岩佐なを「色鉛筆」(「孔雀船」91、2018年1月15日発行)
岩佐なを「色鉛筆」を読む。ことばが、あっちへ行ったり、こっちへ来たり。方向が定まらない。
色鉛筆と向き合っているのだが、色鉛筆のことを書いているのか、気分を書いているか。小学生のときのことを書いているのか、いまのことを書いているのか。気分(思い)にしても、過去の悔しかったことを書いているのか、いまの快感(?)を書いているのか、入り乱れる。
この、「と、」で「自分のしていること」を受け継いで(行動を描写して)、それから「気分」へと移行するときの「切断」と「接続」の関係が、よけいに「入り乱れる」という感じを強くする。
あらゆる行の先頭に「と、」があって、それが一種の「並列」の感じをつくりだしているのかもしれない。あらゆることが「並列」であり、「同等」である。「入り乱れる」のではなく、岩佐に言わせれば、それなりにきちんと「並んでいる」のだろう。「並ぶ」ときは、それぞれが「自己判断」で「基準」を決めている。「だれか」が「基準」を決めるのではなく、ことばがことば自身で「基準」を決めて、並んでいる。
「くやしい脳」というのは「くやしいのう」という「声」なのか、ほんとうに「脳」のことを書いているか。「脳」が「くやしい」と言っているのか。もしかしたら、誤植? 「小学生のじぶん」というのは「小学生の自分」なのか「小学生の時分」なのか。これも、どうも「あいまい」である。いや、ことばに言わせれば、それは私(谷内)が読みきれないだけであって、ちゃんと「基準(意味)」を限定しているというかもしれない。
でも。
「現実」というものは、こういうものだね。みんなが、それぞれ「基準」を持っている。自分の「指針」を持っている。全体は「絞りきれない」。統一できない。
だから、何かを書こうとすると、ふいに何かが割り込んでくる。そして、まとまらない。ことばは、書きたいものを書かせてくれない。書きたいことを書いたと思っても書き足りない。書き足りないと思って書いてしまうと、書きたいことが何だったか、あいまいになる。
これが、そのまま「再現」されている。
何が、どこで、どんなふうにつながっているのか。それを「明確」にするのは「脳」なのか、「思い(気分)」なのか。これもよくわからない。「脳」とか「気分(思い)」とかは、まあ、つながっているというよりも、分断されているものなのかもしれない。
視点を変える。
私は、
この「揉んでいる」に驚いた。「揉んでいる」は、その前の行の「じゃらじゃらとかき混ぜる」を言いなおしたものだろうけれど、「かき混ぜる」ことが「揉む」? 「かき混ぜる」は「もてあそぶ」かなあ、と思ったりする。「方向を定めない」という感じ。「揉む」は「何かを軟らかくする」。固まっているものを解きほぐす。「固まっている」を「ひとつの方向」ととらえれば、「揉む」はそれを「複数の方向に拡散する」ということになり、まあ、「かき混ぜる」の「混ぜる」に近くなるかも。
でも、なんとなく、変。
この「揉む」は、もう一度出てくる。
「揉む」は「選り分ける」か。
なぜ、「選り分ける」(識別する)ことが「揉む」なのか、わからない。
でも、そこに「手」があることがわかる。一行目に「利き手」ということばがあるが、きっと「利き手」で選り分ける。
「手」という「肉体」がすべてを繋いでいる。
よくわからないが、「脳(判断?)」や「思い(気分)」は、「いま」という時間を「切断」して、あっちこっちへ飛び回るが、「手」はそういうことをしない。あっちこっちへ意向にも、からだ全部とつながっていて、切り離せない。
「イノチ」と切り離せない「肉体」がつながっている。
で、このあと詩は、切り離せない「肉体」である「利き手」がさらに、わがまま放題(?)に動き回るのだが、その前に、
この「小学生の頃のもの」というのは何だろう。「小学生の頃つかっていたものと同じ色」なのか、それとも「小学生の頃つかっていた色鉛筆」そのものなのか。言い換えると「抽象」なのか「具体」なのか。「同じ色」と考えるのが一般的だろうけれど、昔の色鉛筆そのものと考えることもできる。
詩は、こうつづく。
「新しい色鉛筆(昔のではない色鉛筆)」であっても、そこに「昔の色鉛筆」を見ている。「昔の色鉛筆の運命」を見ている。いや、「昔の色鉛筆」そのものになっている。「不名誉な長生きをくやんで恨みがましい声音をたてる」の「主語」は色鉛筆だが、色鉛筆そのものは「くやみ」も「恨み」もしないし、「声」をたてるということはしない。できない。言い換えると、ここでは岩佐が「昔の色鉛筆」になって、「くやみ」「恨み」、「声をたてる」のである。
「ナイフで削る」の「主語」は話者(岩佐)であるが、削っている内に削られる色鉛筆になっている。一体化してしまう。
一体化したのに、また、分離して、話者は話者に帰っていく。そうして、こんなふうに動く。
うーん、これは「愛情」なのか、「憎しみ」なのか、わからない。区別などできない。きっと、どういうことも区別などできない。ある瞬間瞬間に、何かが顕れてきて「いま」になるだけなんだろうなあ。
