詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

初笑い(のち、怒り爆発)

2018-01-03 19:19:02 | 自民党憲法改正草案を読む
初笑い(のち、怒り爆発)
             自民党憲法改正草案を読む/番外161(情報の読み方)

 2018年01月03日読売新聞(西部版・14版)1面の見出し。

新元号 少ない画数に/政府方針 1文字15画上限

 本文には、こう書いてある。

 政府は、皇太子さまの即位に伴う2019年5月1日の改元を巡り、新たな元号は画数ができるだけ少なく、なじみやすい漢字を用いる方針だ。国民の「元号離れ」を防ぐ狙いがある。

 もっともらしく聞こえるが、「嘘だろう」と私は言ってしまう。「キラキラネーム」というらしいが、いまの若い人は、どう読んでいいのかわからないような漢字をこどもの名前につけている。私の感覚で言えば「なじみにくい漢字」だ。私のような老人には「なじみにくい漢字」が好まれている。
 「元号」をつかうのはもっぱら「老人」だから、「老人」になじみやすい漢字をつかい、「老人」の元号離れを防ぐということかもしれない。あるいは「云々」を読めない安倍のために簡単な漢字の元号が必要ということなのか。
 若者のことは知らないが(私以外の老人のことも知らないが)、若者が「元号離れ」をしているのなら、簡単な漢字をつかったからといって「元号」にもどってくるとは思えない。「平成」は2文字で「11画」。もし、「画数」が大事なら「1文字15画以内」は「平成」よりはるかに複雑。「2文字11画以内」にしないと。
 若者はさておき、老人である私は「平成」になってから、「平成」を自分からつかったことがない。「昭和」と結びつけて「年数」の計算をするのがややこしいからである。私は50歳をすぎたころから自分の年齢を間違えるようになった。気にしなくなったからである。どうしても思い出さないといけないときは、「昭和」と「平成」をつかって考えるのではなく、西暦を利用している。簡単だからね。
 国民の「簡便さ」を考えるなら、年号なんかやめてしまえばいい。年月の数え方に二種類あるのは面倒くさい。ひとつにすれば、とても簡単なのに。便利なのに。
 そういうことと関係するのだが。

 新元号のアルファベットの頭文字は、明治(M)、大正(T)、昭和(S)、平成(H)と重ならないようにする方針だ。官民でつかわれる書類の年号表記がアルファベットの頭文字となっている場合があり、混乱を避けるためだ。

 ここで、私は笑いが止まらなくなった。
 「政府」というのは具体的にだれのことを指しているのか知らないが、頭文字(アルファベット)以外に年号の識別方法がないわけではないだろう。「官民でつかわれる書類の年号表記がアルファベットの頭文字となっている場合があり」ということは、アルファベットの頭文字を使用していない官民もあるということだろう。同じ頭文字で区別ができないと思うなら、それぞれが工夫するだろう。それくらいは面倒でもなんでもない。「書類」には最初から「M、T、S、H」が印刷されているのだろう。それを「明、大、昭、平」の一文字にすればいいだけである。「M、T、S、H」なら明治、大正、昭和、平成の略(頭文字)だとわかるが、「明、大、昭、平」の一文字だと「これはどういう意味ですか?」と国民の誰かが聞くとでも思っているのだろうか。
 天皇が死んで、その結果、天皇が交代し、新しい「年号」になるというのなら、まだ、最初の内は「混乱する」ということがあるかもしれないが、前もって「年号」を発表するのだから、それがどんな「年号」になろうが、だれも混乱しないだろう。国民の混乱を避けるために、前もって「年号」を発表するのではなかったのか。

 で、ここから私は妄想するだが。

 なぜ、こんなにあたふたと「新元号」のことを重大事のように騒ぐのだろう。その口実に「国民」を引き合いに出すのだろう。
 これは国民のためなんかではない。
 「退位/即位」も、最初は「国民の混乱を防ぐ」という口実で「1月1日」が政府の方針だったはずだ。宮内庁から「1月1日は忙しいからむり」と難色を示されて、変更することになった。「4月1日」が「年度がわり」で国民には馴染みがあるが、政府は「5月1日」にした。統一地方選があるためだ。選挙に「退位/即位」が影響するのを恐れたのだ。「静かな環境で退位/即位」というのが政府の方便だが、民主主義というのは「うるさい」のが基本。選挙は「民主主義」の根幹。与野党のせめぎあいのさなかに天皇が交代するのは、私なんかは、わくわくするようなおもしろいことだと思う。
 「天皇」は「象徴」だが、「象徴」は「自動的」に「象徴」になるのではない。国民が天皇を「象徴」にするのである。
 憲法には、

