詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍の天皇政策(沈黙押し付け作戦)

2018-01-09 16:38:07 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の天皇政策(沈黙押し付け作戦)
自民党憲法改正草案を読む・番外篇(情報の読み方164)

 2018年1月9日読売新聞夕刊(西部版・4版)の一面見出し。

退位儀式 3月に方針/政府 準備委が初会合

 2019年4月30日の天皇退位、5月1日の皇太子即位の式典をどう進めるか、その準備委が開かれたという内容。
 この記事で注目したのは、次の部分。

 最大の焦点は、象徴天皇制の下で初となる退位の儀式の形式だ。政府は憲法に基づく国事行為とする方向で、天皇の政治的関与を禁じた憲法4条との兼ね合いが課題となる。1817年の光格天皇以前の退位の儀式は、天皇と新天皇が同席して皇室に由緒ある品々を譲り渡す形式が多いが、政府内では「自らの意思で皇位を譲ると受け止められる形式は憲法上問題がある」(首相官邸関係者)との見方が強い。

 後半の、「憲法上問題がある」に私は違和感を覚える。発言内容は、ごく当たり前のこと(当然のこと)だが、発言者が「首相官邸関係者」となっている。
 憲法学者をはじめとする識者の発言なら、憲法に配慮する必要があると指摘しているととらえることができるが、「首相官邸関係者」では事情が違う。
 安倍は、あくまで「譲位」を否定したい。天皇の意思を否定したい。天皇から「意思」というものを剥奪し、天皇を「沈黙」させようとしている。
 これは「生前退位」報道が籾井NHKによって報道された時から一貫している。
 天皇(宮内庁)関係者の間では、「生前退位」ということばが使われていなかった。これは皇后が誕生日の談話で「証言(告発)」している。天皇が目指していたのは、あくまで「譲位」であり、「象徴としての務め」を皇太子に継承させることだ。年末に九州豪雨の被災地や鹿児島の離島を訪問し、国民に声をかけたのも、その「実践」である。こうしたことを皇太子に引き継いでもらいたい、という意思表示であり、また国民にその実践を印象づけるためでもあったと思う。
 安倍は、こういう実践が大嫌いである。天皇と国民が触れ合い、天皇の「人柄(思想)」が国民に支持されては、憲法を改正し、戦争を引き起こし、「最高責任者(最高監督官)」として軍隊を指揮できない。国民を「御霊」にすることができない。

 天皇は国政に関する権能を有しない。政治的行為をしてはならない。これは当然だが、憲法を逆に読み返してみる必要がある。天皇が国政に関する権能を有しないなら、天皇を国政に利用してはならないのではないのか。天皇は何もできないが、権力は天皇を利用できるというのでは、あまりにも理不尽である。
 安倍はいつでも天皇を利用している。天皇が「譲位」の意向を語ったのは、参院選後が初めてではない。それ以前に、意向を政府側に伝えていたが、政府は選挙作戦(選挙を有利に進めるため)に封印していた。参院選で大勝したから、今なら公表してもいいと判断して公表させたのである。19年の退位、即位も、「統一地方選」が不利にならないようにするために日程が調整された。

なお、読売新聞にある「首相官邸関係者」の声は朝日新聞(西部版・4版)にはない。現行憲法ではなじめてのことなので、

退位の儀式を国事行為と位置づけるかなど憲法との整合性について慎重に検討する。

とのみ書いている。
読売新聞の方が、「首相官邸関係者」の思いを直接的に伝えている、安倍の本音を伝えていると読むべきだろう。
 新聞は「細部」にこだわって読むとおもしろいねえ。

 ぜひ「天皇の悲鳴」を読み、そうした経緯を確認してみてください。
http://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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「天皇の悲鳴」大好評

2018-01-09 12:24:54 | 自民党憲法改正草案を読む
「天皇の悲鳴」は「天皇の生前退位」をめぐる「裏側」を天皇のことば、皇后のことば、安倍のことばを比較しながら、政局と関係づけて書いたものです。

実際の天皇と安倍との攻防は明らかになっていませんが、新聞などで報道されたものから推測できることを書いています。
憲法改正を強行しようとする安倍が、その裏側で何をしているか。

憲法改正の動きが活発化しているいま、ぜひ、読んで、何が起きているかを考えてください。

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伊藤浩子「帰心」

2018-01-09 11:20:49 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤浩子「帰心」(「現代詩手帖」2018年1月号)

