瀬尾育生「ベテルにて」(「現代詩手帖」2018年1月号)
瀬尾育生「ベテルにて」の末尾に「注」がついている。
しかし、禁じられれば禁を破りたくなるのが人間というもの。
私は二点知りたい。
(1)瀬尾は、何を根拠に「禁じます」と言っているのか。
著作権法には「引用」に関する規定がある。
瀬尾の作品は「公表された著作物」である。この条文に従う限り、だれでも瀬尾の作品を引用し、言及できる。瀬尾がなぜ「インターネット上で」とことわりを書いているのかわからないが、紙の媒体、あるいは「口頭」での言及(テレビ、ラジオ、舞台)と、どう違うのだろうか。
(2)禁を破ることによって何が起きるか、それを知りたい。
インターネットで作品を「引用/言及」をめぐっては、私は何度か苦情を受けたことがある。おもしろい例がふたつある。
ひとりは私の読み方が間違っていると指摘してきた。そのひとは、私の間違いを詩壇に公表し、詩壇から追放してやる、というようなはがきを書いてきた。私は「詩壇」などには属していない。追放されるということがどういうことかわからないので、どういうことが起きるのか楽しみにしているが、まだ何の変化もない。「属していない」から追放されるということも起きないのだ。
もうひとりは詩集を贈呈したのに批判を書くのはおかしいと言ってきた。「ネガティブキャンペーンは許せない」ということらしい。「谷内に詩集、詩誌を送るのをやめよう。現代詩手帖のアンケートに答えられないようにしよう」とインターネットで呼びかけた。現代詩手帖からのアンケートはあったりなかったりだから、そのひとの「訴え」は半分くらい現代詩手帖の編集部に届いたということかな?
さて、瀬尾は、どういう行動をおこすだろうか。何を言うだろう。とても期待している。
私は、ほんとうのことを言えば紙の媒体が好きである。
読むのは紙の媒体に限定している。目が悪いせいもあるが、インターネットでは「余白」にメモをとることができないということがいちばんの要因だ。紙の媒体なら、余白に書き込みをしながら考えることができる。ことばを動かせる。
「公表」の場として紙の媒体を利用しないのは、金がかかるからである。年金生活では、印刷し、郵送するというスタイルは維持できない。インターネットはほとんど無料である。金のない人間が自分のことばを発表するにはとても便利な道具である。
前置き(?)は、ここまで。
*
「ベテルにて」はよくわからない。「ベテル」がどこか私は知らない。ほかに「シドン」「マリア」「モアプ」「ハートランド」「マグダラ」というカタカナの固有名詞も登場する。「聖書」に関係する地名なのかもしれない。こういうことはそれこそインターネットで調べれば情報を得ることができるかもしれないが、そこで知った情報は私が確かめたことでもないので、私は調べない。知らないことは知らないままにしておく。
「わかる」部分を探して、私は作品を読む。
この書き出しから「わかる」ことは、瀬尾のことばがとても鍛えられたな肉体をもっているということだ。「ことばの肉体」のなかに「ことばの歴史(時間)」がある。
一行目は「冬」が全体を統一している。「無彩色」は「暖色」というより「冷たい」感じを誘う。「凍る」ということばにつながり、それが「冬」と自然に結びつく。その直後の「水場」の「水」は、書いていないが冷たくて凍りそうだ。そう書いたあとで、今度は逆に「炎」に視点を映す。明るい色。「赤」の印象をひきずって、それは「褐色」という色のなかで燃える。「米を炊く」という動詞が、「暮らし」を呼び寄せる。
「暮らし」は「米」から「野菜」へと広がっていく。とても自然だ。
でも、その「野菜」は「米を炊く」のように、すぐには「食べ物」と結びつかない。いや、食べ物を連想させながら、ことばはまったく違うものを浮かび上がらせる。「野菜が刻まれる」のあとに、唐突に「同じ歩幅」が出てくる。「歩幅」のなかの「歩」が「歩く」という動詞を呼び起こす。野菜を刻むように歩幅を刻む、同じ歩幅で歩いてくる。その「音」が耳に届く。
「子音だけが細く伝わる」。ああ、美しいことばだなあ。足音を、足音ということばをつかわずに書き、しかも「音」なのに視覚化している。
ことばのひとつひとつが、ことばの奥でつながっている。ひとつの「肉体」として動いている。切り離せない。
この緊密な文体の緊密をつくりだしているもののひとつに、読点「、」の排除がある。瀬尾は読点「、」をつかっていない。
で、ここから少し脱線する。「まえがき」に逆戻りすると言った方がいいかも知れない。
インターネットの「文体」は読点「、」の乱用にある。やたらと多い。私はもともと読点を多くつかう方だが、インターネットで書くようになってからさらに増えた。目が休まるからである。
