先に行ってしまう」という動詞につながる。「学校文法」の感覚では、
の方が「正しい作文法」ということになると思う。「面白い」と感じているのは「三歳の私」。「先に行ってしまう」のは「母」。「母は」の位置を変えた方が、それぞれの一行に主語と動詞が緊密につながる。わかりやすい。
でも、井坂は、そうは書かない。
なぜだろう。
イソギンチャクに指を入れるとしゅうっとしぼむ。「面白いよ、お母さん、ほらみて」と三歳の私はいいたい。注目されたい。でも「お母さん」と呼びかけようとして顔を上げたら、母は「先に行ってしまっている」。
「面白い」を「母」に告げたい、三歳の意識の中では、その「面白いを告げたい気持ち」と「母」はしっかり結びついている。だから「一行」になっている。
けれど「現実」は、「母」は三歳の私のことを無視して、「先に行ってしまう」。
三歳の私はおいてきぼりだ。
断絶/切断がある。
このときの「気持ち」が「改行」のあり方にあらわれている。
「母」はきっと、「海」にも「イソギンチャク」にも「三歳の私」にも関心がない。もっと重要な「何か」に関心がある。
それは「三歳の私」には不満だ。直感的に不満。あるいは「肉体的に不満」といえばいいのか、ことばにできない不満がある。
でも、どう伝えていいのかわからないので、置いてきぼりにならないように、走り出す。そして倒れる。ふじつぼで足を切ったのか。イソギンチャクに足をとられたのか。バンザイをするキューピーの形で。そして、大声で泣く。その声は生まれてから三歳までに泣いた分よりももっと多い。力一杯、泣いている。痛いのではない。「母」を呼んでいるのだ。
「母」は驚いてもどってくる。抱き起こす。このとき「三歳の私」は「母」をとりもどした。「母」の愛に満たされたのだ。
で。
私は「書いていないこと」を想像するのが大好きだ。
このときの「母」は、きっと「三歳の私」とふたりで海へ行ったのではない。そこに「父」がいたのでもない。「父」ではない「男」がいたのだ。「母」はその「男」といっしょにいることがうれしくて「気もそぞろ」になっている。「三歳の私」を忘れている。
それが「三歳の私」には気に入らない。
イソギンチャクはたしかに面白い。けれど、その面白さを「母」が共有してくれない。「母」は「気持ち」を「男」と共有している。「三歳の私」とではなく。
それが「三歳の私」には気に入らない。
でも、けがをした。血が流れた。母が驚き、あわてる。「三歳の娘」にかけより、病院へかけこむ。このとき、「三歳の私」は自分の「泣き声(悲鳴)」が自分のまわりをぐるぐるまわるのを感じると同時に、自分を中心にして「母」がぐるぐるまわっている。右往左往しているということを、「生誕から今まで」の記憶から思い出しているかもしれない。「何周も往復する」のは「悲鳴(泣き声)」だけではない。
だから「満足」。「満たされる」。自分が「中心にいる」。
病院のベッドで「かいこう」するのは、「血」だけではない。「母」とも「かいこう」している。出会いなおしている。
これは「父」には言えない秘密。
最終行は、このままでは「非現実的」。窓から「雲が沸いている」のが見えたではない。きっと「へやの壁の隅」に「雲」が湧いていたのではなく、「三歳の私のこころ」のなかに「輝かしいもの」が湧いていたのだろう。
「勝利」の喜びのようなものが。
「三歳の私」は「見知らぬ男」に勝っただけではない。そのとき「三歳の私」は書かれていない父といっしょに「見知らぬ男」に勝った。そして、家族を守った。
そんなことを感じさせるものが「改行」と「二字下げ」の工夫に隠れている。
井坂の「書いていること」は違うかもしれないが、私が「聞いたこと(読んだこと)」は、そういうことである。
*
「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
(12月号は、いま制作中です。完成次第、お知らせします。)
詩はどこにあるか11月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
井坂洋子「キューピー」は三歳のときの記憶。海辺の岩場を走って、足を切ったときのことだろう。
ふじつぼの硬い殻を
足うらに感じながら
三歳をあるいた
イソギンチャクに指をつっこむと
しゅうといってしぼむのが面白い 母は
気もそぞろに歌うような調子で先に行ってしまう
後姿を追って 岩場をはしって
突っ伏した
キューピーのように両手を裂けるほど開いて
じぶんの悲鳴が生誕から今までを
何周も往復するのを聞いた
満たされて
ガーゼの上ににじむ
血とはじめて かいこうした
伸び縮みするゴムのような頭にもホータイが巻かれ
へやの壁の隅に 雲が湧いていた
後半の、二字下げの「満たされて」という一行がとてもおもしろい。とても複雑だ。ここに「何」が省略されているのか。「何が」満たされたのか。
どう思います? どう「妄想」します?
