詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「キューピー」

2018-01-06 09:55:05 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「キューピー」(「現代詩手帖」1月号)

 井坂洋子「キューピー」は三歳のときの記憶。海辺の岩場を走って、足を切ったときのことだろう。

ふじつぼの硬い殻を
足うらに感じながら
三歳をあるいた
イソギンチャクに指をつっこむと
しゅうといってしぼむのが面白い 母は
気もそぞろに歌うような調子で先に行ってしまう
後姿を追って 岩場をはしって
突っ伏した
キューピーのように両手を裂けるほど開いて
じぶんの悲鳴が生誕から今までを
何周も往復するのを聞いた
  満たされて
ガーゼの上ににじむ
血とはじめて かいこうした
伸び縮みするゴムのような頭にもホータイが巻かれ
へやの壁の隅に 雲が湧いていた

 後半の、二字下げの「満たされて」という一行がとてもおもしろい。とても複雑だ。ここに「何」が省略されているのか。「何が」満たされたのか。
 どう思います? どう「妄想」します?
 私は、

しゅうといってしぼむのが面白い 母は
気もそぞろに歌うような調子で先に行ってしまう

 この二行の部分に注目して、「妄想」する。「誤読」する。
 「母は」という主語は「先に行ってしまう」という動詞につながる。「学校文法」の感覚では、

しゅうといってしぼむのが面白い
母は気もそぞろに歌うような調子で先に行ってしまう

 の方が「正しい作文法」ということになると思う。「面白い」と感じているのは「三歳の私」。「先に行ってしまう」のは「母」。「母は」の位置を変えた方が、それぞれの一行に主語と動詞が緊密につながる。わかりやすい。
 でも、井坂は、そうは書かない。
 なぜだろう。
 イソギンチャクに指を入れるとしゅうっとしぼむ。「面白いよ、お母さん、ほらみて」と三歳の私はいいたい。注目されたい。でも「お母さん」と呼びかけようとして顔を上げたら、母は「先に行ってしまっている」。
 「面白い」を「母」に告げたい、三歳の意識の中では、その「面白いを告げたい気持ち」と「母」はしっかり結びついている。だから「一行」になっている。
 けれど「現実」は、「母」は三歳の私のことを無視して、「先に行ってしまう」。
 三歳の私はおいてきぼりだ。
 断絶/切断がある。
 このときの「気持ち」が「改行」のあり方にあらわれている。
 「母」はきっと、「海」にも「イソギンチャク」にも「三歳の私」にも関心がない。もっと重要な「何か」に関心がある。
 それは「三歳の私」には不満だ。直感的に不満。あるいは「肉体的に不満」といえばいいのか、ことばにできない不満がある。
 でも、どう伝えていいのかわからないので、置いてきぼりにならないように、走り出す。そして倒れる。ふじつぼで足を切ったのか。イソギンチャクに足をとられたのか。バンザイをするキューピーの形で。そして、大声で泣く。その声は生まれてから三歳までに泣いた分よりももっと多い。力一杯、泣いている。痛いのではない。「母」を呼んでいるのだ。
 「母」は驚いてもどってくる。抱き起こす。このとき「三歳の私」は「母」をとりもどした。「母」の愛に満たされたのだ。
 で。
 私は「書いていないこと」を想像するのが大好きだ。
 このときの「母」は、きっと「三歳の私」とふたりで海へ行ったのではない。そこに「父」がいたのでもない。「父」ではない「男」がいたのだ。「母」はその「男」といっしょにいることがうれしくて「気もそぞろ」になっている。「三歳の私」を忘れている。
 それが「三歳の私」には気に入らない。
 イソギンチャクはたしかに面白い。けれど、その面白さを「母」が共有してくれない。「母」は「気持ち」を「男」と共有している。「三歳の私」とではなく。
 それが「三歳の私」には気に入らない。
 でも、けがをした。血が流れた。母が驚き、あわてる。「三歳の娘」にかけより、病院へかけこむ。このとき、「三歳の私」は自分の「泣き声(悲鳴)」が自分のまわりをぐるぐるまわるのを感じると同時に、自分を中心にして「母」がぐるぐるまわっている。右往左往しているということを、「生誕から今まで」の記憶から思い出しているかもしれない。「何周も往復する」のは「悲鳴(泣き声)」だけではない。
 だから「満足」。「満たされる」。自分が「中心にいる」。
 病院のベッドで「かいこう」するのは、「血」だけではない。「母」とも「かいこう」している。出会いなおしている。
 これは「父」には言えない秘密。

へやの壁の隅に 雲が湧いていた

 最終行は、このままでは「非現実的」。窓から「雲が沸いている」のが見えたではない。きっと「へやの壁の隅」に「雲」が湧いていたのではなく、「三歳の私のこころ」のなかに「輝かしいもの」が湧いていたのだろう。
 「勝利」の喜びのようなものが。
 「三歳の私」は「見知らぬ男」に勝っただけではない。そのとき「三歳の私」は書かれていない父といっしょに「見知らぬ男」に勝った。そして、家族を守った。

 そんなことを感じさせるものが「改行」と「二字下げ」の工夫に隠れている。
 井坂の「書いていること」は違うかもしれないが、私が「聞いたこと(読んだこと)」は、そういうことである。

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林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
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