詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田代田「ヒト」

2018-01-21 08:52:58 | 詩(雑誌・同人誌)
田代田「ヒト」(「孑孑」75、2018年01月01日発行)

 田代田「ヒト」を読みながら、私は、を、うさんくさい人だなあと思う。まあ、それが「魅力」なのだが。
 何がうさんくさいかと言うと。
 思っていることと、言うことが違う。いや、最後には思っていることを言ってしまうから、これは正しくない言い方なのだが。思っていることを、思っているままの状態で持続し、最後にそれを披露する。それを言うまでは、そのことをまるで考えていないようだが、ずーっと考えている。こういう、裏表の生き方がねえ。私は、うさんくさいと思う。別な言い方をすると、「強い」ということなんだろうけれど。
 抽象的に言ってもしようがない。「ヒト」は、こんな作品。

人間は実に厄介な生き物である
という新聞の見出しが飛び込んできたのだが、
扨、
どのあたりが厄介でどなたの記事か興味はわいても朝は実にせわしなく加えて
時間も切迫していて
窓際ベッドわきの床に今朝も
夥しく広がる
放尿でできた水溜まりと格闘せねばならない作業にとりかかっていたのだった
新聞をおき広げた新聞紙を吸い取り紙にしてせっせと床の尿を拭き取る
記事を読まずともこれだけで
人間は実に厄介な生き物である
と呟いてもいるアタシなのだった

 「アタシ」はどこかの施設で介護の仕事をしているのか。朝の仕事は、床に広がる放尿の水溜まりの掃除から始まる。その仕事は「やっかいだ」。新聞で見かけた「見出し」がそのまま「アタシ」の感想になる。
 でも、この「やっかいだ」というのは新聞に書いているあ「人間は実に厄介な生き物である」と一致するかどうかはわからない。新聞の記事(見出し)が定義している「厄介」は違うものかもしれない。たぶん「違う」だろう。
 「違う」を承知していながら、それに「口裏」をあわせるようにして、うん、やっかいだと言う。そして、自分の肉体が体験している「やっかい」を語り始める。認知症の人の排尿の世話をするのは「やっかい」だ。特に、あちこちに勝手に排尿したものを掃除するのは「やっかい」だ。この「やっかい」というのは、「批判」でもあるね。
 これを、田代はさらに詳しく、具体的に語り始める。

件のオクダイラさん(♀)はベッドに腰を掛け
あーら、ごくろうさんねえ
と声をかけて下さり静かに衣類をたたんでいる隣室の
カミカワさん(♂)はクローゼットの前が水漏れしていると訴えに今日も来た
厄介なのはトイレに入ったとしても事は同じということだ
カミワカさん(♂)は便器の蓋を開けない
付きっ切りでいるわけにもいかないので油断が厄介な時を運んでくれるのだった

 「人間は厄介な生き物である」の「人間」は、ここでは「他人」になっている。しかも、それは夜中に排尿する「他人」(痴呆症の他人)、あるいはトイレを自分ひとりできちんとできない「他人」と言いなおすことができる。「他人」を批判して「やっかい」と言っていることになる。
 「アタシ(自分)」を含んでいない。「人間」という「一般的」な定義は、ここでは適用されていない。
 これが、この詩の最初のポイント。
 排尿の後始末をするというのは「アタシ」にとって「やっかい」ではあるが、その「やっかい」と実は「他人」に起因している。それは「自分」に起因していない。「やっかい」な仕事をさせられる。そういう「やっかい」な仕事を生み出す人間を「やっかい」と呼ぶ。「自分(アタシ)」とは「違う」人間を「やっかい」と呼ぶのであって、「自分(アタシ)」自身は「厄介な人間」であるとは、田代は定義していない。
 このまま終われば、この詩は、まあ、介護の仕事をしているひとの「ぐち」になる。そして、同じように介護で苦労している人の「感想」のまとめになる。
 それはそれで、ひとつの世界なのだが、田代のことばは、ここで終わらない。
 認知症の人の排尿を描写したあと、突然、飛躍する。

人間の脳というものは夜中に活動し始めていたのだろうか本来は
いつ外的に襲われるか眠ってもいられなかったのが本来の脳の仕組みかもしれない
脳が弛緩すると本来が出てくる
一人目覚め二人目覚め三人目覚め薄明かりの中で夢遊病者のごとく
出口を探して歩き回るのだ