私は、
しゅうといってしぼむのが面白い 母は
気もそぞろに歌うような調子で先に行ってしまう
この二行の部分に注目して、「妄想」する。「誤読」する。
「母は」という主語は「先に行ってしまう」という動詞につながる。「学校文法」の感覚では、
しゅうといってしぼむのが面白い
母は気もそぞろに歌うような調子で先に行ってしまう
の方が「正しい作文法」ということになると思う。「面白い」と感じているのは「三歳の私」。「先に行ってしまう」のは「母」。「母は」の位置を変えた方が、それぞれの一行に主語と動詞が緊密につながる。わかりやすい。
でも、井坂は、そうは書かない。
なぜだろう。
イソギンチャクに指を入れるとしゅうっとしぼむ。「面白いよ、お母さん、ほらみて」と三歳の私はいいたい。注目されたい。でも「お母さん」と呼びかけようとして顔を上げたら、母は「先に行ってしまっている」。
「面白い」を「母」に告げたい、三歳の意識の中では、その「面白いを告げたい気持ち」と「母」はしっかり結びついている。だから「一行」になっている。
けれど「現実」は、「母」は三歳の私のことを無視して、「先に行ってしまう」。
三歳の私はおいてきぼりだ。
断絶/切断がある。
このときの「気持ち」が「改行」のあり方にあらわれている。
「母」はきっと、「海」にも「イソギンチャク」にも「三歳の私」にも関心がない。もっと重要な「何か」に関心がある。
それは「三歳の私」には不満だ。直感的に不満。あるいは「肉体的に不満」といえばいいのか、ことばにできない不満がある。
でも、どう伝えていいのかわからないので、置いてきぼりにならないように、走り出す。そして倒れる。ふじつぼで足を切ったのか。イソギンチャクに足をとられたのか。バンザイをするキューピーの形で。そして、大声で泣く。その声は生まれてから三歳までに泣いた分よりももっと多い。力一杯、泣いている。痛いのではない。「母」を呼んでいるのだ。
「母」は驚いてもどってくる。抱き起こす。このとき「三歳の私」は「母」をとりもどした。「母」の愛に満たされたのだ。
で。
私は「書いていないこと」を想像するのが大好きだ。
このときの「母」は、きっと「三歳の私」とふたりで海へ行ったのではない。そこに「父」がいたのでもない。「父」ではない「男」がいたのだ。「母」はその「男」といっしょにいることがうれしくて「気もそぞろ」になっている。「三歳の私」を忘れている。
それが「三歳の私」には気に入らない。
イソギンチャクはたしかに面白い。けれど、その面白さを「母」が共有してくれない。「母」は「気持ち」を「男」と共有している。「三歳の私」とではなく。
それが「三歳の私」には気に入らない。
でも、けがをした。血が流れた。母が驚き、あわてる。「三歳の娘」にかけより、病院へかけこむ。このとき、「三歳の私」は自分の「泣き声(悲鳴)」が自分のまわりをぐるぐるまわるのを感じると同時に、自分を中心にして「母」がぐるぐるまわっている。右往左往しているということを、「生誕から今まで」の記憶から思い出しているかもしれない。「何周も往復する」のは「悲鳴(泣き声)」だけではない。
だから「満足」。「満たされる」。自分が「中心にいる」。
病院のベッドで「かいこう」するのは、「血」だけではない。「母」とも「かいこう」している。出会いなおしている。
これは「父」には言えない秘密。
へやの壁の隅に 雲が湧いていた
最終行は、このままでは「非現実的」。窓から「雲が沸いている」のが見えたではない。きっと「へやの壁の隅」に「雲」が湧いていたのではなく、「三歳の私のこころ」のなかに「輝かしいもの」が湧いていたのだろう。
「勝利」の喜びのようなものが。
「三歳の私」は「見知らぬ男」に勝っただけではない。そのとき「三歳の私」は書かれていない父といっしょに「見知らぬ男」に勝った。そして、家族を守った。
そんなことを感じさせるものが「改行」と「二字下げ」の工夫に隠れている。
井坂の「書いていること」は違うかもしれないが、私が「聞いたこと(読んだこと)」は、そういうことである。
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クリエーター情報なし | |
筑摩書房 |
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「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
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