 伊藤浩子「帰心」を読みながら、私は妙な気持ちになる。

湖底でオルガンを奏でる死んだ尼僧にさした月光が一輪の青薔
薇のように揺れている今夜にも、少年は裸足になりながら樹上
で草笛を単調に鳴らしつつ、そう言えば、幼かったころに繰り
返し伯母にせがんだ絵本の一節を思い出しながら、昨日までの
恥ずべき背徳行為に赤面し(同時にほくそ笑んでは)、そもそ
も自分に過去などなかったと胸を痛めるCm9がいっそう囂し
い。

 これが書き出し。文章が絡み合っている。絡み合うことで幻想(?)をつくりだしている。未整理の虚構、虚構の未整理のことばを読んでいる感じになる。ことばが「肉体」をくぐり抜けていない感じがして、落ち着かない。「幻想」になりきれない、「虚構」になりきれていない、と感じてしまう。
 「湖底でオルガンを奏でる」はすでに「現実」ではない。それを「死んだ尼僧」とつづけるとき、それは「死んだ尼僧が湖底でオルガンを奏でる」ということになる。「死んだ」と「湖底」を省略すると「尼僧がオルガンを奏でる」になる。これは「現実」としてありえる。実際に尼僧がオルガンを弾くところを私は見たことがないが、ひとがオルガンを弾くところは見たことがある。だから、その覚えていることに重ねるようにして「尼僧がオルガンを奏でる」をつかみ取る。それに「死んだ」と「湖底で」を重ねる。「死んだ」人間を見たことがある。「湖底」も「水の底」と「わかる」。両方とも「知っている」。私が思い出しているいろいろなもの(伊藤がことばで提示しているもの)は完全には一致しないだろうが、ここまではことばを追いかけていくことができる。
 このあと「主語」が交代する。
 「尼僧にさした月光が一輪の青薔薇のように揺れている」。「月光」が主語になる。「月光さしている」。そしてその「さしている」対象が「尼僧」である。この「月光」はただ尼僧にさし、尼僧を浮かび上がらせているだけではなく、「揺れている」。この「揺れる」という動きを「一輪の青薔薇のように」と比喩で描写している。こういう比喩の部分が、たぶん「幻想」をいちばん「幻想らしく」する。揺れているのは「月光」なのか「薔薇」なのか、断定を拒む。固定化するのではなく、両方が同時に起きているとつかみとることが必要だ。(このとき、また「青薔薇」の「青」は薔薇そのものが青いとつかみ取るだけではなく、尼僧を照らす月光が薔薇にもさしていて、その月光の光が青いのだとつかみ取ること、青を薔薇に固定するのではなく、月光そのものの本質ととらえ、それが尼僧をも、さらには湖の水、オルガンをも青く染めているととらえるべきだろう。)
 「主語」が交代するだけではなく、描写につかわれていることばが自在に他の存在に浸透してゆく。このとき、たとえば「青」という「属性」こそが「本質」なのだとつかみとりなおすことも、幻想に加担し(幻想を追体験し、共有する)、それを「真実」にまで強めるためには必要なことだ。
 伊藤のことばは、そういうことを読者に要求している。
 ここまでは、私は、まだ納得ができる。だが、それ以後が、どうもことばの運動としておかしい。私の「肉体」は納得できない。
 「月光が/揺れている」までを「今夜」の「情景」にして「少年」が新しい主語(ほんとうの主語?)として登場する。最初にあらわれた主語はつぎつぎに交代し、「情景を構成する脇役」になっていく。(この「交代劇」の連続性が、伊藤の「幻想」の特徴である、とつけくわえておこう。)
 で、その「少年」は、いくつもの「動詞」をひきつれている。少年は、つまり、いくつもの動きをするということである。ここでは「肉体」が「主語」であり、「肉体」が「動詞」をつなぎとめている。「主語」は交代せず、「動詞」が交代するというのが、「少年」が登場したあとに起こることである。
 「少年」は何を「する」か。「樹に上る(樹上にいる)」「草笛を鳴らす」(これは湖底で演奏する尼僧の音楽と響きあっている。和音をつくっている)「幼いころを思い出す(伯母に絵本を読んでくれるようにせがむ/そのときの絵本の一節を思い出す)」「昨日までの恥ずべき背徳行為に赤面し(恥ずかしい行為をした、という動詞を含む)」「ほくそ笑む」。
 さらに「自分に過去などなかったと胸を痛める」のだが、ここからまた「転調」する。「主語」が「ずれる」。
 「少年は/胸を痛める」と読みたいのだが、「少年」は「主語」にとどまってくれない。「Cm9」が「主語」になる。Cm9と何のことなのか。音楽のことはわからないが、「オルガン」「草笛」とつづいているから音楽何かをさしているのだろう。「音」そのものをさしているかもしれない。「音楽/音」が「かまびすしい」という「形容詞」で引き継がれる。「形容詞」は「用言」なので、私は「動詞」として読み直す。(私のワープロは、「かまびすしい」という漢字を正しく「表記」できないかもしれないので、ここはひらがなで代用する。口ふたつを横に並べて、下に頁、その下にさらに口ふたつという感じの漢字。)
 で。この