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 と書いてある。「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とは、国民の総意がなければ、だれも「天皇=象徴」という「地位」にはつけないということである。
 「天皇は」という書き出しのために、「主語」が天皇であると錯覚しがちだが、憲法の「主語(主役)」は常に「国民」である。
 「国民の総意」が天皇を「象徴」にするのである。天皇は「国民の総意」をくみながら「象徴」になる。
 「基く」という「動詞」を読み落としてはならない。
 少し脱線したが。
 なぜ、こんなにあたふたと「新元号」のことを重大事のように騒ぐのだろう。
 安倍が、いまの天皇の存在をはやく消してしまいたいと思っているからだと、私は判断している。
 憲法を改正するにあたって、「護憲派」の天皇の存在を国民が意識するようでは困るのだ。安倍は、護憲派天皇の姿を国民から消してしまいたいのだ。戦争の歴史を反省し、平和を祈るいまの天皇の姿が国民の意識に強くのこっていると、戦争へ向けての憲法改正ができない。だから、天皇の存在を消そうとしている。
 「天皇の悲鳴」に書いたことだが、天皇が戦争の犠牲者に対して深く哀悼のことばを語るのに対して、安倍は「御霊」を追悼するだけである。「御霊」とは戦場で死んで言ったひとだ。安倍は国民を「御霊」にしたがっている。防衛大学での訓示が象徴的である。安倍は「自衛隊員」を「片腕」と呼んでいる。安倍の「片腕(肉体)」にしようとしている。安倍は戦場から離れた場所で指揮をとり、自衛隊員が安倍のかわりに戦場で死ぬ。「御霊」ということばと引き換えに。
 いったい戦場で死んで「御霊」になりたいひとがいるのだろうか。
 新聞を読んでいる内に、「初笑い」が「初怒り」になった。


 




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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田原「小説家 閻連科に」

2018-01-03 09:20:21 | 詩(雑誌・同人誌)
田原「小説家 閻連科に」(「現代詩手帖」1月号)

 田原「小説家 閻連科に」を読みながら、田原にとって閻連科とはどういうふうに見えているか考えてみた。

故郷からの一本のロープ
いくら旅して遠く離れても
目に見えない力で
あなたの魂を引っ張る

 ここから閻が「故郷」の生まれであることがわかる。「故郷」は「都会」と対極にあるものだろう。都会に出てきても、魂は「故郷」にある。これは、田原の姿かもしれない。田原がそうであるから、閻の魂が「故郷」に引っ張られるのを感じ取ることができるだろう。
 でも「一本のロープ」とは何だろうか。
 「故郷は一本のロープ」ではなく「故郷からの一本のロープ」と書いている。

 「ロープ」と「比喩」で呼ばれたものが、次の連から具体的に書き直される。

低い藁ぶきの屋根は
狭い庭を際立たせる
老いた楡の木の実は
飢餓を満たす

 「故郷」は「低い藁ぶきの屋根」の家。庭は狭い。ひとは楡の木の実を食べて飢餓を満たす。「もの(藁ぶき屋根)」だけではなく「狭い庭」の「狭い」という「こと」、「楡の実」で飢えをしのいだという「こと」が「故郷」である。
 田原もまた同じことを体験したのだろう。閻の「肉体」に田原は田原の「肉体」を重ねている。

門口のぬかるむ小道が
あなたの生長を記した
遠方の町は
唯一の憧れ

 「遠方の町」に「憧れる」、その「憧れる」という「動詞」が「故郷」なのだ。「肉体」のつぎに「こころ」を重ねている。共有している。田原もまた「遠方の町」に憧れたことがあるのだ。

