堤美代「尾っぽ」(「ゆりすか」115、2018年1月1日発行)
堤美代「尾っぽ」を読み終わった瞬間、あ、堤が切れたトカゲになった、と思った。実際にはそういうことを書いていないのだが。
どうしてか。
最終連の「どんなに耳をますしても/きこえない」がとても印象的だ。何が「聞こえない」のか。「聞こえない」だから「音」だろう。何の音か。「いつのまにか伸びる/足の指の爪」の「音」だろう。
足だけに限らないが、爪は伸びる。トカゲで言えば、爪は尾っぽのようなもの。切っても切っても、のびてくる(生えてくる)。でも、その伸びる音は聞こえない。「どんなに耳をますしても」。
あたりまえのことだが、そのあたりまえをなぜ書くのか。
「耳をすまして」聞きたいのだ。
鳳仙花は音を立てて開くか。いや、確か種に触れると音を立ててはじけるのだったと思うが。(花が開くとき音がするのは蓮だ。)ものには「変化」するとき音を立てるものがあるということを「肉体」がどこかで覚えている。それが鳳仙花といっしょに動いている。「ゆうべは莟だったのに/朝 とつぜん咲いた」。そのとき「音」を立てたかもしれない。「音」は鳳仙花の「生長」(時間の経過)をあらわす。
尾っぽの切れたトカゲからあたらしい尾っぽが伸びるとき(生長するとき)、どうだろう。「音」を立てるか。私にはわからないが、トカゲはもしかするとその「音」を肉体で聞いているかもしれない。肉体の内部で、そういう「音」が生まれているかもしれない。でも爪の伸びる音を堤は聞くことができない。
こんなことを思うのは。(詩を後ろから前へ遡るように読んでしまうのだが。)
三連目に「なかにはこころとなづけるものさえ」ということばがあるからだ。この「なか」というのは、トカゲの「肉体」の「なか」である。トカゲは「キノウワタシモオヲキラレタ」と言っている。後から生えた尾っぽを「肉体」につけながら、きのうを思い出している。だれに言っているのか。もう一匹のトカゲか。それとも堤にか。もう一匹のトカゲに対して(ついさっき尾っぽを切られたトカゲに対して)言っているにしろ、それが聞こえたということは、堤に対して言っているということになる。トカゲはもちろん日本語など話さないから、この声を堤が聞いたとしたらそれは実際にはトカゲの声ではなく、トカゲのこころの声である。トカゲのこころと堤のこころが重なっている。こころが重なっているとき、「肉体」もまた重なっている。ひとつになっている。トカゲと堤は区別のつかない存在である。
どうして、こんなことが起きるのか。
また詩は遡るのだが、一連目に出てくる尾っぽの切れたトカゲは、実は堤が踏みつけるか何かして尾っぽが切れた。尾っぽを切ったのは堤だ。「尾っぽが切れた/尾っぽを切った」というのは「重なっている」。ひとつのことを、トカゲと堤からみつめると「尾っぽが切れた/尾っぽを切った」という形でいうことができるが、いい方(ことば)が「ふたつ」あるからといって「事実(こと)」が「ふたつ」あるわけではない。「事実」は「ひとつ」だ。
この「ひとつ」のなかで、「ふたつ」が動いている。「ひとつ」のなかから「ふたつ」がそれぞれ「ひとつ」としてあらわれてきて動いている。
トカゲと堤はまったく違った存在だが、しかし、それは「入れ替わり可能」なのだ。いや「入れ替え」しながら、それは「ひとつ」であるとつかみとらないと「世界/事実」というものが存在しない。堤は堤の肉体とトカゲの肉体を入れ替えながら、「世界/事実」そのものになっている。
何かが「わかる」ということは、たぶん、そういうことなのだ。
トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまった。それが「ひとつ」のことであると「わかる」瞬間、世界のすべてが「わかる」。トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまったは、トカゲの尾っぽを切ってしまった/トカゲの尾っぽは切れた、でもある。「世界」の区切りがなくなる。
「鳳仙花」がこの詩には出てくる。それは単なる「背景」のようだが、実はそうではない。「トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまった」が「ひとつ」のこととしてわかった瞬間、「世界」が拡大し(ビッグバンのように爆発し)、鳳仙花まで「世界」のなかにのみこんでしまったのだ。あるいは「ビッグバン」が鳳仙花をも生み出したのだ。鳳仙花が花を開く。書かれていないが、それはやがて種になってはじける。同じように、切られたトカゲの尾っぽはやがてふたたび生えてくる。同じように、堤の足の爪ものびてくる。「無意識」のそういう時間の変化、自然そのものの不思議が「ひとつ」として「わかる」。