瀬尾がインターネットでの引用を拒むのは、緊張感のある文体がインターネットになじまないと知っているからかもしれない。
そして、このことと関係するのだが、瀬尾の「文体」は、最初から最後まで同じ訳ではない。そのこともインターネットで引用、言及されることを拒む理由になっているかもしれない。文体の変化を、インターネットは正確に反映しない、だからインターネット上での引用は困るということかもしれない。
どういうことかというと。(途中を省略しながら引用するので、原文は「現代詩手帖」で確認してください。)
「けれど死んでいったひとのことを思えば」という句点「。」も読点「、」もないことばで終わる行が繰り返される。循環か、螺旋か。わからないが、そこには「持続」がある。「思えば(思う)」という動詞が「持続」を生み出している。持続を誘う。「思えば」何なのか、と想像させる。
最初にふれた書き出しでは、個人(ひとり)の思い(思う)ではなく、ことばそのものの「肉体」がかかえもつ「持続/継続/つながり」が動いていた。
二連目では「(おまえ)/あなた」と「わたし」に人称がわかれ、それを「思う」という動詞がつなぐ。
このあとが、またおもしろい。
「別れる」ではなく「分かれる」。「別れる」は「ふたり」が別れる。「分かれる」は「ひとつ」が「分かれる(分割される)」。これは「分かれるのですか」という「問い」となって姿をあらわした後、そこにふいにあらわれた「分かれる」ということばそのもののなかに「私」がとじこめられ、それを反復する。「分かれる」。しかし、ここにも句読点はない。
こうした「不安定」な文(結論のない、句点のない文)をはさみ、さらにことばは変化する。
やっとあらわれた読点「、」(詩の後半でも、もう一回出てくるが)が、何かを「分ける」。そして「だれ」が登場する。
「私」と「あなた(おまえ)」と「だれ」。三人になれば、それは無数への入り口になる。無数は、そのうちの「ひとり」によって結ばれ「ひとり(ひとつ)」になる。
「いのち」になるのか「信仰(宗教)」になるのかわからないが、つまり「意味」はわからないが。(というか、私は、こういう閉ざしていくことばには何か恐怖というか、警戒してしまう。最後までおいつづけ、見極めようとすることができない。)
非常に強い力でことばを統一して動かしているということが「わかる」(実感できる)作品だ。
*
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目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
*
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瀬尾育生「ベテルにて」の末尾に「注」がついている。
*この作品について、インターネット上での引用・インターネット上での言及を禁じます(作者)
しかし、禁じられれば禁を破りたくなるのが人間というもの。
私は二点知りたい。
(1)瀬尾は、何を根拠に「禁じます」と言っているのか。
著作権法には「引用」に関する規定がある。
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
瀬尾の作品は「公表された著作物」である。この条文に従う限り、だれでも瀬尾の作品を引用し、言及できる。瀬尾がなぜ「インターネット上で」とことわりを書いているのかわからないが、紙の媒体、あるいは「口頭」での言及(テレビ、ラジオ、舞台)と、どう違うのだろうか。
(2)禁を破ることによって何が起きるか、それを知りたい。
インターネットで作品を「引用/言及」をめぐっては、私は何度か苦情を受けたことがある。おもしろい例がふたつある。
ひとりは私の読み方が間違っていると指摘してきた。そのひとは、私の間違いを詩壇に公表し、詩壇から追放してやる、というようなはがきを書いてきた。私は「詩壇」などには属していない。追放されるということがどういうことかわからないので、どういうことが起きるのか楽しみにしているが、まだ何の変化もない。「属していない」から追放されるということも起きないのだ。
もうひとりは詩集を贈呈したのに批判を書くのはおかしいと言ってきた。「ネガティブキャンペーンは許せない」ということらしい。「谷内に詩集、詩誌を送るのをやめよう。現代詩手帖のアンケートに答えられないようにしよう」とインターネットで呼びかけた。現代詩手帖からのアンケートはあったりなかったりだから、そのひとの「訴え」は半分くらい現代詩手帖の編集部に届いたということかな?