村はずれの田沼は涸れ
ようやく意味を表す
鳥の巣の卵はすべて取り出され
木はさびしくてたまらない

 これは何だろう。
 「意味」は「肉体(飢餓)」と「精神(憧れ)」の拮抗から動き出すもの。ことばによって初めてつかみとることができる「真実」である。
 田原は、これを「鳥の巣」以下の二行で言いなおしている。
 「故郷」を出る。それは、「故郷」の側から見れば、「鳥の巣の卵」を失った「木」になるということだろうか。さびしいという感情、それが「意味」だ。隠れていたものがあらわれてきたのだ。「木」を「肉親(家族)」、「鳥の巣の卵」を閻、あるいは田原と読み直すこともできるかもしれない。
 私は閻の履歴も田原の履歴も知らないから思いっきり「誤読」する(妄想する)のだが、閻も田も「肉親」を「故郷」に残して、「遠い町(都会)」へ出てきたのかもしれない。
 「故郷」では「肉親」が「巣の卵」をなくしてしまった木のようにさびしさをかかえて生きている。それが田原には「わかる」のだろう。
 自分だけの「視点」で世界を見つめるのではなく、自分をみつめる他者(といってもつながりのあるひと、たとえば肉親)の視点からも世界を見つめる。
 そうすると、世界が「立体的」になる。
 このような連を含んでことばはつづき、

あなたは一艘の船
現実と虚構の間を渡る
あなたは一つの炭
自分を燃やし尽くしても、厳寒を追い払えない

 「現実と虚構」というのは、しかし、ふつうに言うような「現実と嘘(空想)」とは違うと思う。
 先に引用したことばに結びつけて言うと「現実」を「私(閻、田原)」とするなら「虚構」は「故郷の肉親」である。それも「現実」である。ただし、「私」が直接「肉体」でつかみとる「現実」ではなく、「他者」を見ることによってつかみ取る(一緒に生きることでつかみ取る)もうひとつの「現実」である。
 私は、「虚構」を「他者」と読みたいのだ。
 「現実」は「虚構」によって、その本質を浮かび上がらせる。小説は「虚構」を利用して「現実」のなかに潜む「真実」を暴き出すものという見方がある。その見方を流用すれば、「私(自己)」は「他者」をとおして「本質」をつかむ。「他者」をとおして「自己(私)」の「本質」をつかみなおすということになる。木がさびしいなら、鳥も(卵も、卵から孵って、飛び立っていく小鳥も)さびしいのだ。
 そのとき、その「現実と虚構」「自己と他者」というのは、「固定化」できないものである。相互を「渡る」ことで、瞬間瞬間に姿をあらわすものである。「現実」は「虚構」であり、「虚構」は「現実」である。「私(自己)」と「他者」であり、「他者」は「自己(私)」である。
 ふたつのあいだを激しく往き来しながら、往き来する(渡る)という「動詞」が浮かび上がる。「動詞」のなかに、「現実(私)」と「虚構(他者)」が結びつき、ただ「消尽」する。
 そう作家の姿をスケッチした後、

積み重ねた原稿用紙は耕した田んぼ
あぜ道を縦横に通って宇宙と繋がる
母語は絶対的なもの
それを超えるのは
文学その現実と魔術の翼

 という連がある。
 「母語は絶対的なもの」という一行に、私は「嫉妬」してしまう。
 「自己(私)」と「他者(肉親)」をつないでけっして放さないものが「母語」である。「現実」と「虚構」を結びつけて放さないのが「母語」である。
 「母語」のなかには「音」がある。共有された「ことばの動き(ことばの肉体)」がある。「意味」を突き破って動いていく「比喩(イメージ)」がある。「論理」をたたき壊す「激情」がある。
 これは中国語を「母語」としない私には触れることのできない「いのち」である。
 「母語」とは「現実(肉体/いのち)」であり、「文(文章)」とは「虚構(意味/精神)」である、とも言える。
 「意味(ストーリー)」なら翻訳でもたどることができる。しかし、「母語」がもっている「音」の力、「音」が抱え込む「暴力」のようなものは、私にはつかみとれない。触れることさえできない。
 その「一端」は閻の小説を読めば「知る」ことができる。音(音楽)に対する敏感な肉体が描かれている。だが、それは「わかる」とは言えない。
 閻の小説は、田原が書いているように「魔術」(魔法)のようなものである。
 しかし、その「魔術」を私は「ストーリー」として読むのであって、「声(音)」、いいかえると「音楽」として感じ取るのではない。
 田原は「音(音楽)」に反応していると思う。「音(音楽)」が「母語」という「意味」以前のものを「絶対」と呼ぶところにあらわされている。
 田原には、あたりまえかもしれないが「母語」が見えている。聞こえている。「母語」をとおして、閻と「肉体」を重ね、「激情」を重ね、「体験」を重ね、生きている。
 それが詩のことばのいたるところに感じられる。

 こういうことは「嫉妬」してもしようがないことである。
 しかし、「母語」として、閻のことばを読む(聞く)ことができるというのは、やはりうらやましい。閻の『硬きこと水のごとし』を読んだ直後なので、そう感じた。

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北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
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