森口みや「余暇」(「現代詩手帖」2018年2月号)
「現代詩手帖」の「21世紀の批評のために」は瀬尾育生と宗近真一郎の文章を読んだだけで、あとは読む気力がなくなってしまった。私は年をとっているから21世紀を生き抜くわけではない。何かの「ために」考えるというのもめんどうくさい。
で、おもしろい詩はないかなあ、と思っていたら。
投稿欄に、森口みや「余暇」。
池の傍らにゆらめいて、ただ
幽霊は幽霊らしく
最後に食べたふろふき大根のこと、未練がましく思いかえしている。
もしやり直せるのだとしたら
断固として
味噌は、要らない……。
もごもご もごもご
自分で自分に供えた大根を宙で咀嚼しつつ
冬眠し損なった亀が一匹、岩の上に淡く存在しているのに、心惹かれてく。
「ふろふき大根」か。私には何やら「たよりない」料理に見える。「ゆらめいて」いる何かのように。大根の「幽霊」のようにも感じる。「淡く(淡い)」も通じるかなあ。「ふろふき大根」の描写につかわれていることばではないのだが、周辺にあることばが「ふろふき大根」をそれとなく描写しているように感じてしまう。そこがおもしろい。
たかがふろふき大根なのに「やり直せるとしたら」というのもおかしいなあ。次は、こう食べたいというくらいのことなんだろうけれど。味噌(私はゆず味噌派だが)は要らないか。味噌がなかったら、もっとぼんやりしないか。ふろふき大根って、大根よりも味噌の味じゃないか、とも思ったりする。それこそ「もごもご」と思うだけだけれど。
「宙で咀嚼し」というのは、空想で食べるということくらいの意味なんだろうなあ。
で、そこに亀が出てきて、状況がちょっと変わる。
池の傍らにゆらめいていると
初詣にやってきた家族連れが、一匹ぼっちの亀にエサやりをしようと、干し芋を千切って放り始める。
甲羅に芋がぶち当たっても、亀は頑として動かない。
人間らが残念そうに去ったあと
ぺちぺち ぺちぺち
亀は、
干し芋の落下した箇所を目で追いながら方向転換して
鼻息荒くかぶりつき
うにゃうにゃ口角を歪めて咀嚼すると
喉元を引き攣らせながら、
嚥下!
こっちにアイコンタクトを送ってきて
どや。
といった。
いいなあ、この亀。人のおもいのままには動かない。そして自分のやりたいことだけをやる。図太い。
で、それが単に亀の描写かというと。
亀の描写には違いなののだが、
もごもご もごもご
自分で自分に供えた大根を宙で咀嚼しつつ
うにゃうにゃ口角を歪めて咀嚼すると
自分がふろふき大根を食べるときにつかった「咀嚼」、それと咀嚼のときのオノマトペが重なるので、それが亀の描写なのか、自分の描写なのか一瞬わからなくなる。亀になってしまって、干し芋を食べているような気分になる。
一体感を通り越して、なんだか亀に「肉体」を乗っ取られている感じといった方がいいかなあ。
どや。
といった。
は亀が言ったのだが、亀は日本語(関西弁?)など話さないだろうから、これはほんとうは森口が「どや」と亀になって言ったのだ。「こっちにアイコンタクトを送ってきて」というのも、相手が亀なんだから、そんなものを無視すれば「アイコンタクト」でもなんでもなくなるのだが、アイコンタクトと感じてしまう。
食べる、自分の好きなように食べるという「肉体」の動きが、亀と森口を、森口と亀を強く結びつけてしまう。区別をなくす。
ゆらぎつづける、あらゆる像の間
目と目があったら、おともだち
黙ってほほえんでいると
亀は首を伸ばし、もう一度
どや。
といった。
うん。おいしいか?
亀は私を無視して甲羅に篭もる。
そのまんま
不動の像となり
網膜に焼き付いてく。
「よい透明感だったのに」
白い息を見送れば
空の青
「よい透明感」は何を指しているのか。亀と私との関係か。つかずはなれず。でも「どや」がわかった。食べることについて何かが共有できた。「肉体」が共有できた。
「白い息」も「空の青」もまた「よい透明感」だろうなあ。
ふろふき大根の、ゆれるような透明感かなあ、などとも思う。
と、ここまで書いてきてふと思うのだが。
瀬尾育生や宗近真一郎は、この森口の作品をどう批評するだろうか。「21世紀」の詩として、どう読むだろうか。ルネ・ジールだとかラカンだとか、吉本隆明だとか、柄谷行人だとか、「超・超越性」だとか「去勢」だとか、そういうことばとどう結びつけるのだろうかと疑問に思った。
「いま、ここ」にあるものに対して、自分をどう解体し、組み立てなおし、いっしょに生きるかということが大切なのになあと、私は思う。
ややこしいことをあれこれいうよりも、干し芋を買って、大濠公園に行ってみようか。亀を探して、干し芋を千切ってやってみようか、と思う。食べるかなあ。「どや」と言うかなあ。その前にふろふき大根を食べないと亀と対話できないかなあ。
きっと、そういう「行動」の方がややこしいことば(論理)よりも批評ということだろうなあと思う。批評の出発点は、何かに出会い、「わあすごい」と感動し、我を忘れてバカになることが出発点だと私は思っている。「知識」を積み重ねても「批評」にはならないだろうと思う。それは「私は頭がいい、こんなに多くのことを知っている」という宣伝だ。
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com