詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか2018年1月号

2018-01-31 20:22:53 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」1月号、発売開始。
B5版136ページ、1750円(送料、別途250円)

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073097

URLをクリックして、ページ右側上辺の「製本のご注文はこちらから」の押してください。

1月号の目次は。

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129

なお、他の本(「誤読」「天皇の悲鳴」「詩はどこにあるか11月号」「12月号」)も発売中です。
問いあわせは

yachisyuso@gmail.com
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森口みや「余暇」

2018-01-31 12:59:06 | 詩(雑誌・同人誌)
森口みや「余暇」(「現代詩手帖」2018年2月号)

 「現代詩手帖」の「21世紀の批評のために」は瀬尾育生と宗近真一郎の文章を読んだだけで、あとは読む気力がなくなってしまった。私は年をとっているから21世紀を生き抜くわけではない。何かの「ために」考えるというのもめんどうくさい。
 で、おもしろい詩はないかなあ、と思っていたら。
 投稿欄に、森口みや「余暇」。

池の傍らにゆらめいて、ただ
幽霊は幽霊らしく
最後に食べたふろふき大根のこと、未練がましく思いかえしている。
もしやり直せるのだとしたら
断固として
味噌は、要らない……。
もごもご もごもご
自分で自分に供えた大根を宙で咀嚼しつつ
冬眠し損なった亀が一匹、岩の上に淡く存在しているのに、心惹かれてく。

 「ふろふき大根」か。私には何やら「たよりない」料理に見える。「ゆらめいて」いる何かのように。大根の「幽霊」のようにも感じる。「淡く(淡い)」も通じるかなあ。「ふろふき大根」の描写につかわれていることばではないのだが、周辺にあることばが「ふろふき大根」をそれとなく描写しているように感じてしまう。そこがおもしろい。
 たかがふろふき大根なのに「やり直せるとしたら」というのもおかしいなあ。次は、こう食べたいというくらいのことなんだろうけれど。味噌(私はゆず味噌派だが)は要らないか。味噌がなかったら、もっとぼんやりしないか。ふろふき大根って、大根よりも味噌の味じゃないか、とも思ったりする。それこそ「もごもご」と思うだけだけれど。
 「宙で咀嚼し」というのは、空想で食べるということくらいの意味なんだろうなあ。
 で、そこに亀が出てきて、状況がちょっと変わる。

池の傍らにゆらめいていると
初詣にやってきた家族連れが、一匹ぼっちの亀にエサやりをしようと、干し芋を千切って放り始める。
甲羅に芋がぶち当たっても、亀は頑として動かない。
人間らが残念そうに去ったあと
ぺちぺち ぺちぺち
亀は、
干し芋の落下した箇所を目で追いながら方向転換して
鼻息荒くかぶりつき
うにゃうにゃ口角を歪めて咀嚼すると
喉元を引き攣らせながら、
嚥下!
こっちにアイコンタクトを送ってきて
どや。
といった。

 いいなあ、この亀。人のおもいのままには動かない。そして自分のやりたいことだけをやる。図太い。
 で、それが単に亀の描写かというと。
 亀の描写には違いなののだが、

もごもご もごもご
自分で自分に供えた大根を宙で咀嚼しつつ

うにゃうにゃ口角を歪めて咀嚼すると

 自分がふろふき大根を食べるときにつかった「咀嚼」、それと咀嚼のときのオノマトペが重なるので、それが亀の描写なのか、自分の描写なのか一瞬わからなくなる。亀になってしまって、干し芋を食べているような気分になる。
 一体感を通り越して、なんだか亀に「肉体」を乗っ取られている感じといった方がいいかなあ。

どや。
といった。

 は亀が言ったのだが、亀は日本語(関西弁?)など話さないだろうから、これはほんとうは森口が「どや」と亀になって言ったのだ。「こっちにアイコンタクトを送ってきて」というのも、相手が亀なんだから、そんなものを無視すれば「アイコンタクト」でもなんでもなくなるのだが、アイコンタクトと感じてしまう。
 食べる、自分の好きなように食べるという「肉体」の動きが、亀と森口を、森口と亀を強く結びつけてしまう。区別をなくす。