ふいに、私は、ここで「揉む」にもどる。
「揉む」という「動詞」をつかったことばに「揉みだす」という表現がある。揉むことで、その奥にあったものを表に出す。にじみ出てくるは自然の現象だが、揉みだすは人為的な行為。
「色鉛筆」から、岩佐を岩佐の記憶と感情を揉みだしている。詩は、隠れていたことばの動きを揉みだすことか。
でも、岩佐は、こんなふうに言う。
「しみ」が出てくる。「揉む」ことによって出てくるものではなくて、自然に滲んでくるもの。
行為(行動/肉体)と気分(思い/あるいは脳)が交錯し、入り乱れ、入れ替わる。時間も「いま」と「過去」が入り乱れる。おなじように「人為」と「自然」が入れ替わる。そうではなくて、「人為」が「自然」になるまで、待っている。その「持続」と「変化」の関係が、詩なのか。
「声」が「声色」になるところが、岩佐の詩の特徴なのか。
もしかすると「声色」ということばを書きたくて、ここまで書き続けたのか。
あ、こんなことは、「結論」を書こうとするからおかしくなる。
動き続けることばに触れて、なんだか奇妙だ。よくわからない。でも引きつけられる。読んでしまう。読み通し、それを「意味」にしようとするとわけがわからないが、「意味」にすることをやめてしまえば、そこで起きていることはその通りだと感じる。それで十分なのだろう。
これが、感想になるのかどうかわからないが、きょうはここで打ち切り。
*
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
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岩佐なを「色鉛筆」を読む。ことばが、あっちへ行ったり、こっちへ来たり。方向が定まらない。
缶におさめた多色の棒たちを利き手で
じゃらじゃらとかき混ぜる
と、征服した物や人のイノチを揉んでいる気分になる。
小学校に上る時に買ってもらった色鉛筆はたった
八?十?十二色?。
一箱なん色入りだったか忘れてしまった、無念。
くやしい脳、おもいだせずにしぼむ。
今でこそ忘れ去られ衰え果てた身分だけれども
わはは、百本以上の色鉛筆所有者になれるとは
小学生のじぶんには思いもよらなかった。
色鉛筆と向き合っているのだが、色鉛筆のことを書いているのか、気分を書いているか。小学生のときのことを書いているのか、いまのことを書いているのか。気分(思い)にしても、過去の悔しかったことを書いているのか、いまの快感(?)を書いているのか、入り乱れる。
と、征服した物や人のイノチを揉んでいる気分になる。
この、「と、」で「自分のしていること」を受け継いで(行動を描写して)、それから「気分」へと移行するときの「切断」と「接続」の関係が、よけいに「入り乱れる」という感じを強くする。
あらゆる行の先頭に「と、」があって、それが一種の「並列」の感じをつくりだしているのかもしれない。あらゆることが「並列」であり、「同等」である。「入り乱れる」のではなく、岩佐に言わせれば、それなりにきちんと「並んでいる」のだろう。「並ぶ」ときは、それぞれが「自己判断」で「基準」を決めている。「だれか」が「基準」を決めるのではなく、ことばがことば自身で「基準」を決めて、並んでいる。
「くやしい脳」というのは「くやしいのう」という「声」なのか、ほんとうに「脳」のことを書いているか。「脳」が「くやしい」と言っているのか。もしかしたら、誤植? 「小学生のじぶん」というのは「小学生の自分」なのか「小学生の時分」なのか。これも、どうも「あいまい」である。いや、ことばに言わせれば、それは私(谷内)が読みきれないだけであって、ちゃんと「基準(意味)」を限定しているというかもしれない。
でも。
「現実」というものは、こういうものだね。みんなが、それぞれ「基準」を持っている。自分の「指針」を持っている。全体は「絞りきれない」。統一できない。
だから、何かを書こうとすると、ふいに何かが割り込んでくる。そして、まとまらない。ことばは、書きたいものを書かせてくれない。書きたいことを書いたと思っても書き足りない。書き足りないと思って書いてしまうと、書きたいことが何だったか、あいまいになる。
これが、そのまま「再現」されている。
何が、どこで、どんなふうにつながっているのか。それを「明確」にするのは「脳」なのか、「思い(気分)」なのか。これもよくわからない。「脳」とか「気分(思い)」とかは、まあ、つながっているというよりも、分断されているものなのかもしれない。
視点を変える。
私は、
と、征服した物や人のイノチを揉んでいる気分になる。
この「揉んでいる」に驚いた。「揉んでいる」は、その前の行の「じゃらじゃらとかき混ぜる」を言いなおしたものだろうけれど、「かき混ぜる」ことが「揉む」? 「かき混ぜる」は「もてあそぶ」かなあ、と思ったりする。「方向を定めない」という感じ。「揉む」は「何かを軟らかくする」。固まっているものを解きほぐす。「固まっている」を「ひとつの方向」ととらえれば、「揉む」はそれを「複数の方向に拡散する」ということになり、まあ、「かき混ぜる」の「混ぜる」に近くなるかも。
