詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「色鉛筆」

2018-01-25 08:33:47 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「色鉛筆」(「孔雀船」91、2018年1月15日発行)

 岩佐なを「色鉛筆」を読む。ことばが、あっちへ行ったり、こっちへ来たり。方向が定まらない。

缶におさめた多色の棒たちを利き手で
じゃらじゃらとかき混ぜる
と、征服した物や人のイノチを揉んでいる気分になる。
小学校に上る時に買ってもらった色鉛筆はたった
八?十?十二色?。
一箱なん色入りだったか忘れてしまった、無念。
くやしい脳、おもいだせずにしぼむ。
今でこそ忘れ去られ衰え果てた身分だけれども
わはは、百本以上の色鉛筆所有者になれるとは
小学生のじぶんには思いもよらなかった。

 色鉛筆と向き合っているのだが、色鉛筆のことを書いているのか、気分を書いているか。小学生のときのことを書いているのか、いまのことを書いているのか。気分(思い)にしても、過去の悔しかったことを書いているのか、いまの快感(?)を書いているのか、入り乱れる。

と、征服した物や人のイノチを揉んでいる気分になる。

 この、「と、」で「自分のしていること」を受け継いで(行動を描写して)、それから「気分」へと移行するときの「切断」と「接続」の関係が、よけいに「入り乱れる」という感じを強くする。
 あらゆる行の先頭に「と、」があって、それが一種の「並列」の感じをつくりだしているのかもしれない。あらゆることが「並列」であり、「同等」である。「入り乱れる」のではなく、岩佐に言わせれば、それなりにきちんと「並んでいる」のだろう。「並ぶ」ときは、それぞれが「自己判断」で「基準」を決めている。「だれか」が「基準」を決めるのではなく、ことばがことば自身で「基準」を決めて、並んでいる。
 「くやしい脳」というのは「くやしいのう」という「声」なのか、ほんとうに「脳」のことを書いているか。「脳」が「くやしい」と言っているのか。もしかしたら、誤植? 「小学生のじぶん」というのは「小学生の自分」なのか「小学生の時分」なのか。これも、どうも「あいまい」である。いや、ことばに言わせれば、それは私(谷内)が読みきれないだけであって、ちゃんと「基準(意味)」を限定しているというかもしれない。
 でも。
 「現実」というものは、こういうものだね。みんなが、それぞれ「基準」を持っている。自分の「指針」を持っている。全体は「絞りきれない」。統一できない。
 だから、何かを書こうとすると、ふいに何かが割り込んでくる。そして、まとまらない。ことばは、書きたいものを書かせてくれない。書きたいことを書いたと思っても書き足りない。書き足りないと思って書いてしまうと、書きたいことが何だったか、あいまいになる。
 これが、そのまま「再現」されている。
 何が、どこで、どんなふうにつながっているのか。それを「明確」にするのは「脳」なのか、「思い(気分)」なのか。これもよくわからない。「脳」とか「気分(思い)」とかは、まあ、つながっているというよりも、分断されているものなのかもしれない。
 
 視点を変える。
 私は、

と、征服した物や人のイノチを揉んでいる気分になる。

 この「揉んでいる」に驚いた。「揉んでいる」は、その前の行の「じゃらじゃらとかき混ぜる」を言いなおしたものだろうけれど、「かき混ぜる」ことが「揉む」? 「かき混ぜる」は「もてあそぶ」かなあ、と思ったりする。「方向を定めない」という感じ。「揉む」は「何かを軟らかくする」。固まっているものを解きほぐす。「固まっている」を「ひとつの方向」ととらえれば、「揉む」はそれを「複数の方向に拡散する」ということになり、まあ、「かき混ぜる」の「混ぜる」に近くなるかも。
 でも、なんとなく、変。
 この「揉む」は、もう一度出てくる。

百本以上の中には小学生の頃のものが数本ある。
缶の中から揉んで見つけ出す。

 「揉む」は「選り分ける」か。
 なぜ、「選り分ける」(識別する)ことが「揉む」なのか、わからない。
 でも、そこに「手」があることがわかる。一行目に「利き手」ということばがあるが、きっと「利き手」で選り分ける。
 「手」という「肉体」がすべてを繋いでいる。
 よくわからないが、「脳(判断?)」や「思い(気分)」は、「いま」という時間を「切断」して、あっちこっちへ飛び回るが、「手」はそういうことをしない。あっちこっちへ意向にも、からだ全部とつながっていて、切り離せない。
 「イノチ」と切り離せない「肉体」がつながっている。
 で、このあと詩は、切り離せない「肉体」である「利き手」がさらに、わがまま放題(?)に動き回るのだが、その前に、