ゆらぎつづける、あらゆる像の間
目と目があったら、おともだち
黙ってほほえんでいると
亀は首を伸ばし、もう一度
どや。
といった。
うん。おいしいか?
亀は私を無視して甲羅に篭もる。
そのまんま
不動の像となり
網膜に焼き付いてく。

「よい透明感だったのに」
白い息を見送れば
空の青

 「よい透明感」は何を指しているのか。亀と私との関係か。つかずはなれず。でも「どや」がわかった。食べることについて何かが共有できた。「肉体」が共有できた。
 「白い息」も「空の青」もまた「よい透明感」だろうなあ。
 ふろふき大根の、ゆれるような透明感かなあ、などとも思う。

 と、ここまで書いてきてふと思うのだが。
 瀬尾育生や宗近真一郎は、この森口の作品をどう批評するだろうか。「21世紀」の詩として、どう読むだろうか。ルネ・ジールだとかラカンだとか、吉本隆明だとか、柄谷行人だとか、「超・超越性」だとか「去勢」だとか、そういうことばとどう結びつけるのだろうかと疑問に思った。
 「いま、ここ」にあるものに対して、自分をどう解体し、組み立てなおし、いっしょに生きるかということが大切なのになあと、私は思う。
 ややこしいことをあれこれいうよりも、干し芋を買って、大濠公園に行ってみようか。亀を探して、干し芋を千切ってやってみようか、と思う。食べるかなあ。「どや」と言うかなあ。その前にふろふき大根を食べないと亀と対話できないかなあ。
 きっと、そういう「行動」の方がややこしいことば(論理)よりも批評ということだろうなあと思う。批評の出発点は、何かに出会い、「わあすごい」と感動し、我を忘れてバカになることが出発点だと私は思っている。「知識」を積み重ねても「批評」にはならないだろうと思う。それは「私は頭がいい、こんなに多くのことを知っている」という宣伝だ。





 


*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか12月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

現代詩手帖 2018年 02 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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国の理想の形(安倍の本音)

2018-01-31 06:44:05 | 自民党憲法改正草案を読む
国の理想の形(安倍の本音)
             自民党憲法改正草案を読む/番外173(情報の読み方)

 安倍は憲法について語るとき、「国の姿・理想の形を議論していくのは、私たちの歴史的な使命だ」というような表現をよくつかう。「憲法は国の理想の形を明確にするもの」という定義だ。一般の「憲法は国(権力)の暴走を拘束するもの」という考えとはずいぶん隔たっている。これを単に安倍の認識が間違っているととらえ、安倍は憲法の定義も知らないと笑って見過ごすと、とんでもないことになる。安倍は「本音」を語っているのである。

 自衛隊の存在をめぐっては、憲法学者の中に「いまのままでは自衛隊を憲法でコントロールできない。きちんと自衛隊を憲法に組み込むべきだ」と主張する人がいる。このひとたちの意見は「憲法は権力を拘束するのも」という定義から出発して、そう言っていることになる。
 こういう意見と、安倍の「災害救助にあたっている自衛隊を違憲と呼ぶのは、自衛隊員の子供たちがかわいそう」とか「自衛隊を違憲と呼んでおいて、北朝鮮が攻めてきたら助けてというのは身勝手だ」とか言うのは間違っている、自衛隊を憲法に書き加えるべきだというのとはまったく違う。
 安倍の意見では、自衛隊を憲法に書き加えることで、自衛隊をコントロールするということにはならない。

