詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

壱岐梢『一粒の』

2018-01-15 08:18:58 | 詩集
壱岐梢『一粒の』(土曜美術出版販売、2017年6月27日発行)

 壱岐梢『一粒の』は「碑門谷病院」という作品が印象に残る。

あ、と思ったとたん
車は
碑門谷病院の前を
通りすぎた

救急車に飛び乗り
母だけを見て
辿りついた場所場所
どこに在るかなんて
覚えていなかった

 「覚えていなかった」は「意識していなかった」。意識が母親だけに集中している。ほかのものが見えない。だからこれは「母だけを見て」の「見て」という動詞をつかって「見ていなかった」と言いなおすことができる。
 「見ていなかった」けれど、その場所を「肉体」は覚えている。
 「肉体」は何を「覚えている」のか。

母が温かいからだで入り
十時間ののち
冷たいからだで
出ていったところ
わたしが
ふいに
つまずいたところ

 「つまずいた」を覚えている。
 「温かいからだ」「冷たいからだ」は「肉体」で覚えているというよりも「意識」でおぼえていることだ。「十時間」ということばが「意識」を強く感じさせる。それは、あとから「意識」したことがらだ。
 「肉体」が覚えているのは「つまずいた」こと、「つまずいた」ところ。
 ここには書かれていないが、この「つまずいたところ」には「時間」が含まれていると思う。
 いつ、つまずいたのだろう。
 私は想像するだけだが、「入る」ときに「つまずいた」のだと思う。「つまずいて」、あっと思う。「つまずいた」瞬間、「肉体」が母親の「肉体」の何かとつながった。母親の「肉体」のなかの変化が、壱岐の「肉体」の遺伝子に響いて、壱岐の「肉体」が「つまずく」。非科学的なことというかもしれていが、そういうことが「肉親」の間ではおきるものである。「あっ」という感覚は、「肉体」の、ことばにできない変化である。絶対的なつながり(ひとつ)の感覚の発見である。
 「つまずいた」は「肉体」であると同時に「精神/意識」でもある。母親の「肉体」と伊木自身の「肉体」の「つながり」を意識したのである。

 車は何事もなく通りすぎたのだけれど、意識がそのとき「つまずいている」。その瞬間に母親の「肉体」が「見える」。

母がよく座った
となりの席に
洗剤や牛乳
なんか乗せて

車は走る

 車は、壱岐が運転しているのだろう。ここがどことは強く意識せずに車を走らせている。でも、意識しなかった何かがふいに「つまずかせる」。
 何かが見えなくて「つまずく」ということが起きるが、いまは、助手席の洗剤や牛乳が見える。そこには見える洗剤や牛乳ではなく、見えない母親もいる。目では見えないが「肉体」が感じる。そういうことも、起きていると思う。

 「肉体」の無意識の「反応」が、とても自然な形で書かれている。
一粒の
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売


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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


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