でも、なんとなく、変。
この「揉む」は、もう一度出てくる。
百本以上の中には小学生の頃のものが数本ある。
缶の中から揉んで見つけ出す。
「揉む」は「選り分ける」か。
なぜ、「選り分ける」(識別する)ことが「揉む」なのか、わからない。
でも、そこに「手」があることがわかる。一行目に「利き手」ということばがあるが、きっと「利き手」で選り分ける。
「手」という「肉体」がすべてを繋いでいる。
よくわからないが、「脳(判断?)」や「思い(気分)」は、「いま」という時間を「切断」して、あっちこっちへ飛び回るが、「手」はそういうことをしない。あっちこっちへ意向にも、からだ全部とつながっていて、切り離せない。
「イノチ」と切り離せない「肉体」がつながっている。
で、このあと詩は、切り離せない「肉体」である「利き手」がさらに、わがまま放題(?)に動き回るのだが、その前に、
百本以上の中には小学生の頃のものが数本ある。
この「小学生の頃のもの」というのは何だろう。「小学生の頃つかっていたものと同じ色」なのか、それとも「小学生の頃つかっていた色鉛筆」そのものなのか。言い換えると「抽象」なのか「具体」なのか。「同じ色」と考えるのが一般的だろうけれど、昔の色鉛筆そのものと考えることもできる。
詩は、こうつづく。
これらは年を経てナイフで削ると木が硬い芯が粉っぽい
折れやすい。用がなかった色こそが生きのびていて
不名誉な長生きをくやんで恨みがましい声音をたてる。
「新しい色鉛筆(昔のではない色鉛筆)」であっても、そこに「昔の色鉛筆」を見ている。「昔の色鉛筆の運命」を見ている。いや、「昔の色鉛筆」そのものになっている。「不名誉な長生きをくやんで恨みがましい声音をたてる」の「主語」は色鉛筆だが、色鉛筆そのものは「くやみ」も「恨み」もしないし、「声」をたてるということはしない。できない。言い換えると、ここでは岩佐が「昔の色鉛筆」になって、「くやみ」「恨み」、「声をたてる」のである。
「ナイフで削る」の「主語」は話者(岩佐)であるが、削っている内に削られる色鉛筆になっている。一体化してしまう。
一体化したのに、また、分離して、話者は話者に帰っていく。そうして、こんなふうに動く。
紙上で芯がこきこき泣く。折れる。くずおれる。
いまも明日も一昨日もこれまでもこれからも。
ぬるんだよ。ぬり絵根性でぬるんだよ。
こき使って寿命を激しく減らしてやる。
うーん、これは「愛情」なのか、「憎しみ」なのか、わからない。区別などできない。きっと、どういうことも区別などできない。ある瞬間瞬間に、何かが顕れてきて「いま」になるだけなんだろうなあ。
ふいに、私は、ここで「揉む」にもどる。
「揉む」という「動詞」をつかったことばに「揉みだす」という表現がある。揉むことで、その奥にあったものを表に出す。にじみ出てくるは自然の現象だが、揉みだすは人為的な行為。
「色鉛筆」から、岩佐を岩佐の記憶と感情を揉みだしている。詩は、隠れていたことばの動きを揉みだすことか。
でも、岩佐は、こんなふうに言う。
灰色や白や薄茶色で、ぼうっとした絵肌目指して
画用紙にぬるごしごしぬれ、ぬり絵根性で。
創作主題はいつでもコンクリート壁に出現するしみ。
しみの姿は動機でもあり
すてきな容姿の秘められた声色を描く。
「しみ」が出てくる。「揉む」ことによって出てくるものではなくて、自然に滲んでくるもの。
行為(行動/肉体)と気分(思い/あるいは脳)が交錯し、入り乱れ、入れ替わる。時間も「いま」と「過去」が入り乱れる。おなじように「人為」と「自然」が入れ替わる。そうではなくて、「人為」が「自然」になるまで、待っている。その「持続」と「変化」の関係が、詩なのか。
「声」が「声色」になるところが、岩佐の詩の特徴なのか。
もしかすると「声色」ということばを書きたくて、ここまで書き続けたのか。
あ、こんなことは、「結論」を書こうとするからおかしくなる。
動き続けることばに触れて、なんだか奇妙だ。よくわからない。でも引きつけられる。読んでしまう。読み通し、それを「意味」にしようとするとわけがわからないが、「意味」にすることをやめてしまえば、そこで起きていることはその通りだと感じる。それで十分なのだろう。
これが、感想になるのかどうかわからないが、きょうはここで打ち切り。
*
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか12月号注文
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
オンデマンド形式です。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
岩佐なを 銅版画蔵書票集―エクスリブリスの詩情 1981‐2005 | |
クリエーター情報なし | |
美術出版社 |