アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」(イナン・オネル訳)(「ミて」141、2017年12月31日発行)
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」の一連目。
一行目の「考えさせられる」に思わず傍線を引いた。「意味」は「わかる」、わかったつもりになる。でも何か違和感がある。「考える」と、こういうときにつかうだろうか。私はつかわない。「感じる」かなあ、と思う。
「感じる」と「考える」は、どこが違うか。
「感じる」にはたぶんことばはいらない。「考える」にはことばが必要だ。ことばを動かして「考える」。「感じた」ことをことばにしようとして「考える」。そういう違いがあると思う。
「何か」としか言えないもの(「何か」と感じたもの)を、ことばにしようとしているのだろう。
「暖かく、友情のようなもの」というのもことばではあるのだけれど、それをさらに言いなおそうとしている。「考える」とは「言いなおす」ことでもある。どう言いなおすか。「馴染みのあるベッド」。ベッドはたしかに「暖かい」、「友情」は、そして「馴染みがある(なつかしい)」。しかもそれが「待っている」。「待っている」ということばのなかで全部がひとつになる。そう詩人は「考えた」。そして、その「考え」をことばにした。
さらにそれを「ある子供の顔が微笑む、思い出の中から」と言いなおすのだが、この一行はとてもおもしろい。「ある子供」とは誰なのか。アタオル・ベフラモールではなく別なひとと想像することもできるが、アタオル・ベフラモール自身かもしれない。ベッドで微笑んだことを覚えていて、それを思い出している。自分の笑顔は見えないはずだけれど、思い出の中でなら「見える」。思い出すというのは実際に見るのではなく、意識を動かして見ることだからね。
一行目は、よく読み直すと「考える」ではなく、「考えさせられる」。「使役」になっている。誰が「考えさせて」いるのか。あるいは何が「考えさせて」いるのか。ことばを動かすことを詩人に求めているのか。「思い出」だろうか。この街(馴染みのある街)に住んだ思い出が、肉体のなかでうごめきだし、「ことばにして」と呼びかけている。それを感じて、詩人はことばを生み出そうとしている。あるいは「感じ」そのものが「考えさせている」のだろう。
詩は、こう続いていく。
「感じる」が二回出てくる。「感じる」とはどういうことなのか。「考える」とはどういうことなのか。「感じる」から見つめなおしてみる。
「感じる」ということばは同じようにつかわれている。同じつかい方をしている。直前に「ように」ということばがある。「ように」とは言いなおすと「比喩」。何かを言いなおしたもの。「そのもの」を直接「考える」のではなく、「比喩」がわりこむと、それを「感じる」と言っていることになる
「ように」は一行目にもあった。「暖かく、友情のような何か」。これは「暖かく、友情のように感じる何か」と「感じる」を補うことができる。やはり「感じる」が「考えさせている」のである。
さらに、その「ように」の直前のことばを見ると、そこにも共通するものがある。「繰り返している」「変化している」という「動詞」を引き継いで「ように」と言っている。「動いている(止まっていない)から「ように」と「あいまい」にとらえる。「断定」しないのだ。
一行目の「暖かい」「友情」もまた変化するということを暗示しているのかもしれない。変化するもの、動くものから、「固定したもの」(動かないもの)への移行が「感じる」から「考える」への動きの中にある。
これは「考える」ときの対象と比較すると明らかにある。「暖かい何か」「友情につながる何か」は「馴染みのベッド」と言いなおされ、「子供の微笑む顔」と言いなおされている。正確には「子供の顔が微笑む」だが、それは「子供の微笑み」と言いなおしてもいいだろう。
「動く」ものを「感じる」とは、「感じる」とは「動くこと」である。「肉体」のなかで「感じ」が「動く」。それは固定化されない。悲しみも喜びも「変化する」。
「考える」は何かを「固定化」することである。
「子供の顔が微笑む」は、このことを考える時、いろいろなことを「考えさせてくれる」。「子供」そのものは生長し、変化する。微笑みも変化する。ところが、それを思い出す時、子供は子供のまま、笑顔は笑顔のまま、そこにあったときのまま、「時間」さえ固定化してあらわれる。変化してしまうものも、固定化してことばにすることが「考える」ということになるかもしれない。
「馴染みの街に入る」。その街はすでに変化している。「自分が変死しているように」、「馴染みのある街も変化している」。「は(が)」」と「も」は主語を入れ替える時にいっしょに交代する。ところが「ことば」としてとらえなおすとき、そこにあらわれるものは「固定化」している。「固定化」された「過去」と「いま」を比較するとき、その比較の中に「変化」があらわれる。
トルコ語では「考える」と「感じる」は、どうつかいわけるのかわからないが、翻訳をとおして、そういうことを考えた。
「感じる」「感じさせられる」ではなく「考える」「考えさせられる」ということばではじまったところから、詩が生まれている。
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「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか12月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」の一連目。
暖かく、友情のような何かを考えさせられる
馴染みのベッドが待っている
ある子供の顔が微笑む、思い出の中から