「わかる」瞬間、何かが透明になる。「世界」が透明になるということかもしれない。それは「耳をすます」の「澄ます」に通じる透明である。「透明」になって、「世界」のすみずみにまで「ひとつ」が広がっていくけれど、広がりながら、同時にそこには「わからない」もある。たとえば「爪の伸びる音」は「わからない/聞こえない」ものとして、そこにある。「爪の伸びる音」は「聞こえない/わからない」から、それも「透明/透き通ってしまった/障碍ではなくなった」と読み直すこともできるかもしれない。でも「わからないもの/聞こえないもの」として、そこに「ある」という感じの方が、「抵抗感」があって温かいと思う。
あ、なんだか、わけのわからない感想になってしまったが、トカゲと堤の「肉体」がひとつになる、その「なり方」がおもしろいなあと思う。
*
「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
(12月号は、いま制作中です。完成次第、お知らせします。)
詩はどこにあるか11月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
堤美代「尾っぽ」を読み終わった瞬間、あ、堤が切れたトカゲになった、と思った。実際にはそういうことを書いていないのだが。
どうしてか。
鳳仙花の
赤い茎の間をくぐって
尾っぽの切れたトカゲが
するりと葉陰に消えた
羊葉の薄緑の壁が
かすかに揺れた
着られた尾っぽが
いつのまにか生えて
青鈍(あおにび)色にギラリと光った
トカゲの尾っぽきり
キノウワタシモオヲキラレタ
あとから生えた尾には
骨がないのだという
まだ腰から上には脊椎があり首がある
なかにはこころとなづけるものさえ
ゆうべは莟だったのに
朝 とつぜん咲いた
鳳仙花
言葉より たしかな
切られた尾っぽの 青鈍
どんなに耳をますしても
きこえない
いつのまにか伸びる
足の指の爪が十本
アタシにもあった
最終連の「どんなに耳をますしても/きこえない」がとても印象的だ。何が「聞こえない」のか。「聞こえない」だから「音」だろう。何の音か。「いつのまにか伸びる/足の指の爪」の「音」だろう。
足だけに限らないが、爪は伸びる。トカゲで言えば、爪は尾っぽのようなもの。切っても切っても、のびてくる(生えてくる)。でも、その伸びる音は聞こえない。「どんなに耳をますしても」。
あたりまえのことだが、そのあたりまえをなぜ書くのか。
「耳をすまして」聞きたいのだ。
鳳仙花は音を立てて開くか。いや、確か種に触れると音を立ててはじけるのだったと思うが。(花が開くとき音がするのは蓮だ。)ものには「変化」するとき音を立てるものがあるということを「肉体」がどこかで覚えている。それが鳳仙花といっしょに動いている。「ゆうべは莟だったのに/朝 とつぜん咲いた」。そのとき「音」を立てたかもしれない。「音」は鳳仙花の「生長」(時間の経過)をあらわす。
尾っぽの切れたトカゲからあたらしい尾っぽが伸びるとき(生長するとき)、どうだろう。「音」を立てるか。私にはわからないが、トカゲはもしかするとその「音」を肉体で聞いているかもしれない。肉体の内部で、そういう「音」が生まれているかもしれない。でも爪の伸びる音を堤は聞くことができない。
こんなことを思うのは。(詩を後ろから前へ遡るように読んでしまうのだが。)
三連目に「なかにはこころとなづけるものさえ」ということばがあるからだ。この「なか」というのは、トカゲの「肉体」の「なか」である。トカゲは「キノウワタシモオヲキラレタ」と言っている。後から生えた尾っぽを「肉体」につけながら、きのうを思い出している。だれに言っているのか。もう一匹のトカゲか。それとも堤にか。もう一匹のトカゲに対して(ついさっき尾っぽを切られたトカゲに対して)言っているにしろ、それが聞こえたということは、堤に対して言っているということになる。トカゲはもちろん日本語など話さないから、この声を堤が聞いたとしたらそれは実際にはトカゲの声ではなく、トカゲのこころの声である。トカゲのこころと堤のこころが重なっている。こころが重なっているとき、「肉体」もまた重なっている。ひとつになっている。トカゲと堤は区別のつかない存在である。