Cm9がいっそう囂しい。

 とは、どういうことなのか。「かまびすしい」ということばを私はつかわないのでよくわからないが(私の周辺のひともつかわないので、わからないが)、「うるさい」と同義のことばだと思っている。
 「うるさい」は「音」そのものの属性だが(あるいは本質かもしれないが)、それは聞くひと(人間、人間の肉体、耳)がいて動くことばである。「音」を人間が受け止める。そのときの人間の反応が「うるさい」と「感じる」(うるさく、聞こえる)。人間に「共有」されて「うるさい」ということばが初めて動く。
 さて、それではこのときの「うるさい」と感じている人間はだれ?
 「少年」か。「少年」が主語のままなら、「かまびすしく感じる」というような形にして「感じる」を補わないと「動詞」として成立しない。「かまびすしい」ならば、ここには明確には書かれていないが、伊藤が主語ということになる。
 そうであるなら、これはすべて伊藤が「音(?)」を聞きながら感じ取ったものを「ストーリー」にしたものと言える。「音」を視覚化し、それに「時間」を組み合わせて、幻想風にしたてたことばということになる。

 ああ、めんどうくさい、と私は本をほうりだしそうになる。
 いったい伊藤は、途中で「主語」として登場してきた「少年」に何を語らせようとしたのか。その「語ること」が現在とどういう関係にあるのか。
 関係がなくてもいいのかもしれないけれど、伊藤の「いま」がどうなっているのか、「いま」なぜこのことばなのか、その手がかりのようなもの、書きたい「欲望」を感じられない。
 どうでもいいか(どうでもよくないと思っているから書いてしまうのかもしれないが)、「恥ずべき」ということばも気になった。私は自分ではつかったことがないからわからないのだが、「恥ずべき」っていう表現は普通? 「べき(べし)」は「動詞の終止形」+「べし(べき)」ではないのか。「……するべき」という形が一般的なのではないのか。
 「動詞+主語」という「倒置形(?)」を多用しながら「主語」を交代させる文体でことばを動かすなら、こういう部分の「動詞」のつかい方にも気を配ってもらいたい。「動詞」のつかい方が、どうも「頭」だけの操作に思えてしまう。

 あ、脱線したかな?
 第一段落(?)の最後、「かまびすしい」で、主語として「書き手(伊藤)」があらわれたのかどうか、「少年」は「情景」になってしまったのかどうか、私にはわからないが、どうもおかしい。
 次の段落には、また「少年」が「主語」のようにして登場する。

時間に逸れた孤蝶が波影になんども翻り、祖父たちの声は透か
し葉になって少年を包み込み、さらなる深みへと誘うから、寂
しさに似た北風に、震え始める指先を吐息で温め、乾いた唇を
慰める角砂糖の清潔さと、獅子座流星群の灰色の痕跡が等しく
いじらしい。

 主語は「蝶」から「父祖」、「祖父の声」と変わり、「少年を包む」「深みへ誘う」という動詞でいったんしめくくられ、そこから「少年」が主語として明記されないまま、つまり「少年は」という形で表記されないまま、動き始める。指先を吐息で「温める」、乾いた唇を角砂糖で「慰める」のは「少年」だろう。
 で、これがまた、最終的には「獅子座流星群の灰色の痕跡が等しくいじらしい」と「主語」を欠いた形で閉じられる。形式的には「流星群の痕跡」が「主語」として存在するのだけれど、「いじらしい」と感じているのはだれなのか、その「ほんとうの主語」がまた書かれていない。

 どうも納得ができないのである。
 「現代詩」はことばの冒険。日本語の「文体」に囚われる必要はない、既成の文体を破壊しながら新しい文体をつくりだすということなのかもしれないが、そういうときでも「動詞」が基本にならないと人間は動けない。
 「動詞」を名詞を修飾するだけのものにして、あるいは名詞(存在)の内部を構造化し、その内部構造の中に時間(歴史)を噴出させ、「名詞」を積み重ねて言語構造物をつくってみても、私には、それは「借り物」だなあと見えてしまう。動詞で終わるのが基本形の日本語で、どんな「構築言語」が可能なのかよくわからないが、こんな奇妙な日本語を書くのなら、外国語(特に「枠構造」の強いドイツ語)でことばを動かし、自分自身の「肉体」を「外国人」にしてしまえばいいのに、と思ってしまう。

未知への逸脱のために
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目次
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林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
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