一行目の「考えさせられる」に思わず傍線を引いた。「意味」は「わかる」、わかったつもりになる。でも何か違和感がある。「考える」と、こういうときにつかうだろうか。私はつかわない。「感じる」かなあ、と思う。
「感じる」と「考える」は、どこが違うか。
「感じる」にはたぶんことばはいらない。「考える」にはことばが必要だ。ことばを動かして「考える」。「感じた」ことをことばにしようとして「考える」。そういう違いがあると思う。
「何か」としか言えないもの(「何か」と感じたもの)を、ことばにしようとしているのだろう。
「暖かく、友情のようなもの」というのもことばではあるのだけれど、それをさらに言いなおそうとしている。「考える」とは「言いなおす」ことでもある。どう言いなおすか。「馴染みのあるベッド」。ベッドはたしかに「暖かい」、「友情」は、そして「馴染みがある(なつかしい)」。しかもそれが「待っている」。「待っている」ということばのなかで全部がひとつになる。そう詩人は「考えた」。そして、その「考え」をことばにした。
さらにそれを「ある子供の顔が微笑む、思い出の中から」と言いなおすのだが、この一行はとてもおもしろい。「ある子供」とは誰なのか。アタオル・ベフラモールではなく別なひとと想像することもできるが、アタオル・ベフラモール自身かもしれない。ベッドで微笑んだことを覚えていて、それを思い出している。自分の笑顔は見えないはずだけれど、思い出の中でなら「見える」。思い出すというのは実際に見るのではなく、意識を動かして見ることだからね。
一行目は、よく読み直すと「考える」ではなく、「考えさせられる」。「使役」になっている。誰が「考えさせて」いるのか。あるいは何が「考えさせて」いるのか。ことばを動かすことを詩人に求めているのか。「思い出」だろうか。この街(馴染みのある街)に住んだ思い出が、肉体のなかでうごめきだし、「ことばにして」と呼びかけている。それを感じて、詩人はことばを生み出そうとしている。あるいは「感じ」そのものが「考えさせている」のだろう。
詩は、こう続いていく。
友情の街、恋人の、母の街
様々な苦痛を、様々な幸福を味わった、それぞれにおいて
恐れを知らない喜びに満ちて、街道を通ったこともあった
糧染みに満ちた日もあった、狂いそうになりながら
永遠のコマのフィルムのように
人生が記憶を過(よぎ)る
繰り返しているように感じる
総てをはじめから
ある朝、馴染みの街に入る時
悲しく、不思議な何かを考えさせられる
その街だけではなく
自分も変化しているように感じて
「感じる」が二回出てくる。「感じる」とはどういうことなのか。「考える」とはどういうことなのか。「感じる」から見つめなおしてみる。
「感じる」ということばは同じようにつかわれている。同じつかい方をしている。直前に「ように」ということばがある。「ように」とは言いなおすと「比喩」。何かを言いなおしたもの。「そのもの」を直接「考える」のではなく、「比喩」がわりこむと、それを「感じる」と言っていることになる
「ように」は一行目にもあった。「暖かく、友情のような何か」。これは「暖かく、友情のように感じる何か」と「感じる」を補うことができる。やはり「感じる」が「考えさせている」のである。
さらに、その「ように」の直前のことばを見ると、そこにも共通するものがある。「繰り返している」「変化している」という「動詞」を引き継いで「ように」と言っている。「動いている(止まっていない)から「ように」と「あいまい」にとらえる。「断定」しないのだ。
一行目の「暖かい」「友情」もまた変化するということを暗示しているのかもしれない。変化するもの、動くものから、「固定したもの」(動かないもの)への移行が「感じる」から「考える」への動きの中にある。
これは「考える」ときの対象と比較すると明らかにある。「暖かい何か」「友情につながる何か」は「馴染みのベッド」と言いなおされ、「子供の微笑む顔」と言いなおされている。正確には「子供の顔が微笑む」だが、それは「子供の微笑み」と言いなおしてもいいだろう。
「動く」ものを「感じる」とは、「感じる」とは「動くこと」である。「肉体」のなかで「感じ」が「動く」。それは固定化されない。悲しみも喜びも「変化する」。
「考える」は何かを「固定化」することである。
「子供の顔が微笑む」は、このことを考える時、いろいろなことを「考えさせてくれる」。「子供」そのものは生長し、変化する。微笑みも変化する。ところが、それを思い出す時、子供は子供のまま、笑顔は笑顔のまま、そこにあったときのまま、「時間」さえ固定化してあらわれる。変化してしまうものも、固定化してことばにすることが「考える」ということになるかもしれない。
「馴染みの街に入る」。その街はすでに変化している。「自分が変死しているように」、「馴染みのある街も変化している」。「は(が)」」と「も」は主語を入れ替える時にいっしょに交代する。ところが「ことば」としてとらえなおすとき、そこにあらわれるものは「固定化」している。「固定化」された「過去」と「いま」を比較するとき、その比較の中に「変化」があらわれる。
トルコ語では「考える」と「感じる」は、どうつかいわけるのかわからないが、翻訳をとおして、そういうことを考えた。
「感じる」「感じさせられる」ではなく「考える」「考えさせられる」ということばではじまったところから、詩が生まれている。
*
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか12月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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