百本以上の中には小学生の頃のものが数本ある。

 この「小学生の頃のもの」というのは何だろう。「小学生の頃つかっていたものと同じ色」なのか、それとも「小学生の頃つかっていた色鉛筆」そのものなのか。言い換えると「抽象」なのか「具体」なのか。「同じ色」と考えるのが一般的だろうけれど、昔の色鉛筆そのものと考えることもできる。
 詩は、こうつづく。

これらは年を経てナイフで削ると木が硬い芯が粉っぽい
折れやすい。用がなかった色こそが生きのびていて
不名誉な長生きをくやんで恨みがましい声音をたてる。
 
 「新しい色鉛筆(昔のではない色鉛筆)」であっても、そこに「昔の色鉛筆」を見ている。「昔の色鉛筆の運命」を見ている。いや、「昔の色鉛筆」そのものになっている。「不名誉な長生きをくやんで恨みがましい声音をたてる」の「主語」は色鉛筆だが、色鉛筆そのものは「くやみ」も「恨み」もしないし、「声」をたてるということはしない。できない。言い換えると、ここでは岩佐が「昔の色鉛筆」になって、「くやみ」「恨み」、「声をたてる」のである。
 「ナイフで削る」の「主語」は話者(岩佐)であるが、削っている内に削られる色鉛筆になっている。一体化してしまう。
 一体化したのに、また、分離して、話者は話者に帰っていく。そうして、こんなふうに動く。

紙上で芯がこきこき泣く。折れる。くずおれる。
いまも明日も一昨日もこれまでもこれからも。
ぬるんだよ。ぬり絵根性でぬるんだよ。
こき使って寿命を激しく減らしてやる。

 うーん、これは「愛情」なのか、「憎しみ」なのか、わからない。区別などできない。きっと、どういうことも区別などできない。ある瞬間瞬間に、何かが顕れてきて「いま」になるだけなんだろうなあ。
 ふいに、私は、ここで「揉む」にもどる。
 「揉む」という「動詞」をつかったことばに「揉みだす」という表現がある。揉むことで、その奥にあったものを表に出す。にじみ出てくるは自然の現象だが、揉みだすは人為的な行為。
 「色鉛筆」から、岩佐を岩佐の記憶と感情を揉みだしている。詩は、隠れていたことばの動きを揉みだすことか。
 でも、岩佐は、こんなふうに言う。

灰色や白や薄茶色で、ぼうっとした絵肌目指して
画用紙にぬるごしごしぬれ、ぬり絵根性で。
創作主題はいつでもコンクリート壁に出現するしみ。
しみの姿は動機でもあり
すてきな容姿の秘められた声色を描く。

 「しみ」が出てくる。「揉む」ことによって出てくるものではなくて、自然に滲んでくるもの。
 行為(行動/肉体)と気分(思い/あるいは脳)が交錯し、入り乱れ、入れ替わる。時間も「いま」と「過去」が入り乱れる。おなじように「人為」と「自然」が入れ替わる。そうではなくて、「人為」が「自然」になるまで、待っている。その「持続」と「変化」の関係が、詩なのか。
 「声」が「声色」になるところが、岩佐の詩の特徴なのか。
 もしかすると「声色」ということばを書きたくて、ここまで書き続けたのか。

 あ、こんなことは、「結論」を書こうとするからおかしくなる。

 動き続けることばに触れて、なんだか奇妙だ。よくわからない。でも引きつけられる。読んでしまう。読み通し、それを「意味」にしようとするとわけがわからないが、「意味」にすることをやめてしまえば、そこで起きていることはその通りだと感じる。それで十分なのだろう。
 これが、感想になるのかどうかわからないが、きょうはここで打ち切り。


*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか12月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
岩佐なを 銅版画蔵書票集―エクスリブリスの詩情 1981‐2005
クリエーター情報なし
美術出版社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする