詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

堤美代「尾っぽ」

2018-01-08 10:31:37 | 詩(雑誌・同人誌)
堤美代「尾っぽ」(「ゆりすか」115、2018年1月1日発行)

 堤美代「尾っぽ」を読み終わった瞬間、あ、堤が切れたトカゲになった、と思った。実際にはそういうことを書いていないのだが。
 どうしてか。

鳳仙花の
赤い茎の間をくぐって
尾っぽの切れたトカゲが
するりと葉陰に消えた
羊葉の薄緑の壁が
かすかに揺れた

着られた尾っぽが
いつのまにか生えて
青鈍(あおにび)色にギラリと光った

トカゲの尾っぽきり
 キノウワタシモオヲキラレタ
あとから生えた尾には
骨がないのだという
まだ腰から上には脊椎があり首がある
 なかにはこころとなづけるものさえ

ゆうべは莟だったのに
朝 とつぜん咲いた
鳳仙花
言葉より たしかな
切られた尾っぽの 青鈍
どんなに耳をますしても
きこえない
いつのまにか伸びる
足の指の爪が十本
アタシにもあった

 最終連の「どんなに耳をますしても/きこえない」がとても印象的だ。何が「聞こえない」のか。「聞こえない」だから「音」だろう。何の音か。「いつのまにか伸びる/足の指の爪」の「音」だろう。
 足だけに限らないが、爪は伸びる。トカゲで言えば、爪は尾っぽのようなもの。切っても切っても、のびてくる(生えてくる)。でも、その伸びる音は聞こえない。「どんなに耳をますしても」。
 あたりまえのことだが、そのあたりまえをなぜ書くのか。
 「耳をすまして」聞きたいのだ。
 鳳仙花は音を立てて開くか。いや、確か種に触れると音を立ててはじけるのだったと思うが。(花が開くとき音がするのは蓮だ。)ものには「変化」するとき音を立てるものがあるということを「肉体」がどこかで覚えている。それが鳳仙花といっしょに動いている。「ゆうべは莟だったのに/朝 とつぜん咲いた」。そのとき「音」を立てたかもしれない。「音」は鳳仙花の「生長」(時間の経過)をあらわす。
 尾っぽの切れたトカゲからあたらしい尾っぽが伸びるとき(生長するとき)、どうだろう。「音」を立てるか。私にはわからないが、トカゲはもしかするとその「音」を肉体で聞いているかもしれない。肉体の内部で、そういう「音」が生まれているかもしれない。でも爪の伸びる音を堤は聞くことができない。
 こんなことを思うのは。(詩を後ろから前へ遡るように読んでしまうのだが。)
 三連目に「なかにはこころとなづけるものさえ」ということばがあるからだ。この「なか」というのは、トカゲの「肉体」の「なか」である。トカゲは「キノウワタシモオヲキラレタ」と言っている。後から生えた尾っぽを「肉体」につけながら、きのうを思い出している。だれに言っているのか。もう一匹のトカゲか。それとも堤にか。もう一匹のトカゲに対して(ついさっき尾っぽを切られたトカゲに対して)言っているにしろ、それが聞こえたということは、堤に対して言っているということになる。トカゲはもちろん日本語など話さないから、この声を堤が聞いたとしたらそれは実際にはトカゲの声ではなく、トカゲのこころの声である。トカゲのこころと堤のこころが重なっている。こころが重なっているとき、「肉体」もまた重なっている。ひとつになっている。トカゲと堤は区別のつかない存在である。
 どうして、こんなことが起きるのか。
 また詩は遡るのだが、一連目に出てくる尾っぽの切れたトカゲは、実は堤が踏みつけるか何かして尾っぽが切れた。尾っぽを切ったのは堤だ。「尾っぽが切れた/尾っぽを切った」というのは「重なっている」。ひとつのことを、トカゲと堤からみつめると「尾っぽが切れた/尾っぽを切った」という形でいうことができるが、いい方(ことば)が「ふたつ」あるからといって「事実(こと)」が「ふたつ」あるわけではない。「事実」は「ひとつ」だ。
 この「ひとつ」のなかで、「ふたつ」が動いている。「ひとつ」のなかから「ふたつ」がそれぞれ「ひとつ」としてあらわれてきて動いている。
 トカゲと堤はまったく違った存在だが、しかし、それは「入れ替わり可能」なのだ。いや「入れ替え」しながら、それは「ひとつ」であるとつかみとらないと「世界/事実」というものが存在しない。堤は堤の肉体とトカゲの肉体を入れ替えながら、「世界/事実」そのものになっている。

 何かが「わかる」ということは、たぶん、そういうことなのだ。

 トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまった。それが「ひとつ」のことであると「わかる」瞬間、世界のすべてが「わかる」。トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまったは、トカゲの尾っぽを切ってしまった/トカゲの尾っぽは切れた、でもある。「世界」の区切りがなくなる。
 「鳳仙花」がこの詩には出てくる。それは単なる「背景」のようだが、実はそうではない。「トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまった」が「ひとつ」のこととしてわかった瞬間、「世界」が拡大し(ビッグバンのように爆発し)、鳳仙花まで「世界」のなかにのみこんでしまったのだ。あるいは「ビッグバン」が鳳仙花をも生み出したのだ。鳳仙花が花を開く。書かれていないが、それはやがて種になってはじける。同じように、切られたトカゲの尾っぽはやがてふたたび生えてくる。同じように、堤の足の爪ものびてくる。「無意識」のそういう時間の変化、自然そのものの不思議が「ひとつ」として「わかる」。