さて、瀬尾は、どういう行動をおこすだろうか。何を言うだろう。とても期待している。
私は、ほんとうのことを言えば紙の媒体が好きである。
読むのは紙の媒体に限定している。目が悪いせいもあるが、インターネットでは「余白」にメモをとることができないということがいちばんの要因だ。紙の媒体なら、余白に書き込みをしながら考えることができる。ことばを動かせる。
「公表」の場として紙の媒体を利用しないのは、金がかかるからである。年金生活では、印刷し、郵送するというスタイルは維持できない。インターネットはほとんど無料である。金のない人間が自分のことばを発表するにはとても便利な道具である。
前置き(?)は、ここまで。
*
「ベテルにて」はよくわからない。「ベテル」がどこか私は知らない。ほかに「シドン」「マリア」「モアプ」「ハートランド」「マグダラ」というカタカナの固有名詞も登場する。「聖書」に関係する地名なのかもしれない。こういうことはそれこそインターネットで調べれば情報を得ることができるかもしれないが、そこで知った情報は私が確かめたことでもないので、私は調べない。知らないことは知らないままにしておく。
「わかる」部分を探して、私は作品を読む。
無彩色の外套に包まれて凍るような冬の水場に立ちわずかな炎で褐色の米を炊いている。白い野菜が刻まれるのと同じ歩幅で子音だけが細く伝わる。
この書き出しから「わかる」ことは、瀬尾のことばがとても鍛えられたな肉体をもっているということだ。「ことばの肉体」のなかに「ことばの歴史(時間)」がある。
一行目は「冬」が全体を統一している。「無彩色」は「暖色」というより「冷たい」感じを誘う。「凍る」ということばにつながり、それが「冬」と自然に結びつく。その直後の「水場」の「水」は、書いていないが冷たくて凍りそうだ。そう書いたあとで、今度は逆に「炎」に視点を映す。明るい色。「赤」の印象をひきずって、それは「褐色」という色のなかで燃える。「米を炊く」という動詞が、「暮らし」を呼び寄せる。
「暮らし」は「米」から「野菜」へと広がっていく。とても自然だ。
でも、その「野菜」は「米を炊く」のように、すぐには「食べ物」と結びつかない。いや、食べ物を連想させながら、ことばはまったく違うものを浮かび上がらせる。「野菜が刻まれる」のあとに、唐突に「同じ歩幅」が出てくる。「歩幅」のなかの「歩」が「歩く」という動詞を呼び起こす。野菜を刻むように歩幅を刻む、同じ歩幅で歩いてくる。その「音」が耳に届く。
「子音だけが細く伝わる」。ああ、美しいことばだなあ。足音を、足音ということばをつかわずに書き、しかも「音」なのに視覚化している。
ことばのひとつひとつが、ことばの奥でつながっている。ひとつの「肉体」として動いている。切り離せない。
この緊密な文体の緊密をつくりだしているもののひとつに、読点「、」の排除がある。瀬尾は読点「、」をつかっていない。
で、ここから少し脱線する。「まえがき」に逆戻りすると言った方がいいかも知れない。
インターネットの「文体」は読点「、」の乱用にある。やたらと多い。私はもともと読点を多くつかう方だが、インターネットで書くようになってからさらに増えた。目が休まるからである。
瀬尾がインターネットでの引用を拒むのは、緊張感のある文体がインターネットになじまないと知っているからかもしれない。
そして、このことと関係するのだが、瀬尾の「文体」は、最初から最後まで同じ訳ではない。そのこともインターネットで引用、言及されることを拒む理由になっているかもしれない。文体の変化を、インターネットは正確に反映しない、だからインターネット上での引用は困るということかもしれない。
どういうことかというと。(途中を省略しながら引用するので、原文は「現代詩手帖」で確認してください。)
私は水路の水際にいてここにひとすじの抜け道もないと信じている。けれど死んでいったひとのことを思えば
運河は開扉されて船がくだっていった。その水辺から階段室が始まっている。雫が降りしきっているがそれが着地することはない。後についてきてださいあなたは。けれど死んでいった人のことを思えば
「けれど死んでいったひとのことを思えば」という句点「。」も読点「、」もないことばで終わる行が繰り返される。循環か、螺旋か。わからないが、そこには「持続」がある。「思えば(思う)」という動詞が「持続」を生み出している。持続を誘う。「思えば」何なのか、と想像させる。
最初にふれた書き出しでは、個人(ひとり)の思い(思う)ではなく、ことばそのものの「肉体」がかかえもつ「持続/継続/つながり」が動いていた。
二連目では「(おまえ)/あなた」と「わたし」に人称がわかれ、それを「思う」という動詞がつなぐ。
このあとが、またおもしろい。
あなたはどこまで と私は先導する人に訪ねた。どこで私たちは分かれるのですか。分かれる
「別れる」ではなく「分かれる」。「別れる」は「ふたり」が別れる。「分かれる」は「ひとつ」が「分かれる(分割される)」。これは「分かれるのですか」という「問い」となって姿をあらわした後、そこにふいにあらわれた「分かれる」ということばそのもののなかに「私」がとじこめられ、それを反復する。「分かれる」。しかし、ここにも句読点はない。
こうした「不安定」な文(結論のない、句点のない文)をはさみ、さらにことばは変化する。
それは水辺の水道路のようで、巨大な階段室を降りてゆくと先導する人は深く頭巾を被って薄く冷たい灯りを持っている。だれ
という語が巨大な階段室を糸くずのようにまわりながら落ちてゆく。だれ
という語が巨大な階段室を糸くずのようにまわりながら落ちてゆく。
やっとあらわれた読点「、」(詩の後半でも、もう一回出てくるが)が、何かを「分ける」。そして「だれ」が登場する。
「私」と「あなた(おまえ)」と「だれ」。三人になれば、それは無数への入り口になる。無数は、そのうちの「ひとり」によって結ばれ「ひとり(ひとつ)」になる。
「いのち」になるのか「信仰(宗教)」になるのかわからないが、つまり「意味」はわからないが。(というか、私は、こういう閉ざしていくことばには何か恐怖というか、警戒してしまう。最後までおいつづけ、見極めようとすることができない。)
非常に強い力でことばを統一して動かしているということが「わかる」(実感できる)作品だ。
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目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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