 夜中に歩き回る(そして排尿する)のは、夜に警戒する人間の「本来(本能)」の目覚めということになる。何も気にせずに眠り続けているのは「本能(本来)」とは違った状態である。人間らしくないということになる。
 認知症になる(脳が弛緩する)と、「本能」が目覚めてくる。夜中に目を覚ます。人間は「本来(本能)」にもどってしまう。
 この「本来(本能)」にもどってしまうことを、「アタシ」は「厄介」と捉えなおす。「厄介」だけれど、それを「本来(本能)」という形で「肯定」する。「批判」が突然消えてしまう。
 そして、その「批判」をかき消す「本来」に田代は乗り移る。「接続する」というよりも、乗っ取るという感じだ。

 田代は、ずーっと「肯定」を探していたのである。
 「人間は実に厄介な生き物である」というとき、その「厄介」には「肯定」の意味はみつけにくい。たぶん「否定」の意味を感じてしまう。
 そして実際、他人の排尿のあとしまつをするというのは「厄介」というとき、ところかまわず排尿する行為を「否定」している。それを「正しい」とは受け止めていない。少なくとも、そこに「排尿されている」ということは「否定」している。そこに尿があるということを「否定」するために、後片付けをしている。
 でも、後片付けをするのは、生きている人を「否定」するためではない。生きていることを支える(肯定する)ためである。人を介護するのは、その人のいのちを肯定しているからである。ないがしろにされるいのちを肯定する、もう一度輝かせるために介護する。いのちを肯定するのが「アタシ」の仕事である。
 ここから、「いのちを肯定すること」「いのちを発見してしまうこと」を「やっかい」と言いなおしてもかまわない。なぜ、「やっかい」か。そういうことを発見してしまえば、それをしなくてはならなくなる。気づいたからには、それをする。見逃してはいけない。見捨ててはいけない。背負い込まなければならない。仕事が増える。「やっかい」だ。で、そこから先にはまだまだ書かなければならないことがあるのだが、書き始めると面倒なので省略。

 私の書きたいことは、別のこと。
 「うさんくさい」にもどる。

 田代の、「やっかい」に対するとらえ方の変化、「否定」が「肯定」に変わるまでのことばの動き(口ぶり)を振り返ってみたい。

件のオクダイラさん(♀)はベッドに腰を掛け
あーら、ごくろうさんねえ
と声をかけて下さり静かに衣類をたたんでいる隣室の
カミカワさん(♂)はクローゼットの前が水漏れしていると訴えたに今日も来た

 ここには「批判(否定)」が含まれていない。「下さり」というのは「敬語」表現である。静かな「尊敬」がある。まあ、そこまで拡大解釈する必要はないのかもしれないが、ここでは田代は「他人のことば」を受け入れている。「何を言っているんだ」というような「さめた視線」がない。受け入れることは、その人を「肯定」することである。
 田代は他者を一度も非難しないのである。だから、「肯定」へと、ぐいと入っていくことができる。
 これを「うさんくさい」と言ってはいけないのだろう。たぶん人間の「深い知恵」を体得している、「いのちを愛する強い力」と呼ぶべきものなのだろう。
 でも、私にはそういうことができないなあと思う。田代は、私にはできないことをさらりとやってのける。その「さらり」を支えている力を「うさんくさい」と感じるのは、よくないことなのだが……。
 あ、この人は(田代は)、いろいろな人を見てきているのだなあ、いろいろな人を見た上で「人間に共通するいのち」をみつめようとしている。その「いろいろい」の「幅のひろさ」が、私と田代を隔てる。この「いろいろ」から私を見つめなおされるのは嫌かもしれない。いや、「嫌だなあ」。そういう気持ちになる。で、「うさんくさい」という思いが、ふっと、わいてくる。
 別な言い方をすると。
 こんな簡単に(?)「否定」から「肯定」へと移行するなら、「肯定」から「否定」へも楽々と移行するかもしれない。油断がならないぞ、とどこかで思ってしまう。私は単純な人間なので、私を油断させてくれる、私よりも単純な人が好きなのだ。無邪気な人が好きなのだ。
 あ、こういうことは詩の感想とは別のことなのかなあ。
 でも、いいか。書いてしまったのだから。



*


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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


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