 「わかる」瞬間、何かが透明になる。「世界」が透明になるということかもしれない。それは「耳をすます」の「澄ます」に通じる透明である。「透明」になって、「世界」のすみずみにまで「ひとつ」が広がっていくけれど、広がりながら、同時にそこには「わからない」もある。たとえば「爪の伸びる音」は「わからない/聞こえない」ものとして、そこにある。「爪の伸びる音」は「聞こえない/わからない」から、それも「透明/透き通ってしまった/障碍ではなくなった」と読み直すこともできるかもしれない。でも「わからないもの/聞こえないもの」として、そこに「ある」という感じの方が、「抵抗感」があって温かいと思う。

 あ、なんだか、わけのわからない感想になってしまったが、トカゲと堤の「肉体」がひとつになる、その「なり方」がおもしろいなあと思う。

百年の百合
クリエーター情報なし
榛名まほろば出版

*


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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



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松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」(インタビューについて考える)

2018-01-08 08:24:22 | その他(音楽、小説etc)


 1月7日、松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」のインタビュー撮影があった。「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」「憲法9条改正、これでいいのか」(以上、ポエムピース発行)「天皇の悲鳴」(オンデマンド出版)を読んで、取材してみようと思い立ったとのこと。

 取材を受けて感じたのは、語ることのむずかしさである。
 新聞の取材でも感じることだが、書くことと、聞かれて語ることは、まったく違う。取材されるときは「リハーサル」がない。そのために、とてもとまどう。
 「書く」ことにもリハーサルはないと言われるかもしれない。私は詩、小説、映画の感想を書くとき、「結論」を決めて、その結論に向けてことばを動かすわけではない。つまり「構想」もなしに書き始めるので、書くことにもリハーサルがないと考えていたのだが、実はそうではなかったということに気づいた。
 「読む」「見る」が実は「リハーサル」だったのだ。
 あ、このことばは印象的だなあ、このシーンはいいなあと思う。その「思う」瞬間がリハーサル。「思う」「考える」はことばをつかって「思う/考える」ということ。「思う/考える」瞬間、すでにことばは動いている。書くときは、その「思った」ことを思い出しながら、ことばにする。それは「リハーサルの復習」であり、「実演」なのだ。
 ところがインタビューを受けるときは、この「思った」ことを「思い出す」という感じになれない。いつも「思っている」ことを語るのだが、いつも思っていることとというのは、それが「いつも思っている」だけに、意識になっていない。無意識になっている。その「無意識」をいきなり語るように言われて、とまどってしまう。ことばを動かす「きっかけ(対象)」がない。
 詩の感想を書く、映画の感想を書くというときは、つねにことばを動かしていく「対象」がある。けれど、インタビューを受けるときは、その「対象」が自分の「無意識」なので、動かそうにも動かしようがないということが起きる。

 インタビューというのは、そこに誰かがいるわけだが、それは「対話」ではない、ということが、ことばを動かすときの「障碍」のようになっているということもわかった。
 私はプラトンの「対話篇」がとても好きだが、「対話篇」はあくまで「対話」だ。ソクラテスと誰かが「対話」する。ソクラテスのことばが「中心」にあるように思えるが、そのことばは相手のことばを「点検」するような形で動いている。ソクラテスがソクラテスだけで、自分のことばを動かしているわけではない。自分以外のことばと出会い、そのとき自分のことばはどう動くかを調べている。
 私はたぶん、その「対話篇」にとても影響を受けている。
 他人の話を聞く(作品を読む)というのは、自分のことばを動かすためのリハーサル。聞いた後、読んだ後で、自分のことばが誘い出されるようにして動く。ソクラテスは相手の話を聞きながら、肉体の中でことばが動いているのを感じている。そのときの「感じ」(違和感とか、同意とか)を思い出しながら、「声」の形でことばを動かしていく。
 私もたぶんそういうことをやっている。
 インタビューという形式では、「話し相手」はいるにはいるが、その「相手」は自分のことばを動かさない。「対話」ではなく、実は「独白」なのだ。それが「むずかしさ」の理由だ。
 完全な「独白」なら、何度でもおなじことばを繰り返していられる。でもインタビューはそういうこともできない。
 「質問」と「答え」という形式ではなく、「対話」のなかで「ふたり」でことばを動かしていくという形式なら、ことばは動くかなあということも思った。



 「不思議のクニの憲法2018」は2月3日公開。
  「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」「憲法9条改正、これでいいのか」(以上、ポエムピース発行)はアマゾンで発売中。
 「天皇の悲鳴」は下のURLから。(開いたページの右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072865


憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
クリエーター情報なし
ポエムピース
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