 自衛隊(武装)が違憲であるというのは、実は自衛隊の存在自体のことを指しているのではない。自衛隊は自発組織ではない。内閣が予算を組んでいる。いいかえると内閣がつくりだしたものだ。自衛隊をつくりだした内閣、武装させる内閣が違憲であるというのが「自衛隊は違憲だ」というときの基本的な考えである。
 安倍が違憲である、と言われているのである。
 これに対して「自衛隊員の子供がかわいそう」と言い換えるのは、予算編成に対して批判をうける安倍がかわいそうという「本音」を隠していることになる。自衛隊を思いのままに動かせない(北朝鮮を攻撃できない)安倍がかわいそうと言っているにすぎない。
 言い換えると、安倍の戦争をしたい気持ちを縛りつけている憲法は気に食わないということである。「理想の国家の形」という表現を借りて言いなおせば、安倍が独裁者としてふるまえる国の形が理想の形であり、憲法は安倍の独裁を保障するものでなければならない、というのが安倍の主張(本音)なのだ。

 改憲派の憲法学者は、自衛隊をこのままにしておいてはコントロールできない、だから憲法を改正すべきだというが、他方に、独裁のために憲法を改正する(自衛隊を利用できるようにする)という安倍の「本音」があるのことを見落としてはいけない。安倍は、まったく違った意味で自衛隊を憲法に書き加えると言っている。それを指摘しないといけない。

 改憲派の憲法学者の論理は完璧である。間違っていない。正しい。けれど、論理が正しいからといって、その論理が「流通」するわけではない。論理が正しいのは、その論理の土俵が限られているからだ。狭い土俵でなら、いくつもの「正しい論理」が展開できる。「論理」というのは、そういうものである。
 こういう指摘に対する反論は、憲法学者たちはすでに準備しているだろうから、書いても無駄なのかもしれないが書いておこう。

 改憲派の憲法学者が「いまこそ自衛隊を憲法に書き加えるべきである」と主張した場合、彼らの主張から「自衛隊をコントロールするため」という意味は切り捨てられ、ただ「自衛隊を憲法に書く加える」だけが採用される。そうなったとき、憲法学者はきっと、「私の主張は正しいのに、安倍は私の正しさを無視した」と言うに違いない。そして、「学問」のなかへ、「論理の整合性」のなかへ、帰っていく。
 けれど一般の国民には、帰っていく「論理の整合性を競う場」などないのだ。国民は、戦場に駆り出され、「御霊」になることを強いられるのである。

 安倍が「独裁」を「国の理想の形」として思い描き、憲法によってそれを保障しようとしていることは、憲法改正項目にあげた4点をみても明らかである。
 自衛隊を憲法に書き加えるのほかに
(1)緊急事態時には国会議員はそのまま議員をつづける
(2)合区を解消し、1県1議席にする
(3)教育の無償化(教育の充実)
の(1)(2)は自民党の議席を維持する、あるいは増やすということである。議席の確保が「独裁」を保障する。
 (3)は「独裁」と無関係に見えるかもしれないが、強い関係がある。
 教育の無償化は民主党も進めようとした。ところが朝鮮学校への無償化は自民党政権によって中止になった。北朝鮮が思想教育している学校を支援するのは国益に反するというのである。これは「学問の自由」からみると大きな問題である。安倍の言う教育の無償化(あるいは支援の充実)が、安倍の政権を支持する学問なら対象になるが、そうでない場合は対象にならないということが起きる。
 安倍独裁をどうやって打破するかという研究がされる場合、その研究機関での教育費は無償にならないだろう。思想はいつでもどんなときでも個人のものである。その自由は、教育無償化によって妨げられてはならない。しかし、安倍はきっと思想を選別する。
 安倍を支持する思想だけが教育機関で展開される。独裁の強化が教育機関からおこなわれる。

 憲法学者は、自分には帰るべき論理の場(学問の場)があると安易に考えてはならないと思う。そういう場は、安倍の独裁によってあっというまに奪われてしまう。
 自分の「論理の正しさ」に固執するのではなく、「いま、ここ」でどんな論理を新しく組み立てることができるか、どうやって憲法の理想(権力を拘束するために憲法はある)を守るのか、それを考えないといけないのではないだろうか。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

 「不思議なクニの憲法」の公式サイトは、
http://fushigina.jp/
上映日程や自主上映の申し込みができます。
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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