吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」(「橄欖」108、2017年12月20日発行)
吉田修「養石」が非常におもしろい。私はカタカナが苦手で読めない。だから(?)読み違えているかもしれない。引用も間違えているかもしれないが。あるいはカタカナが読めないから、漢字だけをつないで勝手に想像しているのかもしれないが。
「養石」は「造語」であるという。ということは「養石」というものは、ない。単なる「ことば」にすぎない。それなのに「ことば」にした瞬間から「造語」の方から何かが働きかけてくる。
「養石」ということばのなかの「養う」という動詞に引っ張られて、ことばを発した人(吉田?)は石を養うことになる。
でも、石を養うって?
石は養わなくてもそこにある。それを養うということはどういうことか。
わからないけれど、「石」を「花モ咲カナイ」と言いなおしたときから「花」が「養う」ということばに影響してくる。「花を養う(養花)」なら、なんとなく、わかる。「肉体」が覚えていることがある。花は水をやらないと枯れてしまう。水をやることが花を養うということだ。それにならって、吉田は石に水をやり始める。
何か間違っている。
でも、間違っていることの中に、もしかすると「ほんとう」があるかもしれない
ことばのなかには、かならず「ほんとう」があるのだ。
ひとの言っていることなど、全部が「わかる」わけがない。けれど、そのなかの「ひとつ」でも「わかる」と感じたなら、それは「全部」が「わかったこと」になる。何かが「つながってしまう」。「つながってしまう」ということが「わかる」ということなのだ。
「養石」にもどって言いなおせば、「養石」のなかには「養う」ということばがある。そして、ひとは「養う」ということがどういうことか「わかっている」。「育てる」というような「働き」があると同時に、「死なせない」というような「働き」もある。そして、それはいろいろなものにつながっている。
花を育てる。花を死なせない。そのためには「水をやる」。「水をやる」ということが、そのまま「石を育てる(養う)」ことにはならないかもしれないが、そういう「ことばの働き」がある日、瞬間的に、「世界」を切り開く。そういうことが、「養石」ということばといっしょに、ここに生まれてきている。
吉田の書いていることはわからないが、わからないまま、吉田はいまこの瞬間「世界」を「了解している」と感じた。「わかる」を通り越して、「悟る」という感じかなあ。もし、何かを「悟る」ということがあるとすれば、それはきっとこんな感じだなあ。
「こんな感じ」というのは、「養石」ということばにふれて、「養う」という「動詞」と、その「働き」、その「変化」を「肉体」で反芻し、生きるということ。
石に水をやっても、それで石が育つわけではない、とは言い切れない。水をやらなければ花のように死んでしまう。というようなことは、「ことば」だけの世界だが、しかし、ことばによってそういう「世界」が出現してしまうという不思議なことが起きる。
「造語」と吉田は書いているが、「ことば」をつくることは「世界」をつくること、「世界」を生み出すことなのだ。
「現代詩」がやっているのは、こういうことなのだ。
私は、そう納得した。
*
大西美千代「途中下車」は後半がおもしろい。
「こんなような人」の「こんなような」は説明されない。「いやこの人だった」の「この」も説明されない。言いなおされていない。それなのに「こんなような」「この」と言いなおされただけで、何かが「わかる」。
「こんなような」と言ってしまうときに「起きていること」が「わかる」。「この」と言ってしまうときに「わかる」何かがある。「こんなような」「この」と言うときの、「意識」と「世界」のかかわり方がある。
「造語」のように、それは「世界」をつくりだす。その「つくりだし方」が「肉体」の奥をぐいっと押す。
*
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか12月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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吉田修「養石」が非常におもしろい。私はカタカナが苦手で読めない。だから(?)読み違えているかもしれない。引用も間違えているかもしれないが。あるいはカタカナが読めないから、漢字だけをつないで勝手に想像しているのかもしれないが。
養石トイウ言葉ガアル
イワユル造語ノ類デアル
ヒタスラ日々、養ウガゴトク
花モ咲カナイ庭ノ石ニ
水ヤリヲスルノデアル
「養石」は「造語」であるという。ということは「養石」というものは、ない。単なる「ことば」にすぎない。それなのに「ことば」にした瞬間から「造語」の方から何かが働きかけてくる。
「養石」ということばのなかの「養う」という動詞に引っ張られて、ことばを発した人(吉田?)は石を養うことになる。
でも、石を養うって?
石は養わなくてもそこにある。それを養うということはどういうことか。
わからないけれど、「石」を「花モ咲カナイ」と言いなおしたときから「花」が「養う」ということばに影響してくる。「花を養う(養花)」なら、なんとなく、わかる。「肉体」が覚えていることがある。花は水をやらないと枯れてしまう。水をやることが花を養うということだ。それにならって、吉田は石に水をやり始める。
何か間違っている。
でも、間違っていることの中に、もしかすると「ほんとう」があるかもしれない
ことばのなかには、かならず「ほんとう」があるのだ。
ひとの言っていることなど、全部が「わかる」わけがない。けれど、そのなかの「ひとつ」でも「わかる」と感じたなら、それは「全部」が「わかったこと」になる。何かが「つながってしまう」。「つながってしまう」ということが「わかる」ということなのだ。
「養石」にもどって言いなおせば、「養石」のなかには「養う」ということばがある。そして、ひとは「養う」ということがどういうことか「わかっている」。「育てる」というような「働き」があると同時に、「死なせない」というような「働き」もある。そして、それはいろいろなものにつながっている。
花を育てる。花を死なせない。そのためには「水をやる」。「水をやる」ということが、そのまま「石を育てる(養う)」ことにはならないかもしれないが、そういう「ことばの働き」がある日、瞬間的に、「世界」を切り開く。そういうことが、「養石」ということばといっしょに、ここに生まれてきている。
吉田の書いていることはわからないが、わからないまま、吉田はいまこの瞬間「世界」を「了解している」と感じた。「わかる」を通り越して、「悟る」という感じかなあ。もし、何かを「悟る」ということがあるとすれば、それはきっとこんな感じだなあ。
「こんな感じ」というのは、「養石」ということばにふれて、「養う」という「動詞」と、その「働き」、その「変化」を「肉体」で反芻し、生きるということ。
石に水をやっても、それで石が育つわけではない、とは言い切れない。水をやらなければ花のように死んでしまう。というようなことは、「ことば」だけの世界だが、しかし、ことばによってそういう「世界」が出現してしまうという不思議なことが起きる。
「造語」と吉田は書いているが、「ことば」をつくることは「世界」をつくること、「世界」を生み出すことなのだ。
「現代詩」がやっているのは、こういうことなのだ。
私は、そう納得した。
*
大西美千代「途中下車」は後半がおもしろい。
地下鉄に乗る
清潔な車内のさっきと同じ席に座れば
何事もなかったかのように
電車は動き出す
向かい側に座っていたのは
こんなような人だった
いやこの人だったか
「こんなような人」の「こんなような」は説明されない。「いやこの人だった」の「この」も説明されない。言いなおされていない。それなのに「こんなような」「この」と言いなおされただけで、何かが「わかる」。
「こんなような」と言ってしまうときに「起きていること」が「わかる」。「この」と言ってしまうときに「わかる」何かがある。「こんなような」「この」と言うときの、「意識」と「世界」のかかわり方がある。
「造語」のように、それは「世界」をつくりだす。その「つくりだし方」が「肉体」の奥をぐいっと押す。
*
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか12月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
詩集『誤読』を発売しています。
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詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書) | |
大西 美千代 | |
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