どうして、こんなことが起きるのか。
また詩は遡るのだが、一連目に出てくる尾っぽの切れたトカゲは、実は堤が踏みつけるか何かして尾っぽが切れた。尾っぽを切ったのは堤だ。「尾っぽが切れた/尾っぽを切った」というのは「重なっている」。ひとつのことを、トカゲと堤からみつめると「尾っぽが切れた/尾っぽを切った」という形でいうことができるが、いい方(ことば)が「ふたつ」あるからといって「事実(こと)」が「ふたつ」あるわけではない。「事実」は「ひとつ」だ。
この「ひとつ」のなかで、「ふたつ」が動いている。「ひとつ」のなかから「ふたつ」がそれぞれ「ひとつ」としてあらわれてきて動いている。
トカゲと堤はまったく違った存在だが、しかし、それは「入れ替わり可能」なのだ。いや「入れ替え」しながら、それは「ひとつ」であるとつかみとらないと「世界/事実」というものが存在しない。堤は堤の肉体とトカゲの肉体を入れ替えながら、「世界/事実」そのものになっている。
何かが「わかる」ということは、たぶん、そういうことなのだ。
トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまった。それが「ひとつ」のことであると「わかる」瞬間、世界のすべてが「わかる」。トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまったは、トカゲの尾っぽを切ってしまった/トカゲの尾っぽは切れた、でもある。「世界」の区切りがなくなる。
「鳳仙花」がこの詩には出てくる。それは単なる「背景」のようだが、実はそうではない。「トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまった」が「ひとつ」のこととしてわかった瞬間、「世界」が拡大し(ビッグバンのように爆発し)、鳳仙花まで「世界」のなかにのみこんでしまったのだ。あるいは「ビッグバン」が鳳仙花をも生み出したのだ。鳳仙花が花を開く。書かれていないが、それはやがて種になってはじける。同じように、切られたトカゲの尾っぽはやがてふたたび生えてくる。同じように、堤の足の爪ものびてくる。「無意識」のそういう時間の変化、自然そのものの不思議が「ひとつ」として「わかる」。
「わかる」瞬間、何かが透明になる。「世界」が透明になるということかもしれない。それは「耳をすます」の「澄ます」に通じる透明である。「透明」になって、「世界」のすみずみにまで「ひとつ」が広がっていくけれど、広がりながら、同時にそこには「わからない」もある。たとえば「爪の伸びる音」は「わからない/聞こえない」ものとして、そこにある。「爪の伸びる音」は「聞こえない/わからない」から、それも「透明/透き通ってしまった/障碍ではなくなった」と読み直すこともできるかもしれない。でも「わからないもの/聞こえないもの」として、そこに「ある」という感じの方が、「抵抗感」があって温かいと思う。
あ、なんだか、わけのわからない感想になってしまったが、トカゲと堤の「肉体」がひとつになる、その「なり方」がおもしろいなあと思う。
百年の百合 | |
クリエーター情報なし | |
榛名まほろば出版 |
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「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
(12月号は、いま制作中です。完成次第、お知らせします。)
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オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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詩集『誤読』を発売しています。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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